第46話 公爵令息の敗北
R15要素ありです!
――アレクシスは、ずっと夢をみていた。――
意識の底は、ただ暗く、泥のように重かった。
仕事、責任、公爵家の看板……それらを完璧にこなそうとすればするほど、内側の空洞は広がり、そこから熱が漏れ出していく。
(……寒い)
身体は焦げるように熱いのに、心臓の奥だけが凍りついていた。
現実と悪夢の境目が溶け出し、呼吸の仕方も忘れかけていた時――エレノアの声がした。
アレクシス様、と呼んでいる。
真っ暗なのに、アレクシスの中でその声が響く。
辛さが夢の中でそぎ落とされ、温かい感覚がアレクシスの心に戻ってきた。
その声が聞きたかったんだ、とアレクシスは気づく。
「あなたが好きです」
彼女の声が、そう聞こえる。
――ああ、なんて都合の良い夢なんだ。
あのサロンで、彼女が話していた「誰か」。
甘いものが大好きな、特別な人。
彼女にはもう、大切な人がいるのに。
アレクシスは暗闇の中で、ぼんやりと意識を手繰り寄せた。
でも、嬉しい。エレノア…。
もう、どこにも行かないで。
僕のそばにいて欲しい。
『エレノア…!』
暗闇の中。ただ彼女を呼んで、重い体を引きずった。声のする方へ、必死に脚を動かす。
ハーブと、柔らかな石鹸。そして、雪の冷たさを纏った、夜の彼の香り。
脳が、脊髄が、歓喜に震える。
ようやく辿り着き、扉を開けた。 そこに、彼女がいた。
驚きに目を見開いたエレノア。
視界が熱に歪んでよく見えないが、彼女の存在を認めた瞬間、アレクシスの理性は粉々に砕け散った。
(ああ……ようやく、見つけた)
吸い寄せられるように、彼女の身体に倒れ込む。
壁に押し付けた彼女の身体は、驚くほど柔らかく、そして信じられないほどに「熱い」。
薄い布地一枚を隔てて伝わってくる、生々しい素肌の鼓動。
――離さない。二度と、僕の側から離さない。
彼女の首筋に顔を埋め、狂ったようにその香りを吸い込む。
足りない。もっと。
もっと深く、彼女を自分の中に取り込まなければ、この熱に焼き尽くされてしまう。
夢中だった。無意識に手が動き、彼女の細い腰の、柔らかな肌に触れる。
全身を貫いた痺れるような悦びに、アレクシスは何も考えられなくなった。
(……っ……エレノア……ッ!)
――ただ
――君が欲しい…
…不思議だ……。君の首すじに触れてると……すごく落ち着くのに……もっと、奥まで欲しくなる。
朦朧とする意識の中で、アレクシスは気づけば寝台に横たわっていた。
ふわり、と目の前で何かが舞い落ちる。
そこにあったのは、月明かりを束ねたような、純白の銀。
執着していると認めたくなかった、あのノアの髪。
――脳の奥で、張り詰めていた最後の一線が、焼き切れた。
エレノアが、ノア。
ノアが、エレノア。
その矛盾するはずの真実が、熱に浮かされた彼の中で、完璧な正解として結びついた。
「……ノア……?」
震える指先で、その銀糸を辿る。
もう、完璧な公爵令息である必要はない。
彼は、ただの飢えた一人の男として、その名を呼んだ。
「…うん、リィ」
「…!!」
ノアのあの低いトーンで、けれどエレノアの慈愛を込めた顔で返事が返ってくる。
焦点が合わない目で、アレクシスはノアを見つめる。
「エレノア…会いたかった…」
「うん、隣にいるよ。リィ、大丈夫だよ」
やっぱり、ノアの、あの低いトーンだった。 でも、目はエレノアだった。
そう言って彼女は、アレクシスが必死にシーツを掴む手をそっと包み込んだ。手袋の外れた彼の黒い爪に、自分の爪を重ね合わせるようにして。
ノアの声で呼ばれる「リィ」という甘美な毒と、エレノアの瞳に見守られているという背徳感。
その矛盾がアレクシスの心根をえぐり、理性をドロドロに溶かしていく。
「…っ……!!」
エレノアの項に顔を埋めながら、アレクシスは逃げ場のない快楽と絶望の渦の中で、ただ激しく喘ぐしかなかった。
正しくあろうとする彼が、今は獣のように荒い吐息を吐きながら、彼女に縋りつく。
また、何かが焼き切れる音がした。
それは彼が守り続けてきた「完璧な自分」が、たった一人の女性のふたつの人格によって完膚なきまでに破壊された音だった。
****
(何か、夢を見ていた――?)
意識の底から浮上する、その瞬間まで。
アレクシスは、生まれて初めて知るような、身を溶かすほど甘やかで幸福な「熱」に包まれていた。
病の熱だけではない。 もっと生々しく、喉を焼くような渇きを伴う、快い疼き。
腕の中には、驚くほど柔らかく、確かな肉の温もりがある。
アレクシスはその至福の重みを失いたくなくて、無意識のうちに腕を回し、その吸い付くような肌の弾力を、指先で、手のひら全体で愛撫していた。
(……あぁ、幸せだ……ずっと、こうしたかった……)
夢うつつのまま、その柔らかな曲線に深く沈み込み、全身でその脈動をむさぼり尽くそうとして――、
ハッ、と己の荒い呼吸の音で、意識が現実へ浮上した。
アレクシスは薄く目を開ける。よく見えないが、死ぬほど体が重い。
状況を確認しようと横を見た途端、思考が白濁し、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねた。
(――え、エレノア……!?)
同じ布団の、自分の腕の中で、ずっと会いたかった彼女が眠っていた。
ドレスではなく、乱れた寝巻きからは、下着のない剥き出しの肩や鎖骨、生々しい白皙の肌が覗いていた。
己の手のひらが位置する場所に気づき、アレクシスは凄まじい戦慄に身を強張らせた。
(え?え?)
眠りと覚醒の狭間で、彼が「幸せ」だと感じていたものの正体。
彼の左手は、そこにあった。
柔らかく、熱を帯びた存在を、当然のように抱き込んでいる。
(嘘だろ……僕が、これを……?)
一拍遅れて、脳が意味を理解する。
布一枚隔てていない。指先からダイレクトに伝わる、恐ろしいほどの柔らかさと熱量。
「……っ、……え…?…」
あまりの背徳的な快感に、息が止まる。
(待て。僕は、意識を失っている間に、彼女に…… 嘘だろ、僕は…)
一線を越えてしまったのか……!?
夢の余韻として残っていた快感に、一瞬にしてドロリとした重い罪悪感が混じる。
だが、彼を真に狂わせたのは、その手のひらの罪だけではなかった。
「ん……」
腕の中のエレノアが、わずかに眉を寄せ、甘く掠れた寝息を漏らした。
アレクシスの胸に、彼女の小さな吐息が直接吹きかかる。
同時に、はらり、と彼女の頭から滑り落ちた、月光を溶かしたような「シルバーの髪」に気づいた。
「――っ、……!?」
ノア。
直感でそう思った。
いや違う、エレノアだ。
――いや、どっちだ…!?
(僕は、エレノアを抱いたのか? それとも、男であるはずのノアを――!?)
脳裏を走る「彼」の鮮烈な残像が、アレクシスの指先を、強烈な拒絶とともに引き留める。
男であるノアを、こんな、女を貪るような目で見たくない。
エレノアをこんな歪んだ欲望で汚したくない。
駄目だ、離れなければ。
そう激しく拒絶するのに、エレノアの唇から再び「……んっ」と小さな吐息が溢れ、アレクシスの身体にしがみつくように身を寄せてきた。
薄い皮膚の奥の熱が、さらに深く、ダイレクトに手のひらに沈み込む。
(……っ、……ッ!)
ドクン、と体内で何かのタガが外れる音がした。
本格的にスイッチが入りかける。
男の本能が、このまま理性を捨ててすべてを壊して奪えと言っている。
――このまま離したくない。
それだけが、熱の底で繰り返されていた。
熱く、身体の芯が疼く。
いい匂いがする。
(夢だ。これは、あまりに都合のいい地獄の夢だ……)
「……エレノア……、ノア……っ」
どちらの名を呼んだのか、もう分からない。
底なしの罪悪感と欲望の渦に耐えきれず、アレクシスは逃げるように、彼女の無防備な肩口へと額を深く押し付けた。
肌越しに伝わるドクドクとした鼓動の音。
これ以上踏み込んだら、本当に自分が壊れてしまう。
限界を迎えた高熱のアレクシスの意識は、再び深い闇へと沈んでいった。
****
次に目が覚めたとき、部屋は朝の柔らかな光に満ちていた。
「……アレクシス様? お目覚めですか?良かった…!」
傍らには、いつもの完璧に整ったドレス姿のエレノアがいた。髪は深いパープル色で、瞳には昨夜の「熱」など微塵も感じさせない、落ち着いた慈愛が宿っている。
――エレノア?
アレクシスは、激しく脈打つ胸を抑えながら、掠れた声で零した。
手のひらにはまだ、あの恐ろしいほど柔らかい肌の弾力と熱が、生々しくこびりついている。
(…夢、か……?)
あの、布1枚越しの彼女の肌の感触。腕の中に残る、シルバーの髪の重み。
(夢……にしては、あまりに残酷だ……)
混乱と、拭いきれない興奮。
アレクシスは微笑むエレノアを見上げる。
もう以前と同じ顔で、彼女と向き合える気がしなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回公開は8/23(日)予定です。




