第40話 敵対貴族 来る
「エレノア嬢、庭を少し歩かないか。令嬢は適度な運動も美徳のうちだ」
オスカー・ド・ヴィルヌーヴは、挨拶もそこそこにエレノアを連れ出した。
その強引に腕を取る仕草に、背後で父が狼狽えるのがわかる。
エレノアは片手でそれを制し、「大丈夫」と視線だけを送って歩き出した。
ヴィルヌーヴ侯爵家。
祖父の代に金融業で一代を築き、急速に富と地位を伸ばした一族だ。
彼との縁談があったなんて知らなかった。
しかし、昨日の様子から考えても、この話は絶対に父の意志ではない。
…もしかしたら。
(……アレクシス様への、嫌がらせ?)
――私が彼のもとを離れた瞬間に現れたのは偶然ではないだろう。
もしかしてアレクシス様は、こういう事態も予想して私をあの屋敷へ匿っていたのだろうか。
冬の冷たい空気が頬を刺すが、彼はエレノアの歩幅を気にする様子もない。
エレノアをじろりと上から下まで一瞥し、独りよがりに語り続ける。
「本来、男女にはそれぞれの役割というものがある。男は外で戦い、富を築く。女は家を守り、その富を美しく飾る。
君は社交界にもあまり出ないし、飾りっ気もないね。公爵令嬢ならその富を外部に知らしめることも必要だよ。
……君の父上は少し君を自由にさせすぎたようだが、我が家に来れば、正しい淑女の在り方を教えてあげられるよ」
オスカーは、それがさも「親切」であるかのように、自信たっぷりに語る。エレノアは、言い返したくなり口を開いた。
「でも。家を守るためには、外の情勢や経済の動きを知っておくことも、管理者の妻としては必要ではありませんか?」
ギルバートとの会話から学んだ、彼女なりの問いかけ。 だが、オスカーは鼻で笑い、彼女の言葉を即座に踏みにじった。
「自分の意見を言える立場だと思っているのか?まずは夫の言うことには”はい”とうなずくものだ。小難しいことは男に任せ、君は刺繍の手を休めず、私の隣で微笑みを絶やさないことだ。それ以上の主張は、女の美しさを損なうだけだよ 」
(なんだこいつ……)
額に血管が浮くのを感じると同時に、胸元が苦しくなる。
コルセットが急にきつくなったような、肺に空気が入ってこない感覚。
最低だ、と思うのに。言葉は今までエレノアに投げかけられてきた、「令嬢」としての強制を思い出させる。
目の前の男が差し出す「未来」は、豪華な装飾が施された、窓のない牢獄のようだった。令嬢という枠、女という役割。その型に無理やり押し込まれる痛み。
だが、その苦しさの中で、エレノアは思い出した。
(……アレクシス様は、一度もそんなこと言わなかった)
あの屋敷にいた三ヶ月。彼は彼女を飾り物として扱わず、一人の対等な人間として、自分の「熱」を隠そうとはしなかった。
冬の庭、オスカーの傲慢な言葉を背に受けながら、エレノアは胸元を抑えた。
コルセットのせいではない。
(アレクシス様の横にいたときは……ドレスを着ていても、あんなに深く息を吸えてた)
そうだ、息ができなかったことすら、いつの間にか忘れていた。
アレクシスは、彼女に「こうあれ」と強要したことは一度もなかった。何かを教え込もうとも、飾り物として扱おうともしなかった。むしろ、ゆるいドレスを贈り、「あなたのままでいい」と言ってくれた。
エレノアがそこにいることを静かに受け入れ、エレノアの言葉に耳を傾け、同じ時間を共有することを慈しんでくれた。
(あの人は……仕事の話だって、私に隠そうとはしなかった。私が理解しているかどうかなんて関係なく、ただ、隣にいることを許してくれた)
深夜まで書類に向き合うアレクシスの、硬く、けれど誠実な背中。
深夜にキッチンで会ったら、一緒にワインを飲む時間。
その裏で彼がどれほどの重圧を背負い、どれほどの覚悟で新しい道を切り拓こうとしていたか。
エレノアは、その事業の数字こそ知らない。けれど、彼がどれほどの「熱」を注いでいたかは、誰よりも近くで見てきた。
「ローゼンベルク公爵と話さねば」
オスカーは悠々と応接室に戻る。
彼はユノが入れた紅茶を、ユノの方を見ようともせずに手を付けた。
「アレクシス・ユリウス・ヴァルトハイムか。あんな、先祖の遺産を食いつぶして、得体の知れない『新事業』などという博打に手を出している男のどこがいい? 聞けば、各方面に頭を下げて融資を乞うているそうじゃないか。
公爵家の誇りも投げ捨てて、泥臭い商売に現を抜かす……。あれはもう、貴族ではない。ただの『品性の卑しい商人』に成り下がったのだよ。
融資が止まれば、あの屋敷もろとも砂の城のように崩れ去る。君のような高貴な令嬢が、あんな『負債の塊』に寄り添う必要はない」
オスカーが「融資」という言葉でアレクシスを貶めた瞬間、エレノアの中で何かが静かに、けれど決定的に弾けた。
「……随分と、お安いお話ですこと。ヴィルヌーヴ様」
「……何だと?」
「アレクシス様を、『品性の卑しい商人』と仰いましたか? 」
エレノアは、はちみつ色の瞳を真っ直ぐにオスカーへ向けた。オスカーはハッ!と鼻で笑い飛ばした。
「女に何が分かる!」
オスカーは吐き捨てた。
エレノアは一瞬だけ目を伏せ、そして静かに顔を上げる。
「……女だから?」
声は驚くほど冷たかった。
「だから何ですの?」
オスカーが眉をひそめる。
「あなたは知らないでしょうけれど、私はあのお店を何度も見ています」
「は?」
「身分も関係なく、人が集まってくる。明日が楽しみだと笑っている。アレクシス様は、それを作ったんです」
オスカーは鼻で笑った。
「くだらない。結局は商売だろう。金を稼ぐための見世物に過ぎん」
エレノアは小さく息を吐いた。
「そうですか」
その声音から、淑女らしい柔らかさが消えていく。
「では聞くけど」
オスカーの眉がぴくりと動いた。
「君は何を作ったんだ?」
「……何?」
「何を残した?」
一歩、前へ出る。
「金融業は立派な仕事だ。だがアレクシス様は、人が集まる場所を作った。人が働く場所を作った。人が未来を語る場所を作った。君は?」
静かな問いだった。しかし、その場の空気を切り裂くほど鋭かった。
オスカーの顔から笑みが消える。
「融資が止まれば終わりだ!」
「終わらない」
即答だった。
「きっと、彼はまた立ち上がる」
「……っ」
「君は何も分かっていない」
エレノアは真っ直ぐにオスカーを見た。
「彼は、自分で歩いている人だ。誰かの権威を借りて威張る人間じゃない。自分で考えて、自分で責任を背負って、それでも前へ進む」
オスカーの顔が怒りで歪む。
「貴様……!」
エレノアはもう怯まなかった。その瞳は冷え切っている。
「君は、彼を負債の塊だと言ったね。融資が止まれば終わりだとも」
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。けれどその笑みは温かくない。さらに一歩近づく。
「君は金しか見ていない。だから分からないんだ。
人が何を信じているのかも、何のために働くのかも。…何を守ろうとしているのかも」
そして最後に、吐き捨てるように言う。
「君の金貨の音は、彼の静かな吐息より、ずっと安っぽい」
はちみつ色の瞳が細められる。
「……反吐が出る」
「ローゼンベルク……っ、我が家を敵に回すつもりか!」
オスカーが激昂して手を上げようとした瞬間、部屋の扉が静かに、だが重々しく開いた。
「そこまでだ、ヴィルヌーヴ卿」
控えていたエレノアの父が、毅然とした態度で割って入った。
「娘の言う通りだ。我がローゼンベルク家が求めているのは、貴殿のような周りを蹴落として繁栄しようとする者ではない。……お引き取り願おう。我が家と貴殿との縁談は、万に一つもない」
「……っ! 後悔させてやるぞ!」
捨て台詞を残して去っていくオスカーの足音を聞きながら、エレノアはふう、と深く息を吐いた。
肩の力が抜けると同時に、胸の奥から熱い感情が込み上げてくる。
(彼なら……きっと、もっと静かに、もっと優雅に相手を追い詰めた)
彼がいない場所で、彼を侮辱されたことに、自分でも驚くほどの怒りを感じた。
そして、彼がどれほど自分を「一人の人間」として大切に扱ってくれていたのかを、実家に戻って早々に再確認させられてしまった。
「エレノア、大丈夫か? ……あんなにハッキリ言うなんて、驚いたぞ」
心配そうに駆け寄る父に、エレノアはコホン!とかわいい咳で声を整える。
しかしその表情は、令嬢としての淑やかさと、ノアとしての不敵さが混ざり合った、無敵の美しさだった。
「ええ、お父様。……少し私は変わったのかも」
そう言って彼女は、アレクシスから贈られたケープを指先でなぞった。
離れているからこそ、彼が自分に与えてくれた「自由」という名の翼が、どれほど誇らしいものかを噛み締めながら。
しかし、父は重い顔をしてつぶやく。
「しかし、ヴィルヌーヴ家がここで引くとは思えない」
エレノアもこくりとうなずいた。
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次回は8/9(日)公開予定です。




