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孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


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第65話 妻と踊りたい(3)

「……失礼。少し、風に当たらせてください」


アレクシスは令嬢たちへ短くそれだけ告げると、エレノアの手を引いて、その場を離れた。

これ以上彼女を誰にも見せたくない。と言いたげに、彼の足取りは、迷いなくバルコニーへ向かった。


背後の会場の中からは、依然として華やかな音楽と笑い声が流れてくる。けれどバルコニーだけは、遮断された二人だけの静かな世界のようだった。空には星が輝いて、月が昇ってきていた。外気はじっとりと湿気を含んで、夜になっても暑くなってきている。思わずエレノアがふう、と息をつくと、アレクシスはくるりと振り返った。


「ドレス、どこか苦しくはありませんか?」


アレクシスは気遣わしげに彼女のウエストに手を添える。その指先が、小さく震えていた。


「いいえ、全く。動きやすいです。……それより、リィこそ大丈夫?」


エレノアは、声をひそめ、彼の乱れた前髪をそっと払った。指先に触れる肌は、まだ驚くほど熱い。呼吸も整いきっておらず、瞳の奥にはまだ、あの獣じみた光が燻っている。


(一言、囁いただけなのに)


エレノアは内心、少し呆れながらも愛おしさが込み上げる。


——いつの間に、こんなにわかりやすくなった?


少し前まで、よくわからない人だったのに。



「……ノアのせいです」


掠れた声で、彼が呟いた。言い訳のようで、まるで甘えるような響きだった。


「あなたが、あんなふうに…言うから」


拗ねたような、けれどどこか嬉しそうな声。

エレノアは笑いを堪えながら、彼の頬を両手で包んだ。


「ふふ。じゃあリィ……もう少し、頑張ろうか」

「頑張る、とは」

「まだ夜会は終わってないでしょ?」


からかうように囁くと、アレクシスは降参したように、深く長いため息をついた。



****



結局、アレクシスはエレノアを文字通り一瞬も離さなかった。エレノアに挨拶しようとした男爵がいれば、「あそこにエレノアが好きなものが」と遠ざけ続け、音楽が始まればホールへと誘い、二人して狂ったように踊り続けた。


アレクシスは仕立ての良い上着の内側まで汗だくで、呼吸も絶え絶えだった。その背景では、あまりにもアレクシスが甘い目でエレノアを見つめているので、数人が倒れて運ばれた。


「アレクシス様、ほらこれ、好きな曲でしょう?行きましょう」


好きと思ったことはなかった曲。しかし、エレノアは彼を見ただけで、もうわかるのだった。


上気した桃色の笑顔で手を差し出す彼女を見ながら、 アレクシスの胸が熱くなる。ついこの間の、ノアのベルベットの声が、耳元で響く。


『前に、森で言ってくれたよね。雨が葉に落ちる音が好きだと』


寝る準備をしながら、彼女が言った。いきなりどうしたんだろう、とアレクシスは不思議な気持ちで聞いていた。エレノアは寝台に入ると、腕を開いてアレクシスを呼んだ。アレクシスが言う通りにそこへ行くと、彼女は満足げにゆっくりとアレクシスを抱きしめた。そうして美しいベルベットの声で耳元で囁いてきた。


『リィの”好き”も他の気持ちも、もう隠さなくていい。どんなことでも、人に否定されるようなことでも、もう僕には隠さなくていい。正しくなくていいんだ』


アレクシスの頭を抱きしめながら、銀色の髪を美しくなびかせる。


『もしわからなかったら、僕が教えてあげる。だめだって思うなら、僕が許してあげる。…だから、もう、大丈夫だからね』


不思議だった。彼女の声が、森の雨が土にしみ込んでいくみたいに、アレクシスの頭の中にしみ込んだ。安心感に包まれ、そのままアレクシスは気絶したように眠ったのだった。




****



夜も更けてきた頃、音楽が静かになり始めた。

ワインを飲んでいた二人は顔を見合わせる。


「そろそろ、帰りますか?……僕らの家に」

「はい、僕らの家に」


その言葉が嬉しかったのか、アレクシスの瞳が静かに細められた。


その瞬間のことだった。エレノアは不意に、衣服の隙間をすり抜けてくるような、ねっとりとした不快な気配を肌に感じた。


——誰かがこちらを見ている。


それは今夜踊っていた自分たちに向けられた視線とはまた別のものだと感じた。

野生的な直感で、エレノアは反射的に背後を振り向く。少し離れた大理石の柱の陰。給仕係の制服を着た見慣れない男が、じっと、値踏みするような濁った目でこちらを見ていた。


(たまたまこちらを見ているだけ?それとも、本当に私たちを見ている?)


しかしエレノアと目が合った瞬間、男は何事もなかったかのように表情を消し、影のように人混みの奥へと紛れていく。


「……?」


エレノアがわずかに眉を寄せる。


「どうしました?」


アレクシスが即座にその変化に気づき、彼女を庇うように背後に隠しながら、鋭い視線でその先を追った。


「いや……なんでもないです……」


気のせいだと思いたかった。もう夜会は終わるから、給仕係はたくさんいて動き回っている。例えば、ただ仕事の一環としてホールを見ていた、とか。そしてたまたまこちらの方に顔が向いていたから、見られているように感じたとか。


言い訳のように、エレノアは自分に言い聞かせようとした。しかし、その顔は頭から離れなかった。一度も見たことのない、見覚えのない顔だった。



****



先ほどの給仕とはまったく別に、仕立ての良い衣装を纏った若い男が、離れた場所からエレノアとアレクシスをじっと見ていた。

誰なのか、判然としない。



——あの男が、あんな顔をするのか。


遠くから眺めるその男の内心では、完璧だったはずの公爵令息が、たった一人の女のために、ペースを乱されているという事実への驚きが渦巻いていた。

男にとってそれは、”アレクシスは正気を失いかけている”と判断する材料には十分だった。

それを引き出しているのが、あの令嬢だというのなら。


——一体、何者だ。


ぞくり、と、エレノアの背筋に、また冷たい這うような粟立ちが走った。


楽団が奏でる音楽は、これ以上ないほどに華やかで、幸福に満ちているはずなのに。二人の周りを取り巻く夜会の空気が、ほんの少しずつ、確実に変わり始めていた。まるで奈落の底に隠れていた誰かが、ようやく、光の中に躍り出た二人を「見つけた」かのように――。





本日もお読みいただきありがとうございました。


更新が遅くなってしまい、すみません…!

次回はエレノアのお話です。

この夜会のせいで、社交界の噂の的になってしまったエレノア。どっさりと届いたお茶会の誘いに、ヒントを見出します。


公開は10/9(金)予定です。お楽しみに!

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