第58話 幸福な朝と、見えない網
――もしかして、昨夜のアレクシス様がいつもより乱れていたのって、これが原因……?
朝の眩しい光が差し込む洗面所で、エレノアは手鏡を握ったまま、自分の頬が赤くなっていくのを感じていた。 鏡に映る自分は、昨夜の『無名の夜会』で身につけていたノアの『白い仮面』をつけたままだった。
彼のちょっぴり危ない新たな「性癖」を知ってしまった気がしてドギマギしていると、背後の寝台から、衣擦れの音とともに「う……ん……」と微かな声が聞こえた。
アレクシスが、ゆっくりと目を覚ましたのだ。
エレノアは悪戯心が疼き、仮面をつけた姿のまま、彼の横へ静かに滑り込んで寝転んだ。
「おは……」
アレクシスはその瞳をパチクリさせて、ノアを見た。
朝日の中で微笑む白い仮面。琥珀の瞳。
その瞬間、昨夜浴びせられた低いベルベットの声と、鏡の奥まで無限に続いた淫らな熱。
それらが脳裏に鮮烈にフラッシュバックして、 アレクシスの瞳から一瞬で余裕の光が消えた。
彼はだるそうに起き上がると、天蓋のカーテンを引いて朝の光を遮断した。薄暗くなった密室の中で、アレクシスは深い海の底のような瞳でノアを見つめる。
「……どこにも行かないで…… 」
掠れた声でねだるように呟くと同時に、アレクシスの大きな熱い手がノアの腰へと伸び、強引に引き寄せた。
昨夜教え込まれた快感の余韻が、彼の身体を狂わせている。シラフのはずなのに、エレノアを見つめる青い瞳はとろりと潤んで熱を孕んでいる。
降ってきたのは、昨夜の続きのような、深い口づけだった。 彼の手のひらが、驚くほど熱い。
完璧な公爵令息が、朝一番に自分を求めて必死に呼吸を乱している。そのみっともないほどの執着が愛おしくて、エレノアは仮面の奥で目を細め、彼の首に腕を回してその熱をすべて受け入れた。
****
しばらくして、主人の部屋から出てきたエレノアとアレクシスを、出迎えたギルバートと付き添うユノが迎えた。
朝食を食べに居間へ移動する間も、二人は手を繋いでいる。
こんな朝が、もう何度目になるだろう。
最初は気恥ずかしかった使用人たちの視線も、今ではすっかり見慣れたもののように、二人を優しく見守っている。
温かいスープの匂い、窓から差し込む朝日。 ただそれだけのことが、こんなにも幸福だとは知らなかった。
二人の甘い雰囲気を察したのか、ギルバートとユノが嬉しそうに目配せを交わしているのが分かって、エレノアは少しだけ照れくさくなる。
今日はこれから、二人は婚約指輪を買いに行く予定だった。…しかし、そんな平和な朝の空気を破るように、急な来客が告げられた。
エレノアの父・セドリックが、神妙な顔でヴァルトハイム邸を訪れたのだ。
「急にすまない、王都に来る用事があったのだが…。お前たちにも話しておきたいこともあって」
アレクシス、セドリックの緊急の会議が行われることになった。ソファに座った二人に続き、一緒に応接室に入ったエレノアを、父は困惑した表情で見た。
「いや、エレノア、お前は…」
父の言いたいことは分かっていた。 自分を仕事の話から遠ざけようとしているのだ。
女は関わらなくて良い、刺繍でもしていなさいという古い考え。エレノアの胸に、じわりと苦いものが広がる。
(私も、ローゼンベルク家の人間なのに)
守られること自体は、仕方ないと理解していた。
ただ、勝手に「関わらなくていい」と決められることが、いつも苦しかった。確かに、聞いたところでエレノアにできることは無いかもしれないけど。
寂しさを隠して下がろうとした、その時。 アレクシスが澄んだ青い瞳をまっすぐに向け、エレノアへ手を伸ばした。
「…よければ、僕の隣にいて」
その一言は、「守る」ではなく「一緒にいてほしい」という誘いだった。
エレノアの瞳から、苦さがすっと消えていく。代わりに浮かんだのは、深い信頼と、隠しきれない喜びだった。
「…はい」
そう言って彼の手をとり、隣へ座った。二人の迷いのない様子に、父は度肝を抜かれたように目を見張った。
「ローゼンベルク卿、良いですよね?」
アレクシスは完璧な笑顔を貼り付け、こちらへと向き直る。しかし、その目の深い青は笑っていない。
セドリックは「ああ…」と困惑しながらも了承するしかなかった。
「最近、社交界や銀行の周りで不気味な噂がチラホラ出始めていてな…、うちの親戚の家業でも、いきなり難癖をつけられ、権利や金を取ると脅されたと聞いた…」
エレノアは思考を巡らせる。アレクシスにも思い当たることがあるようだった。権利関係など、今までとは違う不穏な気配が漂い始めているらしい。
「うちには直接、何かあったりは?」
エレノアは父に聞く。目には、鷹のように鋭い光が宿っていた。
「いや、うちにはまだ何も起こってはいない。まだ…」
エレノアは頷く。隅にいるユノが心配そうにしているのがわかった。
「お前たちの邪魔をしてすまなかったな」
セドリックは少し現状の話をすると、ユノが紅茶を持ってくる前に帰って行った。
エレノアは、去っていく馬車を見送っていた。
昔から絶対に弱みを見せなかった父の、どこか余裕のない慌ただしい後ろ姿。かつて威厳のあった父が、少し小さくなった気がした。
――お父様、忙しそうだ。
少し表情を曇らせたエレノアに気づいたのか、アレクシスが優しく頬に触れてくる。
「……何かあれば、僕が全力でローゼンベルク家もお守りします」
「ありがとうございます、アレクシス様」
目を伏せて答えながらも、(私にも、何かできることはないかしら)と想いを巡らせる。
アレクシスは優しく微笑むと、エレノアの少し冷たくなった指先を愛おしそうに包み込み、そのまま自分の口元へ運んで小さな口づけを落とした。
「不安にさせてしまいましたね。……ですが、今日は僕たちにとって特別な日です。……指輪、見に行きましょうか」
そう、気を取り直すように優しく囁いた。
エレノアはその気遣いに答えるように、パッと笑顔を向けた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
体調不良のため更新日がずれてしまいすみません。
次話は9/20(日)予定です。




