第64話 妻と踊りたい(2)
二人が足を踏み入れた瞬間、ざわりと会場が揺れた。
「アレクシス様だわ……!」
「隣の方、誰?…エレノア様……!?」
「なんて綺麗なの……」
「あんな方だった…?」
降り注ぐ視線のすべてが、一瞬にして二人へと向けられる。
以前なら、皆が見ていたのはアレクシスだった。けれど今夜は、アレクシスの隣で静かに立つエレノアへ、誰もが目を奪われている。
——注目の中心にいるのが自分だなんて。
エレノアは、自身の腰に回された彼の手の熱を感じながら、不思議な心地で会場を見渡した。
以前の彼女なら、こうはならなかった。
誰にも見つからないように気配を消し、会場の隅にただひとり立っているだけの令嬢。
か弱く小首を傾げて男性の庇護欲を煽るような愛らしさもなく、誰とでも話し、場を和ませるような社交性もない。
周囲はそんな彼女を、遠巻きに変わり者だと揶揄していた。
——それが今は、社交界の華を傍らに、上階から会場を見下ろしている。
「……みんな、あなたを見ていますね」
耳元に落ちてきた低い声に、エレノアはちらりとアレクシスの横顔を仰ぎ見た。その微かな表情の揺らぎだけで、今の彼女にはすべてが分かった。かつての彼なら、どんな社交の場でも完璧に計算し尽くされた仮面の笑顔を浮かべていた。
微笑みの角度、息の吐き方、声音まで。自分の気持ちはひた隠しにして、どう思われるかを計算して動いていた。
しかし、今夜のアレクシスは違った。
知らない人にはただニコニコしてるように見えるのかもしれない。でも、それだけじゃない。
——彼は今、この剥き出しの社交界の真ん中で、私に酷く甘えている。
その形の良い青い瞳には、隠しきれない独占欲と熱情がそのまま、生々しく浮かんでいる。
何百人という貴族が見守る中で、まるで世界に二人しかいないかのように。そう気付いた瞬間、エレノアの胸の奥が、くすぐったいような愛おしさで甘く疼いた。
(でも、さすがに言っておかないと)
ホールへ向かう階段を下りながら、エレノアはノアの低く滑らかな声で彼の耳元へ小さく囁いた。
「……リィ、こっち見すぎ」
「…すみません」
アレクシスの端正な耳がじわっと赤くなった。
それでも以前のように慌てて仮面を被り直すことはせず、その極上の唇は、だらしなく蕩けたように緩んだままだった。
階段を降り切ってホールヘと着いたとき、ちょうど楽団のワルツが流れ始めた。
「……踊っていただけますか?この僕と」
アレクシスが手を差し出す。
その澄んだ青い瞳が、天井のシャンデリアの光を反射して、恐ろしいほどの熱量で煌めいた。
——リィの目に、星があるみたい。
エレノアはふと、そんな幻想に囚われながら、「はい、アレクシス様」とその掌へ自身の手を重ねた。
フロアへ一歩踏み出した瞬間、周囲の刺すような羨望と嫉妬の視線が、さらに密度を増して押し寄せてくるのが肌で分かった。けれど不思議と、不快感は微塵もなかった。彼の指がエレノアの指の隙間に深く滑り込み、強固に絡み合わされたからだ。
音楽に合わせ、二人はゆっくりと動き出す。
滑るようなステップ。
互いの肌を通して自然に噛み合う、深い呼吸。
エレノアのドレスが、回るたび柔らかく広がった。
シルバーグリーンの布が、夜の光を受けて静かに揺れる。
それはまるで、彼女自身が夜の月光をその身に纏っているかのようだった。周囲の貴族たちから、言葉にならない感嘆の吐息が次々と漏れ出す。
「素敵……」
「お似合いだわ……」
「アレクシス様、あんな顔をなさるのね……」
囁き声が、あちこちから聞こえてくる。
けれどアレクシスは、まるで周囲など存在しないみたいに、エレノアだけを見ていた。
視線が熱い。
エレノアが、そんな彼にいたずらっぽく目を細めた。
——夜会の、ボロボロの舞台で踊ったね。あの時は、男女逆転で。
そんな彼女の声が聞こえた気がして、アレクシスの口元がわずかに緩んだ。
——うん、踊ったね。最高だった。
言葉にはならない。けれど、互いにちゃんと伝わっていた。
二人の世界。見守る周囲はただ二人を見ていた。
不意にアレクシスが、エレノアの細い腰をぐっと強引に引き寄せた。 くるり、と大きくターンする。
締め付けのないドレスがしなやかに彼女の体に寄り添い、二人の身体が一瞬、隙間なく密着した。 エレノアの薄いドレス越しに伝わる、彼の激しい鼓動と高い体温。
(……リィ、心臓すごい早い)
エレノアがくすりと笑うと、アレクシスは照れ隠しのように彼女の腰を抱く手にさらにぎゅっと力を込めた。
咲き誇る大輪の薔薇のようにドレスの裾が翻り、周囲からわずかに歓声が上がる。アレクシスの瞳が、嬉しそうに揺れた。
曲が終わる。
割れんばかりの拍手がフロアを包み込んだ。
緊張していたのに、アレクシスは完璧に踊りきった。
誰もいなければもっと甘やかしてやりたいのだが…エレノアはそっと爪先立ちになり、誰にも聞こえない距離まで顔を寄せて、彼の耳元に唇を寄せた。
「……いい子だ」
短く、低く。ノアの声で囁いた。
その瞬間、アレクシスの喉がひくりと鳴った。
凍りついた青い瞳が、一瞬だけ大きく揺れる。
まるで、鎖を外されるのを待っていた獣のような、縋るような目。
「……っ」
言葉にならない声が漏れる。
(本当に、かわいい人)
戻ろうとした瞬間。
「アレクシス様、次はぜひわたくしと!」
「いえ、わたくしが先です!」
色めき立った令嬢たちが、香水の香りを振り撒きながら一斉にアレクシスへと群がってきた。 だが、令嬢たちはアレクシスの現在の「状態」を間近で見た瞬間、一様に息を呑み、声にならない悲鳴をあげて硬直した。
以前の彼なら、これくらいの運動量で息一つ乱すことはなかったはずだった。
完璧な微笑み、完璧な所作。どれだけ踊ろうとも汗一つかかず、涼しい顔で場を収める。それこそが、彼が社交界で「王子様」と呼ばれた所以だった。なのに、今夜の彼は、明らかに異常だった。
「はぁ、……っ、はぁ……」
そんなに激しく踊ったわけでもないのに、アレクシスの肩は大きく上下に波打っていた。
内側からの熱情とエレノアへの愛欲で汗が流れ、熱気が抑えられない。
とまらない彼の色気に、令嬢たちは声にならない悲鳴をあげた。
「…っ……ふぅ……」
乱れた呼吸のまま、アレクシスは形の良い手の甲で、顎先へ伝い落ちる汗をゆっくりと拭う。 きっちりと整えられていたはずの金の前髪は額に張り付き、肌はまるで内側から沸き立つような、異常な熱を帯びて赤らんでいる。
その仕草ひとつ、浮き出た首筋の筋ひとつに、令嬢たちの頭は完全に真っ白になった。
アレクシスの青い瞳は、焦点を甘く蕩かせたまま、酷くけだるげに細められている。その奥にあるのは、社交的な好意などでは断じてない。剥き出しの熱情だった。
「……ヴァルトハイム卿は、あんな、……あんな方だったか?」
貴族の一人が、ごくりと唾を飲み込んで呟いた。
「王子、というより……まるで……」
誰も、その言葉の先を口にすることはできなかった。
言葉を飲み込んだ貴族の視線の先で、アレクシスは荒い息を吐きながら喉仏を揺らしていた。 とけた瞳と、内側から溢れ出す濃密な熱気。 それは深い夜の奥底で、愛する者を存分に愛でた直後の男そのものの姿だった。
アレクシスは、まとわりつくような令嬢たちの視線など一瞥もくれず、乱れた前髪の隙間から、ただエレノアだけを見つめた。群衆への威嚇を込めるように、エレノアの細い腰へと回した手に、必死に力を込める。
——離さないから。
その執念のような肉体の主張に、周囲の貴族たちはただ、息を呑んでいる。
「……申し訳ありません」
アレクシスは乱れた前髪の隙間から、凍りつくような眼差しを群衆へ向けた。そして、当然の権利を主張するように、エレノアの細い腰へ回した手をさらに強めた。
「僕は妻としか踊りません」
「……!?」
妻。
公の場で放たれたその絶対的な響きに、令嬢たちがざわめき立つ。
周囲の空気が、甘い意味で騒然となっていく。 エレノアがその胸元に寄り添いながら、小さく囁く。
「そんな言い方をしたら……。社交のために、他の方とも一曲くらいは踊った方がいいのでは?」
しかし、アレクシスは底知れない真顔で、彼女の耳元に唇を寄せた。
「嫌だ。一人にしないって、約束したでしょ」
低く掠れた声で言いながら、アレクシスが威嚇するようにチラと目をやった先。令嬢たちの群れの後方には、見覚えのある歪んだ顔があった。
——アメリアは今日、前回の屈辱を晴らすべく、 エレノアに仕返ししようと意気揚々と会場に乗り込んできた。
今度こそ、大衆の面前であの生意気で地味な顔に泥を塗って、惨めに泣かせてやる! と思っていた。
しかし、会場の中心でスポットライトを浴びていたエレノアは、アメリアの知る「日陰の令嬢」などでは断じてなかった。
女神のように圧倒的な美を放つ至高の女性へと変貌を遂げていたのだ。
(あれが……あの地味で不気味だった、エレノア・フォン・ローゼンベルクですって!?)
見たこともない流麗なドレスを纏い、まるで月光そのもののように輝く彼女。
そしてその隣で、万人に平等だったはずのアレクシスが、ドロドロに溶けた蜂蜜のような愛欲の瞳でエレノアだけを見つめている。
(あんな……あんな目を、エレノアに向けてるなんて!)
かつてのアレクシスは、万人に平等で、それゆえに誰にも心を許さない高嶺の花だった。それが今や、隣の女以外周りに1ミリも興味がないと背中に書いてある。
(まさか、エレノアが、彼を変えたの?)
バチリ。
エレノアを壊れ物を扱うように、けれど強固に抱きすくめているアレクシスと、 目が合う。
その瞬間、アレクシスの青い瞳が、獲物を狙う猛獣のように細められる。 前回の見せつけられた濃厚な執着を思い出し、アメリアはまた「ひ‥‥ッ」と小さな悲鳴をあげて、会場から逃げて行った。
アメリアが脱兎のごとく逃げ去るのを見送り、アレクシスはふと冷ややかな息を吐いた。
(……あのアメリアの視線では、ないな)
エレノアを脅かす視線の正体として一瞬よぎったが、このような陳腐な悪意なら護衛も気づくはずだ。
——では、あの気配を消して彼女を舐め回すような視線の主は、一体誰なのか。
アレクシスは腰に回した手にそっと力を込め、深い海のような瞳を一層暗く沈めた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
社交界編、続きます。
次回10/5(月)公開予定です。




