第54話 番外編② ユノだけが知っていること
その夜、ユノは眠れなかった。
知っているのに、知らないふりを続けることは、時々ひどく息苦しい。
それでも止めるつもりはなかった。
自室のベッドに横になっても、目が冴えてしまう。 隣の部屋が、静かすぎるからだ。
お嬢様は、今夜もいない。
どこへ行っているのか、ユノは知っている。 でも、知らないふりをしている。
すべては、あの夜から始まった。
****
何年もローゼンベルク家に仕えていたユノ。
皆が寝静まった、夜中の時間だった。
その日も寝れなくて、なんとなく部屋を出た。
隣のエレノアの部屋から、微かに音がしていることに気づいた。
お嬢様は寝ているはずだ。しかし中から、微かな衣擦れの音が聞こえる。
(…まさか…泥棒?)
恐る恐るドアに触れると、鍵がかかっていなかった。
わずかに押すと、音もなく開いた。
(……誰かいる)
隙間からそっと中を覗いたユノは、完全に息を止めた。
そこにいたのは——。
月の光を全身に浴びて鏡の前に立つ、一人の青年だった。
銀髪はうなじのあたりで低くまとめられ、凛々しく鋭いラインの輪郭。
月明りに煌めく、はちみつ色の、いや、琥珀色の瞳 。
慣れた手つきでネクタイを締め直すと、鏡の中の自分を見て、青年はひとつだけ小さく笑った。
不敵な、それでいて、息が詰まるほど自由な笑み。
(か、かっこいい……っ)
それ以外の言葉が、頭の中から全部消えた。
——待って。
よく見ると、その銀髪に見覚えがある。 その美しい横顔に、見覚えがある。
(…お…お嬢様……!?)
どうして。お嬢様なのに、まるで触れることすら許されない、遠い国の人のように見えるのだろう。
息をするのを忘れていた。
心臓が、止まりそうになった。
その青年——エレノアは仮面を手に取ると、迷いなく窓枠に足をかけた。
(危ない……っ)
思わず声を上げそうになり、床のフローリングをきしませてしまった。 青年の動きが、ピタリと止まる。
気づかれただろうか。 ユノが全身の血を凍らせて息を殺していると、青年はそのまま何も言わず、夜の闇へと身を躍らせた。
窓の下には、手入れされた低木が並んでいる。 音もなく、着地した。
一陣の風がカーテンを揺らし、部屋には静寂だけが残された。
ユノはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
心臓が、ずっとうるさかった。
誰もいない廊下で、両手で口を押さえながら、ささやき声が零れる。
「……か、かっこいい……っ」
それからユノは、エレノアの部屋の鍵をそっと確認した。開いたままだった。もし、他の使用人や旦那様がこれを見つけたら、お嬢様が夜中に出かけていることがばれてしまう。
急いで合鍵をもってきて、静かに、鍵をかけた。
誰にも気づかれないように。
お嬢様にすら、気づかれないように。
****
ある日のことだった。
社交の場で、年配の貴族男性が使用人に横柄な態度を取っていたのに出くわした。
エレノアは静かに、しかし迷いなく割って入った。
「それは少々理不尽ではないでしょうか」
男性の顔色が変わった。
「令嬢が口を出すことではない。分をわきまえなさい」
エレノアはそれ以上抗わず、静かに頭を下げた。 微笑みを崩さず、丁寧に。
でも隣にいた ユノは気づいていた。
お嬢様の瞳には、まったく光がなかった。
あの燕尾服を纏ったときに放っていた、眩いほどの琥珀色の輝きが、どこにも消え失せていた。
この時だけではなかった。令嬢らしさを押し付けられるたび、もしくは心を殺した結果のその完璧な振る舞いを褒められるたびに、むしろエレノアの瞳の輝きは鈍っていった。
(お嬢様……)
胸が、引き裂かれるように痛かった。
その後、廊下で一人になったユノは、さっきの男性の取り巻きたちに捕まり、理不尽な小言をぶつけられていた。
使用人としては、ただ縮こまって頭を下げるしかなかった。
そのとき。
隣に、誰かが立った。
エレノアだった。
お嬢様は、何も言わなかった。
ただ、ユノの隣に毅然と並び立ち、冷徹な目で取り巻きたちをじっと見つめた。
その瞬間、お嬢様の瞳にドクンとあの「夜の琥珀」が灯り、周囲の空気が凍りつく。
取り巻きたちは気圧され、何も言えなくなって立ち去っていった。 誰も令嬢風情が、などと言えなかった。
「……行きましょうか、ユノ」
エレノアはそれだけ言って、歩き出した。
ユノは一瞬、その背中を見つめ――ストン、と腑に落ちた。
お嬢様は、完璧な公爵令嬢。 美しく、控え目。
その時に求められる「人形」の役割を完璧にこなしている。
でも、あの日の夜の姿を思い出して、ユノは気づいたのだ。
(あれが本当のお嬢様)
弱い立場の人を、守っている。
お嬢様は、自分が否定されても、淑女の微笑みで綺麗にやり過ごす。
でも、弱い誰かが理不尽に傷つけられているときだけは、その瞳が燃えている。
昼の令嬢の皮を被りながら、内側にはあの不敵で最高に格好いい「青年の魂」を宿している。
あの夜に見てしまったものは、罪ではなかった。
むしろ――誇るべきものだった。
(……少し不気味で、なんて強くて、愛おしい本性なんだろう)
人形のフリをして世界を欺きながら、夜の闇に紛れて誰かを救い、今またユノをその背中で守ってくれている。
でもその、その底知れない強さが、ユノを惹きつけて離さない。
ときどき「ユノ」といたずらっぽく笑う顔が、お嬢様の本当の顔だ。
この人の秘密を、一生をかけて守る。
そう決めたのは、言葉にするよりずっと前のことだった。
****
ベッドの中で、壁越しに微かな物音が聞こえた。 軽くて、完全に気配を消した、慣れた足取り。
(……お帰りなさい、お嬢様)
心の中でだけ呟き、ユノはそっと目を閉じた。
****
翌朝。
ユノはいつも通りの時間に、エレノアの部屋のドアをノックした。
「お嬢様、おはようございます」
「……おはよう、ユノ」
カーテンを開ける。朝の光が差し込む。
いつも通りの朝だった。
お嬢様は何も言わない。 ユノも何も言わない。
ただ、それでよかった。
それから月日が流れた。
父親同士の決めた相手とエレノアは婚約することになった。
婚約を指示されても、エレノアの毎日は変わらない。
相手は、次期公爵のアレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム。誰もが羨む最高の縁談。けれど、 話が進むたびに、エレノアの目の光は消えていく。
(どんなに辛い日々であっても、私がお側におります…!)
そう、ユノは固く心に誓っていたのだが…。
婚約者の作ったスイーツ店の視察に参加することになった日。アレクシスよりも早くに着いたユノとエレノアは、店の隅から彼を見つめていた。
アレクシスが客である令嬢たちに詰め寄られている。地位、美貌、頭脳。すべてを持っている彼は、にこやかに令嬢たちをかわそうとしていた。
(すごく人気のある方と聞いていた通りだ……)
ユノはただ、そう思っていた。
「ユノ」
低く、悪戯っぽい声が耳元で囁かれた。
「ここは悪役令嬢の出番かしらね?」
ハッとして見上げると、お嬢様の瞳に、あの鮮烈な「夜の光」が爛々と宿っていた。
「助けてさしあげてくるわね」
「え?」
(助けるって、お嬢様、どういう意味…?)
一歩を踏み出し、するりとアレクシスの袖元に入り込むお嬢様。
あの完璧超人のはずのアレクシスが、見たこともないほど鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、2階へ逃げていく。
ユノは呆気に取られ、 慌てて後を追った。
2階のテラス席に二人が移動して少しして。ユノが横の部屋で控えていると、アレクシスがこちらへ来た。
(…え?私の方へ来る?)
人と話すのが苦手なユノは、次期公爵の威圧感に一気に恐怖が込み上げる。
(何か怒られることを、私、しちゃったのかな…!?)
けれど、彼の口から飛び出した質問は、あまりにも予想外なものだった。
「あなたから見て、エレノア嬢はどんな人なのですか?」
ユノは驚く。
そんなこと、彼から聞かれるなんて思っていなかった。
——なんて、なんて言えばいい??
どんな人か、なんて、一言では言い表せない。
でも、ユノの口から出たのは、最も純粋な本心だった。
「エレノアお嬢様は、とてもかっこよくて素敵な方です。お嬢様以上に……その、お嬢様以上に素敵な令嬢はこの世にはいらっしゃいません! 」
令嬢に対して「かっこいい」などというおかしな褒め言葉。普通の貴族なら眉をひそめるか、困惑するはずだ。 しかしアレクシスは不思議そうな顔をして、こう聞いてきた。
「…この世で、一番?」
「はい、一番です」
ユノが答えると、 彼はふっと、柔らかく微笑んだ。
社交界の顔ではない、初めて見る、彼の本当の笑顔だと思った。
(…あ)
——この方なら、お嬢様を理解してくださるのかも。
ユノは唐突に、そう思った。顔に上った熱が熱い。でも、テラスからの風が頬を撫でて冷ましてくれる。
彼はテーブルへと戻っていった。自分の本心を言ったが、彼には伝わったのだとわかった。
(あの方なら……「かっこいい」 お嬢様を否定せず、 壊さずに近づいてくださるかもしれない)
令嬢としてのエレノアだけでなく、あの夜の、最高に格好いいお嬢様の魂ごと、彼は受け止めてくれるのではないか。
(この婚約は、大丈夫なのかも)
ユノはそっと、そんな風に未来に思いを馳せた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回はギルバート視点のエレノアとアレクシス時系列最新の話となります。
公開は9/11(金)予定です。お楽しみに!




