第42話 近づく夜、遠ざかる影
今年最後の『無名の夜会』は、王都の外れにある洋館で、今夜も静かに熱を帯びていた。
アレクシス――ここでは「リィ」と呼ばれる女装した公爵令息は、闇に浮かぶ紫のランタンを頼りに、その門を潜る。
執務机の上には、まだ片付かない書類の山がある。けれど、心の中の正体不明の飢餓感に抗えなかった。
少しの時間でもいい、彼に会わなければ、自分が自分でなくなってしまう気がした。
門番が重厚なドアを開ける。
色褪せたレッドカーペットが敷かれた入口で、案内人が一輪の白い薔薇を差し出した。
「今宵は、最も心が動いた相手へ。髪や胸元、あるいは手元に贈る催しです」
薔薇を受け取ったアレクシスは、会場へ足を踏み入れる。 そして、すぐに見つけた。
壁に寄りかかり、薔薇の香りをなぞるように鼻先で弄ぶ青年、ノア。
右側の銀髪を編み込み、後ろで束ねたその立ち姿は、今夜も残酷なほどに完成されていた。
声をかけようとして、アレクシスは軽い眩暈に襲われた。 連日の寝不足と多忙、そして何より胸を支配する謎の焦燥感が体力を奪っている。
隅のテーブルに腰を下ろし、冷えた水で喉を潤しながら、ただ彼を見つめた。
ノアの所作は、その一つひとつが芸術のようだ。
初めて会った時から変わらない、スマートな強さと、否定を許さない妖艶さ。
彼の前に出ると、完璧に塗り固めた「公爵跡継ぎ」の自分は消え失せ、ただの「リィ」という抜け殻だけが残る。
その時、一人の男がノアに声をかけた。 以前もノアに声をかけていた、見覚えのある青年だ。 ノアは、その男と朗らかに、対等に言葉を交わしている。
――チリっ、と。 喉の奥が焼けるような、嫌な熱が走った。
なぜ、僕はノアが自分以外と笑っているだけで、こんなにも落ち着かなくなるのか。
「え……?」
思わず声が漏れた。
青年が、深紅の薔薇をノアの前に跪いて差し出したのだ。 ノアは少し驚いたように目を細め――それを、静かに受け取った。ドクッ、と心臓が鳴る。 視界が赤く染まるような錯覚。
(受け取らないでくれ)
気づけば、アレクシスは立ち上がり、ノアの元へ駆け寄っていた。
無作法なほど強く、ノアの袖を掴む。
「……リィ? 来ていたのか」
振り返ったノアの瞳が、驚きに揺れる。 アレクシスの肩は激しく上下し、息は浅い。ただならぬ様子に、跪いていた男も立ち上がった。
「ありがとう、ノア。……僕、今日はもう帰るよ」
青年はノアと固く握手を交わし、最後には親愛を込めて抱き合って帰っていった。
その背中を見送りながら、アレクシスは自分が何をすべきか、何と言うべきか、混濁した意識の中で迷い、立ち尽くした。
「……こっちに、行ってみようか。テラスに出られるみたいだから」
ノアの声は、いつもより少し低く、そっけなく響いた。
まるで、アレクシスの中に渦巻く嵐を見透かしているような、静かな響き。
二人は並んで、冷たい夜気を孕むテラスへ出た。
「ねえ、リィ」
その音だけで、アレクシスの呼吸が止まる。
「……なに?」
「今更だけど。その名前、気に入った?」
一拍の沈黙。 アレクシスは、自嘲するように目を伏せた。
「うん……僕のものになったみたいだ。とても、しっくりきている」
僕の本名は、アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイム。
「リィ」という響きをノアから贈られたとき、心臓が止まるかと思うほど驚いたのを覚えている。かつて、亡き祖母だけが僕を「ユリィ」と呼んでいたから。
公爵家の跡継ぎという重責を脱ぎ捨て、ただの一人の人間として扱われていたあの頃の、懐かしく温かな記憶。
「アレクシス」という仮面を剥がされ、素の自分――「リィ」に戻れるこの場所だけが、僕にとって唯一呼吸のできる聖域だった。
「リィ」でいる間は、不思議とエレノアの前でも自然に振る舞えるような気がしていた。
……けれど、最近はどうにも上手くいかない。
ドレスの生地に理性を失いかけたあの無様な姿。
仕事の弱音を吐いて、彼女に慰められてしまった情けなさ。
(……きっと、愛想を尽かされてしまったに違いない)
そう思うと、胸の奥がチリチリと痛む。
もともと、彼女には別に好きな人がいるのだ。
サロンの視察日に彼女が言っていた、あの「忘れられない人」。
完璧ですらない今の僕が、その影に勝てるはずもないのに。
そのとき、不穏な会話がすれ違う参加者から聞こえてきた。
『最近、無名の夜会も目をつけられているらしい』
『身分の高い者が混じっているとか……』
『開催者の体調が芳しくないらしいぞ』
夜の世界に紛れ込む、不吉な昼の話題。
アレクシスの背筋が、わずかに強張る。
――夜会が、なくなる?… そうなれば、もうこの青年に会う術はない。
その動揺を察したのか、ノアが自然に立ち位置を変えた。
アレクシスを建物の影へ隠すように、そっとその背を守る。
アレクシスは驚いて、隣のノアを見上げた。
「……平気?」
ノアの問いかけは、あまりに優しかった。
どちらが守るべき男なのか。どちらが上に立つ者なのか。公爵家の人間として、ヴァルトハイム家の人間として、無理やり押し付けられてきたアレクシスの境界が、またひとつ、この夜の風に溶けていく。
(そうか)
アレクシスは、理解した。
押し付けられた"こうあるべき"という価値観から、この人は、いつも自由だった。
だから僕は、こんなにも、彼の隣にいたかったんだ。
中性的な彼。男性的なカッコよさも、女性的な美しさも持っている。
立場の上下も関係なく、自由に振舞って。
ノアは輝いている。
そんなあなたの隣に堂々と立てるような人間になりたいって、いつの間にか思っていた。
冬の風は冷たかったが、締め切った会場で火照った体には心地良い。
アレクシスは、震える声で問いかけた。
「ねえ、ノア。もし……この夜が、なくなったら」
ノアは答えなかった。
一瞬だけ視線を伏せる。
まるで別のことを考えているように。
「……なくならない」
静かな声だった。
だが、その返事の仕方はどこか噛み合っていない気がした。
その悲しみは夜会そのものに向けられているようには見えなかった。
「でも、もし」
アレクシスの目は、真剣だった。
ただ、魂が彼を求めて叫んでいた。
ノアは、何かを決意したように微笑む。
「そのときは、昼でも会えばいい」
アレクシスの呼吸が止まった。 心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃。
「……無理か」
ノアは切なく笑った。
その微笑みは、いつもの不敵なものとは違う。
何かを、自分自身で葬り去るような、悲痛な決意を秘めた色をしていた。
――違うんだ、ノア。
無理なのは、僕の勇気が足りないからだ。
「アレクシス」として君の元へ行けば、僕は君を「ノア」として失ってしまう。
そして「リィ」として君を求めれば、君を昼の世界に引きずり込み、その気高さを汚してしまう。
けれど、ノアが浮かべたその表情は。
まるで、「昼の世界で会うのなら、もう僕はノアではいられない」と、自分の死を予感している騎士のようで。
ノアとして、あなたの隣に立つ夜は、もう終わるのだと言外に告げられた気がした。
予感がした。
この美しい人は、僕の知らないところで、独り、消えていく準備をしているのではないか――。
ノアは、リィの手元にある白い薔薇を、そっと指先でなぞった。
その爪には、自分とお揃いの「黒」がまだ残っている。
それを見た瞬間、アレクシスの中で何かが満ちた。
(僕も、あなたのように、なれるだろうか)
「リィ」
「なに?」
「僕はノアでいられる時間が好きだった」
静かな声。
「君に会えたから」
ノアが、アレクシスの方へ向き直る。
「これを、君に」
ノアが、先ほど男から受け取った深紅の薔薇を、アレクシスに差し出した。
それは「受け取ったもの」を、そのまま愛する者に捧げるという、究極の譲渡だった。
「……僕も、あなたに」
アレクシスは、震える手で白い薔薇を差し出す。
赤と白。二つの魂が、薔薇という形を借りて入れ替わる。
それは、一方的な庇護ではない。
二人が、お互いの弱さも正体も、すべてを飲み込んで対等に立ち続けるという誓いの儀式のようだった。
――この夜が終わっても…。
アレクシスは、自分の手の中に残った深紅の薔薇を強く握りしめた。
「また来る?」 いつも聞いていた約束を、ノアは言わなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回の公開は8/14(金)予定です。




