第55話 番外編③ 笑えるようになった日
桜が満開だった。
庭には二人の人影があった。アレクシスとエレノアが、並んで桜を見上げている。
ギルバートは屋敷の廊下から庭を眺めていた。
あの木を植えたのは、大奥様だった。 「大きくなったら、一緒に見ましょうね」と言って、幼いアレクシス様の手を引いて、土を掘った。
――あれから何年経っただろう。
アレクシスが何か言って、エレノアが笑った。アレクシスも、つられるように笑った。
ギルバートは視線を窓の外に向けたまま、静かに息を吐いた。
(あの子は、ちゃんと笑えるようになりました)
そう、胸の奥で何度も繰り返した。
それを見届けることが自分の仕事だったのだと、ギルバートは初めて思えた。
思い出すのは、ずっと昔のことだ。
アレクシスがまだ幼い頃。
アイゼンドルフのヴァルトハイム屋敷。執務室の片隅で、アレクシスは一人でレースを触っていた。 母上が使っていた、古いドレスのレースだった。
「何をしている」
アレクシスの父、ヴァルトハイム公爵・エドワード様の声が、部屋に響いた。
小さなアレクシスの肩が、びくりと震えた。
「そのような軟弱なものに触れるな。男が、みっともない」
レースが取り上げられた。 アレクシスは何も言わなかった。
ただ、小さな手を膝の上に置いて、うつむいていた。
ギルバートは扉の外で、それを聞いていた。
止めることができなかった。
その夜、奥様がギルバートに言った。
「いつか、あの子が笑える日が来るといいわね、ギルバート 」
「……はい」
それだけしか、言えなかった。
****
アレクシスが成長するにつれて、笑顔はなくなっていった。
いや、正確には「顔だけは笑っている」。
社交界では誰もが「完璧な公爵令息」と称賛した。
けれどギルバートには、わかっていた。
あの笑顔は、鎧だ。
誰にも傷つけられないための、完璧な鎧。
――エレノア様が来てから、何かが変わり始めた。
深夜のキッチンから、かすかに声が聞こえた夜があった。
在庫の不一致と、廊下に残る甘い香り。
翌朝のアレクシスの顔が、いつもより少しだけ穏やかなことに気づいていた。シナモンと果実の香りが漂う朝食の場で、アレクシスは書類を読みながら、ほんの少しだけ口角が上がっていた。
アレクシスが倒れて、エレノアが本格的に屋敷に住むようになって。また少し、屋敷の空気が変わった。
ある日、庭で鳥の名前をエレノアがアレクシスに教えていた。
二人が並んで図鑑を覗いている。
いつの間にか、指が絡まっていた。
ギルバートはお盆を持ったまま、静かに踵を返したのだった。
またある日、応接間を通りかかると、二人がソファに並んで座っていた。
気づけばアレクシスの手が、自然とエレノアの腰に添えられていた。
エレノアはそれを気にする様子もなく、本のページをめくっていた。
二人とも、無言だった。
けれど、その沈黙はギルバートが今まで見てきたどの場面より、静かで、温かかくて。
ギルバートは足音を立てず、廊下を引き返した。
またある日、執務室に書類を届けに行くと、
エレノアがアレクシスの机の横に立っていた。
何か話していたようだが、ふとエレノア様が低い声で「リィ」と呼んだ。
アレクシス様の動きが、止まった。
耳の先が、じわりと赤くなっていく。
「……な、なんですか」
声が上ずっている。
エレノアはいたずらっぽく微笑んでいた。
ギルバートは書類を机に置き、一礼して部屋を出た。
廊下に出てから、自分の口元の綻びに気づいた。
****
お茶を持って応接間に戻ると、二人とも眠っている。
エレノアがアレクシスの肩に頭を預けたまま、静かな寝息を立てている。
アレクシスも、本を手に持ったまま目を閉じていた。
ギルバートはそっとブランケットをかけ、お茶を脇に置いて、部屋を出た。
ずっと、誰にも届かないと思っていた願いが、ようやく形になっていた。
廊下を歩きながら、ギルバートは庭の桜を見た。
(奥様)
心の中で、呼びかける。
(アレクシス様が、笑えるようになりました)
風にゆれて、葉がさわやかな音を立てていた。
ギルバートは、ようやく安心して息を吐いた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回、番外編④ユノとギルバートの過去編です。ヴァルトハイム家へ行った後あたりの時系列のお話です。
9/13(日)公開予定です。
その後第二章公開予定です。第一章と比べてR15回が増えるため楽しみにしていただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします!




