第63話 妻と踊りたい(1)
シルバーグリーンのドレスの裾が、歩くたびに柔らかく揺れる。
令嬢としてではなく、誰かに見せるためのドレスを着て、公の場に立つのは初めてだった。
——さて。
エレノアは一度だけ、深く息を吸って、吐いた。
それだけで、心は整った。
「……っ!!!!」
ユノは口元を押さえ、目を潤ませた。言葉が出ない。鏡の前に立つエレノアを見て、胸がいっぱいになってしまったのだ。
今夜は、アレクシスと正式な婚約者として並んで参加する、初めての社交界だ。
「お嬢様……どんどん綺麗になっていかれますね……」
ユノが感極まったように呟く。エレノアは少し困ったように笑った。
「ユノ、大げさよ」
「アレクシス様、絶対倒れます……」
またそんな、と言おうとして。少し期待してしまう自分もいる。
そのまま二人で階段を下りると、広い玄関ホールには、すでに夜会仕様にばっちりときめた、燕尾服を着たアレクシスが待っていた。
「行きましょうか、エレ…ノ…ア…」
階段を見上げ、エレノアを見たアレクシスが固まる。
青い瞳が、まるで呼吸を忘れたみたいにエレノアへ釘付けになった。自分が作ったドレスを纏ったエレノアが、ゆっくりと階段を下りてくる。
髪は低い位置でまとめられ、金細工の髪飾りが静かに揺れている。片方を編み込んだ前髪と、夜を思わせる深い紫の髪。どこか、ノアの雰囲気にも似ていた。
ヘアアレンジとメイクを担当したユノが、無意識に“ノアらしさ”を混ぜていたのだった。
ノアとエレノア。その境界が、少しずつ溶け始めていた。その光景があまりにも綺麗で。アレクシスは数秒、本当に言葉を失っていた。
―― その顔なら、大丈夫そうだな。
エレノアは安堵し、喜びが湧き上がる。アレクシスの喉が、ごくりと動いた。
「…………似合っています」
「アレクシス様も、とても素敵です」
「ありがとうございます」
実は、今日はメイクも変えてもらった。普段は控え目にしているが、夜会とドレスに映えるようにした。ユノのプロメイドとしての腕が光っている。
「……綺麗…です、エレノア……」
アレクシスの言葉が少なくなってきたので 、エレノアは彼の手を引く。
(ユノ、ありがとう)と目線を送り、屋敷を出発した。
ユノは大満足で二人を見送った。
馬車で向かい合って座っても、アレクシスの視線はずっとエレノアへ向いていた。
何度目かわからないほど目が合う。そのたび、彼はわずかに目を逸らし、数秒後には、また見ている。
「……リィ?」
エレノアが首をかしげると、アレクシスは耐えかねたように隣へ移動し、彼女の隣に腰掛けた。 ぐっと引き寄せられ、彼の熱い体温がドレス越しに伝わってくる。
「……少しだけ、こうさせて」
アレクシスはエレノアの腰にそっと手を回し、その肩に深く顔をうずめた。 自分が仕立てたドレスの柔らかな生地の感触と、そこから立ち上る彼女自身の甘い香り。 抱きしめる腕の力が無意識に強くなり、彼の荒い息がエレノアの首筋をくすぐる。
「……会場に着く前に、落ち着かないと」
呟かれた低く掠れた声に、今度はエレノアの胸がドクンと跳ね上がった。
会場へ到着し、馬車が止まる。先に降りたアレクシスが、エレノアへ手を差し出す。その手を取った瞬間、 指先が、わずかに熱い。
(……リィが、緊張している?)
エレノアはそっと、その手を握り返した。 二人は並び、会場へと歩く。
****
アレクシスは、夜の光に照らされる彼女の横顔を見る。
ドレスは、光を受けるたび、水面のように静かに色を変える。締め付けられていないのに、美しいシルエット。動くたび、布がやさしく波打った。
彼女がいつも隠している、ノアの月のような美しさがとめどなく溢れて、もう隠せていない。
——誰にも見せたくない。
——でも、みんなに見せびらかしたい。
(彼女の魅力が、ばれてしまう)
相反する二つの気持ちが、「完璧」であるアレクシスの仮面をつけさせてくれない。
もうとっくにそんな仮面はなくなっているはずなのに、長年のくせで、どうしても正解の表情やふるまいをしようとしてしまう。
しかし、そこには自分の本心はない。「無」に一瞬不安になる。
でもそのたびに、エレノアのはちみつ色の瞳と、ノアの声で呼び戻される。
隠せない本心を自覚してしまったことで、さらにじりじりと彼の余裕がなくなる。
会場に着いたばかりなのに、すでにアレクシスの熱はだいぶ上がっていた。
——深呼吸を、しなければ。
彼はゆっくりと息をはく。
『無名の夜会』では、二人で並んでいた。
けれど、想いを伝え合ってから、正式な婚約者として並ぶ夜会は初めてだった。
エレノアの隣に立てる喜びが、彼の足元から湧き上がる。以前は、婚約者として、ただ誠実に振舞おうと必死だった。
——少し前までは、そうだった。
アレクシスの視線が、ふとエレノアの首元へ落ちる。
婚約指輪はまだ届いていない。
あのダイヤがここにあれば——自分のものだと、誰の目にも明らかにできたのに。
そう思う気持ちが、どうしようもなく溢れてくる。
(早く、届いてほしい)
アレクシスがエレノアの左手薬指を、悔しそうになぞった。
それに気づいたエレノアは彼の左手を引き寄せると——その薬指の根元へ、そっと自分の唇を押し当てた。
じわり、と体温を刻み込むような、深々とした口づけ。
「っ……!!?!?」
アレクシスが弾かれたように息を呑み、顔を真っ赤にして固まる。 エレノアはゆっくりと顔を上げると、すべてを見透かしたような琥珀色の瞳を細くして微笑む。
「婚約指輪があれば、良かったのにね?」
ベルベットの声で囁かれ、アレクシスの青い瞳がぐらりと揺れた。 一瞬で全身の体温が沸点を超え、額から滝汗が吹き出してくる。
「っ、ノア……」
「ふふ。これで、リィは僕のもの」
余裕たっぷりに微笑むエレノアに対し、アレクシスはハンカチを取り出す余裕すらないほど動転し、必死に深呼吸を繰り返した。
入口を通る。
会場の扉が近づいて、参加者たちの声がしている。
(これだけは、彼女に伝えないと)
アレクシスはなんとか声を絞り出す。
「今度は、絶対に一人にはしません」
静かな声だった。けれどその奥に、不安と、熱と、必死さが滲んでいる。エレノアは少し目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
そっとハンカチを取り出し、彼の首元に浮かんだ汗を優しく拭う。
「知っています。……頼りにしていますね、アレクシス様」
彼女の温かな指先と、自分に向けられた信頼の眼差し。 それを受けた瞬間、彼の中で渦巻いていた焦燥と熱が、静かで絶対的な「覚悟」へと変わる。
アレクシスはエレノアの手を優しく取り返し、その甲にそっと口づけた。先ほどまで乱れていた息は整い、青い瞳には公爵としての冷徹で圧倒的な気品と、彼女を守る男の強さが宿っている。
「お任せください。僕のエレノア」
低く響く極上の声。
そして二人が会場へ入った瞬間。
豪華な夜会の喧騒が、一瞬にして打ち消された。
ざわり、と会場全体に波紋が広がる。
——誰かが、小さく息を呑んだ。
「……紫髪?」
「あれは、まさか——」
ざわり、と視線が集まり始める。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回、夜の社交界のお話が続きます。
会場へと入った二人。周囲の反応は…??
10/4(日)公開予定です。お楽しみに!




