第41話 どちらの名前で、あなたに会えばいい
オスカー・ド・ヴィルヌーヴの傲慢な宣戦布告から、明けた翌日の午後。
ローゼンベルク家では緊急の家族会議が開かれていた。 議題は、オスカーのあの不穏な捨て台詞についてだ。
「ヴィルヌーヴ家には良い噂は聞かない。何かしら仕掛けてくる可能性は否定できない」
父が険しい顔で書類を広げる。 エレノアは胸元を抑えた。自分のせいで、家や、ひいてはアレクシスにまで迷惑がかかるのではないか。
「アレクシス様に、ご報告したほうがいいのでしょうか」
父は静かに首を振った。
「まずは私が裏の動きを調べてからにしよう。不確かな情報で、あちらの公爵家を混乱させるわけにはいかない」
保留。その言葉に安堵しつつも、屋敷の警備は以前より明らかに厳しくなり、父の机の上には見慣れない報告書が増えていった。
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自室に戻ったエレノアは、動かない時間の中にいた。
鏡の前に立つ。映し出されているのは、非の打ち所のない 「ローゼンベルク家の令嬢」の姿だ。
けれど、その瞳の奥には、「ノア」と名付けた自我が、はちみつ色の目に静かに宿っている。
(リィは……アレクシス様だった)
(アレクシス様……あなたも、あの夜会で、私と同じように『誰でもない誰か』になりたかったんだね)
リィ=アレクシス。
その事実は、驚き以上に深い安堵をもたらしていた。
社会が求める「完璧な跡継ぎ」という型に押し込められ、息ができなくなっていたのは自分だけではなかったのだ。
彼にとっての「リィ」は、私が「ノア」になって夜を謳歌するのと同じ、命を守るための切実な呼吸穴だったかもしれない。
(あんなに可愛い人が、実は彼だったなんて)
一度確信してしまえば、言葉にできない愛おしさが込み上げてくる。
リィが見せていたあの柔らかな微笑み。
はにかんだような、繊細な表情。
あれは演技ではなかった。
重責の鎧を脱いだ彼の中にある、本当の優しさが漏れ出たものだったのだ。
(もう、知らないふりはできない……。けれど、ノアとしてリィに会えないのも辛い)
オスカーの一件で気づかされた。 アレクシスの隣にいるとき、自分はコルセットに縛られることなく、深く息ができていたことを。
あの男は、アレクシスの表面的な数字と権力しか見ていなかった。
…でも、私だけが知っている。
不器用で、孤独で、けれど誰よりも気高い、あの「美しさ」を。
(……リィ)
そして彼なら、自分の中にある「ノア」としての強さも鋭さも、全てを丸ごと受け止めてくれるのではないか。
そんな淡い期待が、はちみつ色の瞳を熱く揺らした。
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「お嬢様、お茶をお持ちしました」
ユノが運んできた温かな紅茶の香りに、エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
「……ユノ。あなたはアレクシス様のこと、どう思っている?」
「最初は本心が見えない方だと思いました。でも、お嬢様を大切にしてくれる方なんじゃないでしょうか」
ユノはニコリと笑い、それから声を潜めた。
「対して、あのオスカー様は最悪です。お嬢様を物のように扱って……あんな方と並ぶなんて、考えただけで、もう……!」
ユノの素直な言葉に、エレノアはふっと笑みをこぼした。
今月末には、新年を祝う『無名の夜会』がある。アレクシスは間違いなく出席するだろう。
エレノアは気づいたら、トランクの前に立っていた。
鍵に手をかけて、止まる。
この中には、ノアとしての装いが眠っている。 燕尾服。シークレットブーツ。白い仮面。
手が、動かなかった。
今までは迷わなかった。 夜会の日が来れば、自然と着替えて、自然と向かっていた。
でも今は。
(ノアとして会いに行って、何を話せばいい?)
リィは、ノアを大切に思ってくれている。
……少なくとも、エレノアはそう感じていた。
でも、リィはアレクシスだ。彼はまだ知らない。 ノアとエレノアが、同じ人間だということを。
彼の中では、二人はまだ別々に存在している。ノアはノア。エレノアはエレノア。
そのどちらかを選んで会いに行くことが、今の自分にはできなかった。
トランクの鍵を、そっと離した。
今回は、行けないかもしれない。 ノアとしても、エレノアとしても。
どちらの顔で会いに行けばいいのか、わからなかった。
(今の私は、何と名乗って、あなたに会えばいい?)
実家に帰ったら送る、と言った手紙。
書きかけた「親愛なる」という文字を、ペン先で塗りつぶす。
結局、彼へ宛てた手紙は、込み入った感情を全て隠した、冷たくて正しい「新年の挨拶を辞退する」手紙になってしまった。
封をされた手紙が、夜の闇の中でひっそりと、主の元へ届くのを待っていた。
「……アレクシス様」
一度だけ、誰もいない部屋でその名を呼ぶ。
けれど心の中では、届かない「彼女」の名前を叫んでいた。
(リィ。……会いたい。会って、あなたの名前を呼びたい)
今度は私が、あなたが息をつける場所になりたい。
だが年が明けて。
その返事が、アレクシス以外から返ってくることになるとは。
この時のエレノアはまだ知らなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回更新は8/10(月)予定です。




