第44話 高熱のアレクシス(1)
アレクシスが倒れたという報せは、エレノアがあの冷たくて正しい返事を出して、しばらくしてのことだった。
年が明けて、数日が過ぎた雪の日に、エレノアの元にあまりに唐突に届いた。 執事ギルバートからの、震えるような筆跡。
アレクシスは高熱が続き、一週間も意識が戻らないという。
エレノアは、思考が止まるよりも先に身体を動かしていた。
「私も行きます!」と、フィオナから連絡を受けたユノが血相を変えて部屋に駆け込んでくる。
二人は凍てつく風のなか、王都へ向けて馬車を走らせた。
(……いつか、こうなると思っていた)
エレノアは手を固く握る。あんな働き方をして、誰にも頼らず…。
『自分らしくいることは禁じられている』 かつてリィが漏らした、あきらめのような言葉が耳の奥で聞こえる。
自分にもっと何かができたのではないか。
彼を救えたのではないか。
いや、それは私の思い上がりか……。
沈み込むエレノアの手に、ユノがそっと手を重ねた。
「お嬢様……」
凍える馬車のなかで、その手の温かさが、エレノアの震える心を繋ぎ止めてくれる。
不意に、馬車がゆっくりと停止した。
「……なぜ止まるの?」
御者の小窓が開く。
「申し訳ありませんお嬢様!雪がひどく、馬がこれ以上進むのを怖がっております! 」
外を覗けば、雪かきの跡すら隠すほどの猛吹雪。
立ち往生する馬車がいくつか見える。
——待てない。一刻も。
王都の手前まで来ている。足で行けない距離ではない。
「ユノ、あなたはあとから荷物を持ってきて。私は先に行くわね」
「え⁉お、お嬢様…⁉」
ユノの制止も聞かず、彼女は迷わず雪原に飛び出した。重い冬のドレスが雪を吸って足元を引っ張り、鋭い氷の風が肺を刺す。泥に汚れようとも、凍てつく風が喉を焼こうとも、ただ一人の男の安否だけを求めて、エレノアは必死に足を動かし続けた。
日がどっぷり暮れてからアレクシス邸に辿り着いた彼女の姿に、ギルバートは絶句した。
たった一人、自らの足でやってきたエレノア。
陶器のような肌は寒さと激昂した血で赤く染まり、雪が積もった肩は激しく上下している。 ドレスとブーツは雪と泥まみれだ。
「アレクシス様は!?」
我に返ったギルバートに導かれ、エレノアは三階へと駆け上がった。 エレノアは己の体温など構わず、初めて足を踏み入れるアレクシスの自室へと駆け込んだ。
部屋の静けさに、自分の鼓動が耳鳴りのように轟々と響く。
その部屋の様子に、エレノアは思わず立ち止まった。
——ほんとに、ここが…?
あまりにも静かだった。
あまりにも、人の気配がなかった。
そこは、王都で最も完璧と言われる貴公子の部屋にしては、あまりに簡素で、空虚だった。
広い空間に、最低限の家具。
暖炉のオレンジ色の灯りが、横たわるアレクシスの青白い顔を照らしている。
エレノアは寝台へ駆け寄り、その名を呼んだ。 アレクシスは、苦しげな吐息を漏らしながら、深い眠りの底に沈んでいる。
「先ほど医者が帰ったところで、落ち着いていますが…」
ギルバートが教えてくれる。
「……一週間、お目覚めになりません。医者は過労だと言いますが、これほどまでに眠り続けるのは……」
ギルバートの言葉が、後悔に喉を詰まらせる。
「エレノア様が発たれてから、旦那様はさらに、ご自身を削るように忙殺されて……食事も、睡眠も、何もかもを拒むように」
エレノアはガツンと頭を割られたようなショックを感じた。
「ヴァルトハイムのお義父さまと、お義母さまは…?」
「その…連絡はしましたが、この雪です。アイゼンドルフはもっと天候が荒れているでしょう」
(……いいえ、雪のせいだけじゃない)
エレノアは直感した。あの厳格な両親は、来ないのだ。
エレノアが黙っていると、ギルバートがぼそりとつぶやく。
「公爵様と奥様は、家柄と責務を何よりも重んじる方です。厳しい環境に突き落とし、自力で這い上がってこい。それが、あの方々の教育方針……『愛』なのです 」
じわ…
暖炉の熱でエレノアに付いた雪が溶け出す。
けれど、心の底は氷を流し込まれたように冷えていく。
倒れて一週間。
両親も駆けつけられず、この広い部屋で彼は一人だった。
ギルバート、とエレノアが言う。
「連絡をくれてありがとうございました。…少し二人にしてもらえますか?」
ギルバートははい、と喉を詰まらせ、退室した。
一人残されたエレノアは、アレクシスの熱い手を、折れそうなほど強く握りしめた。
彼の大きな手の爪には、あの日、ノアが施した黒いネイルがまだ残っている。 彼の手を握るエレノアの手にも。
(この人は……ずっと、一人で戦っていた)
握りしめた彼の手が、驚くほど熱い。
その熱は、エレノアの指先を通じて、彼女の心臓をじりじりと焼き焦がすようだった。
初めてケーキ店で彼を見たとき。
社交界での彼の完璧さ。
二人のときは、少し笑ってくれるようになったこと。
両親の前で、固く手を握る姿。
夜会で一緒に踊ったこと…。
どの彼も、必死に生きてる「彼」だった。
——この人は、ずっと一人だったんだ。
誰にも甘えず、誰にも頼らず。 完璧でいることで、自分を守ってきた。
それが、どれほど孤独だったか。
今の自分には、わかる気がした。
この半年、昼も夜も、あなたを一番近くで見てきたから。
完璧な仮面の下に隠されていた、彼の必死な生き様。
完璧でいることでしか自分を守れなかった、その孤独。
エレノアは、熱にうなされるアレクシスの顔を見た。
——守ってあげたい。
それは憧れではなかった。
同情でもなかった。
その感情が、今まで感じたことのない強さで込み上げてきた。
エレノアは、気づかないようにしていた、その熱いものが何なのかわかった。
——アレクシス様。
「あなたが好きです…」
——だから、早く元気になって。
——これからはもっと、あなたのことを教えてほしい。
——もっと一緒にいましょう。
——もうあなたを一人にしたくない。
溢れた言葉は、静寂に消えた。
しばらく、エレノアは彼の手を頬に充て、抱きしめていた。
少しして、濡れタオルを替えるために立ち上がった。その時、質素な部屋には不釣り合いな、棚の一角に目が止まる。
枯れた赤いバラが1輪、花瓶にいけてあった。
(――あの夜会で、私が彼に手渡した薔薇だ)
横には、エレノアがノアとして贈ったあの香水の瓶が据えられていた。
エレノアがプレゼントした、丁寧に畳まれたレースもある。
ヴィクトルと一緒に作ったお菓子の、シワひとつない包み紙も。
昼の私が渡したものと、夜の私が渡したもの。
彼はその正体が同じ私だとはまだ知らないはずなのに、 偶然とは思えない並びだった。
家柄、美貌、金、権力…すべてを手にしているはずの彼が、こんな小さな、ささやかな贈り物を「宝物」のように大切に並べていた。
そこだけが、彼の人生で唯一、呼吸ができる「聖域」だったのだ。
この部屋には、高価な宝石も勲章も飾られていなかった。
代わりに並んでいたのは、彼女が何気なく渡したものばかりだった。
彼が彼女との繋がりをいかに大切に表に出していたのかが、無言のまま伝わってくる。
すべてを持っている彼からは想像もつかない。
小さなひとつ一つを大切にしてくれる人。
エレノアの目から一筋、涙がこぼれた。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回公開は8/17(月)予定です
※R15要素ありです。苦手な方はご注意下さい。




