第62話 あなたが息をできるように
ひっそりとした夜、王都の一角。
ある商会の一室で、男が静かに書類を読んでいた。
書類には様々な貴族たちの個人情報の調査報告が入っている。
その中には…ヴァルトハイム家の事業計画。
ローゼンベルク家の縁談についても書かれていた。
集められた紙の束には、几帳面な文字で日付と場所が書き込まれている。
男は指先で紙の端をなぞり、小さく笑った。
****
その頃、アレクシス邸の執務室では。
ろうそくの明かりが、部屋をオレンジ色に照らしていた。美しい植物柄の壁には、優秀な執事と若い次期公爵の影が伸びていた。
「例の不穏な動きについてですが……」
ギルバートが慎重な面持ちでアレクシスに資料を渡した。
「やはり表向きは正当です」
「そうか...。しかし、なぜ今なんだ?」
アレクシスは冷徹な青い目を資料へと向けた。長年独占していた重要ルートの商権が、役所の不自然な『認可ストップ』で凍結されそうになっていた。このままではアイゼンドルフ全体の商業だけでなく、アレクシスが新しく立ち上げた事業にも影響が出そうだった。
「正当な手続きのはずなのに、何故か競合の新規会社に権利が移りかけていたり……何か、変だ」
「ローゼンベルク公爵もおっしゃられた件も関係あるやもしれません」
アレクシスは口元に手をあて、考え込む。
アイゼンドルフには昔から狩猟の文化があり、広い森や農地もある。古い町だが、乳製品や革製品、農作物といった産業で成り立っていた。
しかし、いつまでも同じことは続けていけない。とアレクシスは考えていた。どの地域にも同じことが言えるが、高齢化も進み、人が減っている。自然が多いため、どうしても収穫量はその年の気候に依存する。今の産業を守りつつ、発展させ、外から新しく人が来るような仕組みを作らなければ…。
父から領地について学ぶたび、その気持ちは強くなっていった。しかし、今までのやり方を未来永劫続けていくことが正しいと信じている古参貴族たちとは意見が合わず、擦り切れる毎日が続いている。
そこに新しく加わった『認可ストップ』の問題。
「そうだな…、父はなんて?」
「調査されています。かなりお怒りです」
「だろうな」
――誰かが裏で動いているのだろうか。
エレノアが感じたという不審者の視線も関係しているのだろうか。エレノアの不安そうな顔を思い出し、アレクシスの顔が一層引き締まる。
「単なる商権の妨害にとどまらず、こちらの身辺を探る動きもあります。……エレノア様が感じられた視線の件と無関係とは思えません」
「……そうだな。僕たちの事業だけでなく、彼女個人を標的にしている可能性も考慮して警戒を強めてくれ」
アレクシスはギルバートに引き続き調査を頼み、スケジュールを確認した後、自室へと向かった。
****
エレノアは部屋で休んでいた。
するとカタリと音がして、『鍵のない扉』が開いてアレクシスが顔を覗かせる。どこか疲れた様子の彼に「お疲れ様です」と声をかけると、アレクシスはほっとしたように目を細めた。
「エレノアに、渡したいものがあります」
渡されたのは、綺麗な布とリボンで結ばれた大きな包みだった。 エレノアはリボンをほどき、そっと布を広げる。
シルバーグリーンの、見たことのないほどなめらかな生地のドレスだった。
シンプルなのに、美しいドレープ。ナイトドレスを思わせる柔らかな曲線なのに、持ち上げると驚くほど軽く柔らかかった。
(とってもきれいだ……)
思わず見惚れていると、アレクシスの優しい声が鼓膜を揺らした。
「ドレスをプレゼントするって、約束したから」
エレノアは記憶を急速に遡った。
――『僕にも作ってほしいな』。
まだ想いが通じ合う前、ネイルを塗り合ったあの夜に。ノアとして、冗談交じりに交わした小さな約束を思い出した。
「覚えて、いてくれたの……? ということは、これ……」
「はい。僕が、あなたのためだけに型紙を興し、縫い上げました」
フフ、と彼が笑う。公務で倒れるほど多忙な彼が、自分のためにこのドレスを縫ってくれていた。胸の奥から、驚きと、言葉にならない熱い感情が込み上げてくる。
――彼が、私のためにこれを。
作れるのもすごいが、この美しいデザインを考えたのもすごい。
「……着てみて、いい…?」
「もちろん。…後ろを向いて」
アレクシスの指先がエレノアの背中に触れ、上質な布が滑り落ちる。 鏡越しに視線が交差した。
真剣な青い瞳。まるで作品を仕上げるような目。それは、仕立て屋としての真剣な目つきのようでいて、エレノアの肌を脳裏に焼き付けようとするような剥き出しの「熱」が宿っている。
アレクシスは片手で彼女の細い腰を引き寄せると、息を呑むほど滑らかな手つきで、身体を締め付けていたコルセットの金具を一瞬で外し去った。
解放された身体に、新しいドレスがするりと滑り込む。
「……え?」
背中の紐がきゅっと結ばれ、あっけないほど一瞬で着替えは終わった。
「苦しくありませんか?」
後ろから腰を優しく包み込まれ、エレノアは鏡を見た。 コルセットを着けていない。それなのに、ドレスの特殊な構造のおかげで、シルエットは息を呑むほど美しく整っていた。
「コルセットがずっと苦しそうだったから。…だから、あなたがちゃんと呼吸できるようにしたかった」
指先が背中をやさしく撫でる。 締め付けがないぶん、呼吸に合わせて胸元のドレープが柔らかく揺れた。 令嬢として“正しく見せる”ための鎧ではない。エレノアが、自然に生きるためのドレスだった。
エレノアは胸に手を当てる。全く苦しくない。それなのに、鏡の中の自分は、今までで一番綺麗だった。
鏡に映った顔を見れば、アレクシスにはエレノアの気持ちが十分に伝わった。
「僕のエレノア…」
アレクシスはエレノアの肩へ額を押しつけ、掠れた声で深く息を吐いた。
(こんなドレスを着させてもらえる日が来るなんて)
細部まで採寸して仕立てたどのドレスより、体に吸い付くようだった。王都の人気のデザイン、流行のデザインのどのドレスよりも素敵だった。誰のものでもない、エレノアのためだけのドレスだとわかる。
エレノアは気づいた。
——歩幅も、肩の角度も、息の吸い方さえも。 自分すら意識していなかったすべてを、この人はずっと見つめていてくれた。
エレノアは、「昼のエレノア」には期待しないと決めて、諦めて生きてきた。息のできない服を着て、息のできない生活をする苦しい未来しか見えなかった。
息ができるのは夜だけでいいと思っていた。燕尾服を着て、スラックスを履いて、誰にも知られないように走って隠れて…。
それなのに鏡の中の自分は、今までのどの姿より自分らしく輝いている。
——そうだ。
(ノアもエレノアも諦めないって、決めたんだから)
エレノアはそっと、背中のアレクシスに腕を回した。
「ありがとう、リィ……。リィの隣でなら私、もっと自分を好きになれそう」
低い声で「リィ」と呼ぶと、アレクシスは愛おしそうに目を細め、その唇を彼女の首筋へと寄せた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回は、両想いになってから初めて夜の社交界に二人で参加するお話です。
10/2(金)公開予定です。




