第43話 アレクシスの深刻な喪失感
何かが、おかしい。
完璧にこなしているはずの仕事が、指の隙間から零れ落ちていくような感覚が抜けない。
(……砂を噛んでいるみたいだ)
いつもなら、別れ際に必ず聞こえてくるはずの、あの声。
また来る?
あの夜、ノアはそれを、言わなかった。
年が明けてから、仕事の密度はさらに苛烈さを増していた。それでもアレクシスは、いつも通り完璧に、滞りなくこなしていた。 だが――。
積み上がる書類、終わりのない会議、冷徹な判断を求められる視察報告。
喉の奥が常に乾き、どれだけ成果を上げても心が満たされない。
その正体がわからないまま、アレクシスは機械的にペンを走らせ続けた。
エレノアからの手紙が届いたのは、一月の初めだった。
丁寧で、非の打ち所のない文面。 新年の挨拶に伺えないこと。実家の事情。深い謝罪の言葉。
美しくて完璧な婚約者らしい手紙だった。
アレクシスは一読して、それを机に置いた。
「そうか」と一言だけ呟き、次の書類へ視線を落とす。
合理的であれば、それで終わるはずだった。
(何か、文字がかすむ……)
理解しているはずの内容が、頭に入ってこない。
来られないのは仕方がない。事情があるのも分かっている。
(……いや、本当に『事情』だけだろうか?)
ふっと、最悪な思考が脳裏をよぎり、胸の奥が冷たく冷え切っていく。
愛想を尽かされたかもしれない 。
思い当たる節なら、いくらでもあった。
実家の事情、という非の打ち所のない丁寧な建前。けれど今の彼には、それが自分への「拒絶」にしか読めなかった。
――思い返せば、最近の自分は最悪だった。
馬車の中やドレスの生地を前に理性を失いかけ、彼女の優しさに甘え、ぶざまに愚痴をこぼし、次期公爵としての、完璧な男としての仮面を自ら粉々に砕いてみせたのだ。
エレノアの前では、完璧な仮面をつけ続けることはもう無理だったから。それに、彼女らしい一面を知るたび、彼女の一挙一動から目が離せなくて。どんな顔が正解か、もうずっとわからなかった。
本来自分が守る立場だったはずの彼女に、逆に守られ、醜態を晒した自分。
「幻滅されて、愛想を尽かされたのだとしても、当然だ……」
サロンの視察日に彼女が言っていた、あの「忘れられない人」の影。
微笑んでくれる彼女を目の前にするとつい忘れてしまうが、こういった瞬間に思い出してしまう。
完璧ですらない今の僕が、エレノアが想う人の面影に勝てるはずもない。
弱音を吐いて縋るような男など、エレノアにとって退屈で目障りな存在だったんじゃないだろうか。
守るべき婚約者に幻滅され、信頼を失ったかもしれない。
正しい言葉を選び、
正しい距離を保ち、
正しい微笑みを返す。
それだけで、人との関係は維持できると思っていた。
けれどエレノアの前では、それが少しずつ崩れていった気がする。
あの夜、廊下で交わした短い言葉すら、今になっては不安定に思える。
(あれは、正しかったのか?)
胸の奥にどろりと溜まったこの不快な「物足りなさ」と、自責の念に、彼は名前を付けられずにいた。
屋敷が、耳が痛くなるほどに静かだった。
廊下を歩いても、誰かの気配がない。
いや、使用人たちはそこにいる。ギルバートも、ヴィクトルも、フィオナも。 けれど、アレクシスの本能が「そこにあるべき体温」の欠如を、執拗にアラートとして鳴らし続けていた。
キッチンを通りかかったとき、棚の瓶が目に入った。あの夜、二人で囲んだスープの素が入った瓶。 無意識に手を伸ばし、その冷たいガラスの感触を確かめる。……それだけで、すぐに手を離した。
(――腹は空いていない)
執務室に戻る途中、ドアノブに視線が止まる。 何も掛けられていない。気づけば、何もない場所をただ見ていた。
客室に入る。彼女が残していった私物が、まだいくつか置かれている。好んで眺めていた、鳥の図鑑。
手にとって、指でなぞる。エレノアが使っていた椅子に座る。
自室に戻り、重い指先で手帳を開く。 そこには、エレノアから贈られた庭の白い花の押し花が、一つだけ静かに眠っていた。それを指でなぞろうとして、止める。今の自分の指先は、驚くほど冷え切っていた。
――エレノアがいた場所に、エレノアがいない。
客室の前を通る。
扉は閉まっている。それだけなのに、胸の奥がひどく軋んだ。
もう誰もいない。
あの部屋には。
しかし足だけが、意味もなくそこへ向かおうとしてしまう。
食欲は、とうに消えていた。
ヴィクトルが用意したサンドイッチを口に運ぶ。味はした。だが何を食べたのか覚えていない。気付けば半分以上残す日が続いた。
翌日も。
その次の日も。
皿は少しずつ手付かずのまま下げられていった。
エレノアがいた頃は、不思議と食事が喉を通った。 なぜだったのだろう。
夜は、一口も受け付けなかった。
眠ろうとしても、まぶたの裏に焼き付くのは、あの夜のキッチンの、月明かりに照らされた彼女の横顔。
(……喉が、焼けるように熱い)
息苦しい。
眠れず、夜中にキッチンへ降り、あの瓶を手にする。 けれど、湯を注ぐ気にはなれなかった。
彼女が隣にいないのなら、それはただの「味のする液体」に過ぎない。
夜会の日が近づいていた。
常に社交の場を支配してきた彼が、今月は、泥のように体が重い。 立ち上がれる気がしなかった。
「エレノアにも…ノアにも、会えない」
その事実が、鉄の枷のように彼の心臓を締め付けた。
ふと、手袋を外した。黒い爪が、灯りに照らされる。しばらく、それを見つめた。
なぜ自分がこれほどまでに「ノア」という存在を、そして「エレノア」という存在を渇望しているのか。その理由に目を向ける余裕さえ、今の彼には残されていなかった。
「旦那様、最近、お食事はほとんど召し上がっておられませんが」
ギルバートの声が、遠くから響く。
「後で食べる」
その声は、自分でも驚くほど掠れていた。
扉が閉まる。
アレクシスは書類を握りしめたまま、動かなかった。
(寒いな……)
窓の外は、凍てつくような雪。
アレクシスの視界が、一瞬だけぐにゃりと歪んだ。
——はちみつ色の瞳が、浮かんだ。
温かい色だった。 あの色だけが、今の自分には眩しかった。
脳の奥で、張り詰めていた最後の一線が、ふつりと断ち切れた。
暗転する意識の底で、なおも彼は、自分を置き去りにした「香り」を追い求めていた。
「旦那様!」
誰かの声が聞こえた気がした。
けれど、もう返事はできなかった。




