第49話 早く来ないと、花が終わってしまうよ
「まだだめです!」
倒れてから何週間も経ち、熱は少しずつ下がっていった。しかし、一週間高熱にやられた体は、季節が変わろうとしているのに回復しなかった。
アレクシスは仕事に行こうとして、医者に寝台へ戻される。
「まだふらついていらっしゃるではありませんか。こんな状態で外に出したら、私が職を失います…!」
医者は絶対安静を言い渡し、薬をギルバートに渡して帰っていった。ケホ、と咳をして、アレクシスは寝台に寝たまま書類に目を通す。
(文字が……少し滲む)
まだ快調には程遠い。が、さすがに休みすぎて、仕事に影響が出ている。
寝込んでいる間はギルバートが代わりに対応してくれていたが、やはり本人が対応を求められるものも多い。
ドアがノックされ、フィオナが食事を持ってきた。ヴィクトルが作った甘い粥だ。ミルクと砂糖で煮た米と、スパイスが入っている。…エレノアが本を見ながら言っていた料理。
「消化に良いから」と理由をつけて食べるアレクシスに、ヴィクトルは喜んで作っている。
(好きな味だったことは、彼女には黙っておこう)
ひとりうなずいた後、スプーンを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
( なぜわかったのだろう、この料理が好きだって。食べたことなかったのに)
きっと、彼女には言わなくてもお見通しなのだ。
そのはちみつ色の瞳が、ときどき鋭く光る気がする。
(僕や、僕以外のことも、その目で見通している)
そう思うと、ほんの少しだけ、喉の奥が詰まった。
エレノアは、アレクシスの看病をして、すぐに帰ってしまった。
雪の中を走って駆けつけてくれたと、後からギルバートから聞いた。その後、少し経って1通だけ手紙が届いた。
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「親愛なる アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム様
せねばならないことがあるため、しばらくお会いすることがかないません。
終わりましたら会いに行きます。
お体をお大事になさってください。
エレノア・フォン・ローゼンベルク」
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短い手紙なのに、一度では読み終えられなかった。
完璧な字と、言葉。
最後に書かれたその名前で、視線が止まる。
一瞬、彼女からの手紙じゃないのではないかと思った。しかし、彼女の字と名前だった。
あの日に一緒に笑った温度が、遠く感じる。
( ずっと居てくれていいのに。ここはもう、あなたの家でもあるのに)
スプーンを運ぶ手が止まる。
(……いない、のか)
ただそれだけの事実が、妙に遅れてアレクシスの胸に落ちてくる。
「エレノア様、お元気でしょうか…」
フィオナがお茶を入れながら、遠い目をしてつぶやく。
アレクシスがテラスを見れば、雪はなくなり、鳥が遊びに来ていた。
****
少し経って、アレクシスは杖をつきながら、少しずつ歩けるようになってきた。
短時間の外出として、仕事先へ向かう。
自己管理がなっていない、と古参貴族から嫌味が飛んでくる。
アレクシスは自分の手を見る。もう、黒いネイルはなくなっていた。
でも不思議と「もう大丈夫」と、心の声が聞こえる。
****
久しぶりの夜会に参加した。
ノアを探すが、いない。
ずっと待ってみたが、彼は来なかった。ノアがいない夜会は初めてで。
胸に大きな穴が開いた気がした。
穴、というより。
(……空いている)
そこに何かがあった形だけが残っているような感覚。
夜会の終わりまで待った。
最後の馬車が去っても、ノアは現れなかった。
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夜中に起きだし、ゆっくりとキッチンへ下りる。一人で果実酒を作ろうとして、やめた。
(静かすぎる)
庭を散歩してみると、夜風が温かくなってきた。桜のつぼみが膨らんでいるのを、アレクシスはしばらく見ていた。
自室の机の引き出しを開け、エレノアに手紙の返事を書くことにした。
相手は、あの完璧な婚約者だ。
ヴァルトハイムの跡取りとして、一寸の乱れもない、理性的で美しい返書を書かねばならない。
季節の挨拶、体調への感謝、そして再会を願う儀礼的な言葉……。 とペンを走らせる。
桜が咲きそうなこと、
皆がさみしがっていることも書こうとして。
(……さみしい?)
ペンが、少しだけ止まる。
僕も…と書こうとして、ペンが震える。
―― 僕もさみしい。
机に向かい、最後の一文を綴ろうとして、アレクシスは動きを止めた。
―― 僕も、君がいなくて寂しい。
その一言が、どうしても書けない。
書こうとするたびに、ペンを握る右手が激しく震えだす。
初めてだった。さみしいなんて、そんなことを思う日が来るなんて思わなかった。
(…いや、そんなことない)
本当はずっと思っていた。
アレクシスは今まで目をそらしていた自分の気持ちに、気づいた。
――僕はずっと、さみしかったんだ。
感情が跳ね上がることに、あまりに不慣れだった。
「完璧」という枠の中に心を閉じ込めてきた自分には、内側から溢れ出す純粋な渇望は、自分自身を壊す猛毒のように感じられた。
徹夜も平気だった。
仕事漬けも平気だった。
一人でいることも平気だった。誰にも理解されなくても良かった。
なのに、今は…。
震える指先を必死に抑え込み、アレクシスは歯を食いしばる。
ペン先が紙をかすり、ガリ、と不快な音を立てた。
今までの彼なら、すぐにその紙を丸めて捨てていた。けれど、アレクシスは震える手のまま、滲んだインクの跡を見つめ続けた。
(……ああ、そうか)
認めざるを得なかった。
完璧な字など、もう書けない。
――あの優しく、けれどどこか遠い手紙への返事として、僕は今、剥き出しの自分をさらけ出そうとしている。
カチカチと震えるペン先が、ようやく紙を捉えた。歪で、ひどく不器用な、けれど彼自身の魂が刻まれた文字が、そこに一文字ずつ刻まれていく。
歪んだ文字が並ぶ。
そこにあるのは完璧な手紙ではなく、“本音”だった。
―― エレノア。
―― …ノア。
完璧でいなければならない重圧が、ノアの横では消えた。
完璧でいたいと思っていたのに、エレノアの前ではだめだった。
エレノアのことを考えるのに、ノアのこともよぎる。
二人は、いつからか、アレクシスの中で溶け合い始めていた。
そんな馬鹿な、と思う気持ちはもうとっくに消えてしまった。
ノアは夜会にしか現れない。 エレノアは昼の世界の人間だ。 二人が同じ人間であるはずがない。
そう、アレクシスが自分に言い聞かせるのをやめたのは、ある日エレノアが、廊下で外を眺めているときだった。
彼女が壁にもたれてあごに手をあてているのを見た。アレクシスに見られていることに気づき、彼女は急いでドレスを整えた。
あまりにも自然な、とるに足らない、よくある姿だった。
でも、アレクシスの目には二人の像が重なり、動けなかった。あの瞬間、夜なのか昼なのかわからなくなった。
――ノアは、僕の人生が変わり始めた日に現れた。
その孤高の魂に救われた。
隣に立ちたいと思った。守られるのではなく、対等に。
一方で、守りたいと思ったエレノアの前では、いつもカッコ悪い姿ばかり見せてしまう。
――僕は、彼女を守れなかった。
****
日差しが優しくなり、空気が温かくなってきた。
アレクシス邸の裏の林には若葉が伸び始め、季節がめぐってくる。
ガゼボの隣に立つ、桜が咲いた。
今年も見事に咲き、ギルバートが下まで行き、毎日眺めている。
『花、見てみたいです』
そう彼女が言ったのは、まだ落ち葉が舞う頃。もう何か月も前の出来事になってしまった。
(…エレノア)
アレクシスは日陰の中で、ただ桜を眺めて立ち尽くしていた。
(…早く来ないと、花が終わってしまうよ)
****
深夜、アレクシスは目が覚めた。この時間はなんとなく起きてしまう。
仕事をしていたからというのもあるが、考え事があるとこの時間にドレスを作ったり、キッチンへ下りたりした名残だった。
エレノアとも、よくこの時間に鉢合わせた。
(……やはり、静かだ)
廊下へ出る。
桜が咲いているのが、窓から見える。
――そうだ。
手帳に挟んでおけば、エレノアも後から見られる。そう、アレクシスはひらめいた。
花をとりに行こうとして、もう一度桜を見る。
…木の下に、誰か、いる。
――ドッ
心臓がうるさく鳴る。
思わず胸を抑える。
初めは、ギルバートかと思った。
でも、こんな時間に何をしているんだと思ってよく見たら…。
その下にいる人物に気づいた瞬間、アレクシスは庭へ飛び出した。
寝巻きにガウンを羽織った姿で、ふらつきながら走る。
春の夜、音もなく降り注ぐ花びらの中。
ノアが立っていた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回更新は8/30(日)予定です。




