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孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


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第39話 少し、家に帰るね

アレクシスの屋敷に身を寄せて、約三ヶ月。 季節は夏から冬へと移り変わっていた。



客室の窓から見える林の木々は、鮮やかな緑から赤へ変わり、今では幹の茶色になっている。

エレノアはひとり、トランクの鍵を閉めた。


――ノアとしての装いを、その奥底にそっと隠して。


もともと身を守るための三ヶ月、という約束でお世話になっていたのだ。今日でその期間が終了し、実家であるローゼンベルク領に帰る。



「エレノア様ぁ……!」



扉が勢いよく開き、フィオナが今にも泣き出しそうな顔で飛び込んできた。



「寂しいです、私……っ。明日から誰に、美味しいおやつを運べばいいんですか……!」

「大袈裟ね、フィオナ。またしばらくしたら、嫌でもお世話になるんだから」



エレノアは悪戯っぽく微笑む。

半年後、正式に結婚すれば、ここが彼女の家になるのだ。



「私と暮らすのが嫌だって言っても、もう遅いわよ?」

「あうぅー! 嫌なわけないじゃないですかぁ! 毎日が楽しくて楽しくて……それがまた続くなんて、幸せすぎて……うあぁーん!」



泣き笑いのフィオナを、エレノアは愛おしく思って抱きしめた。



「よしよし、いい子ね」



顔やら頭やらをわしゃわしゃと撫で回すと、フィオナは本当に嬉しそうな大型犬のような声を上げる。

ユノも隣で羨ましそうに順番を待っていたが、彼女はこれから実家へ同行する身だ。



「……じゃあ、ユノ。行きましょうか」



最後に、執務室のドアを叩いた。

中に入ると、書類の山に埋もれていた主が、澄んだ青い瞳をこちらへ向ける。

アレクシスは無言で立ち上がり、「時間ですね」と優しく手を差し伸べた。



「送って行けなくて、すみません」

「いいえ、お仕事がお忙しいのは分かっていますから」

「エレノア……」



アレクシスが何かを言いかけて、ふっと視線を落とした。その顔はいつものように整っていたが、どこかよそよそしく元気がない。


昨夜、自分の脆い本音をこぼしてしまったことを激しく公開しているかのようだった。


これ以上エレノアに踏み込まれないように、必死に『完璧な次期公爵』の壁を高く築き直している。…なんとなく、そんな気配をエレノアは感じた。


初めて彼の仕事部屋に入ったとき、張り詰めていた心がふわりと解けたのを覚えている。たった三ヶ月だったが、ここにはいつの間にか「義務」だけではない温かな時間があった。



「大変お世話になりました。……すぐに、手紙を書きますね」



エレノアは一歩踏み出し、アレクシスの両頬をそっと手で包み込んだ。



「アレクシス様。せっかくの美しいお顔に、隈が出ていますよ。……ちゃんとお休みになってくださいね」



アレクシスは驚いたように、石像のごとく固まった。

至近距離で見つめる、美しい青い瞳。しかし、以前とは違い、なんだか曇っているようにエレノアには感じられた。



(……どうして、そんなに優しくするのですか)



アレクシスの瞳が、そう叫んでいるように見えた。

昨夜の失態で嫌われてもおかしくないはずなのに、目の前の婚約者は、少しも自分を拒絶していない。その事実に対する困惑と、どうしようもない甘えのようなものが、彼の青い瞳を激しく揺らしているような気がした。


エレノアは心の中で、彼に届くように呼びかける。



(少し、家に帰るね。)

(変だよね。そんなはずないのに)

(……リィ)

(そう、呼びたくなるんだ)



彼の青い瞳が、激しく揺れた。

アレクシスはそっと目を閉じ、エレノアの手の温かさを噛み締めるように、その上から自分の大きな手を重ねた。

手袋越しでも伝わってくる、確かな熱。

どうしても、あの夜に握った手を思い出させる。



エレノアがそっと手を引こうとした、その時。アレクシスの指先が、まるで逃げていく熱を追いかけるようにピクリと震えた。そして彼女の指の付け根をわずかに強くなぞった。ほんの一瞬、引き止められたような感触。けれど彼が顔を上げた時には、いつもの理知的な公爵令息の表情だった。



彼に導かれるまま、ゆっくりとしたエスコートで玄関まで移動する。 そこには使用人たちがエレノアを見送るために揃っていた。 馬車には荷物が運び込まれている。ギルバートにも挨拶すると、彼は丁寧にお辞儀をした。



玄関を通り抜けたとき、外の涼しい風がエレノアを包み込んだ。

背後から「お待ちください!」と声がする。振り向くと、ヴィクトルが小走りに駆け寄ってくる。

アレクシスが意外そうに彼を見た。



「呼び止めてしまい申し訳ございません。エレノア様、これを道中で」



手渡された籠には、焼きたてのパンと蜂蜜、そして丁寧に包まれた焼き菓子がたくさん入っていた。 エレノアのために作ってくれたのだ。



「ありがとう、ヴィクトル。大切にいただきます」



はちみつ色の瞳を細めると、ヴィクトルは安心したように頷いた。



馬車に乗ろうと、アレクシスが差し出した手に、エレノアがそっと自分の手を重ねる。

いつも通りの、儀礼的なエスコートのはずだった。



(……?)



エレノアが馬車のステップに足をかけようとしたところで、動きが止まる。アレクシスの手が、エレノアの手を、しっかりと握りしめていたからだ。なぜかその感覚が、いつもと違った。



「アレクシス……様?」



名前を呼んでも、彼は答えない。 ただ、その大きな掌から伝わってくるのは、小さな震え。手袋越しでも、彼の指先が異常なほど熱く、強張っているのが分かった。


いつもなら絶対にこんな無作法はしない人だ。周囲に大勢の使用人が見守る中で、理性を忘れたかのように、ただひたすらにエレノアの手を強く、強く掴んで離さない。彼はうつむいたまま、しばらくの間、時が止まったかのように彼女の手を離さなかった。



表情は読み取れない。しかし、繋いだ手から伝わる必死な熱量に、エレノアの胸がじわじわと締め付けられる。



何かを後悔しているのか、行かないでと言いたいのか…。言葉にできない悲鳴が、彼の痛いほどの握力から伝わってくるようだった。アレクシスは何か言いかけたまま、黙り込んだ。

青い瞳が揺れている。まるで言葉を探しているように。けれど結局、彼は小さく息を吐いた。



ようやく我に返ったかのように、彼はゆっくりと力を抜いた。



「……お気をつけて。エレノア嬢」



上げられた顔は、結局いつもの美しい完璧な貴公子のものだった。



ユノも乗り込み、馬車が走り出す。

エレノアは窓から身を乗り出した。

アレクシスはまだそこに立っていた。

離れていく景色の中で、その姿だけが妙にはっきり見えた。

深く頭を下げる使用人たちの中で、背筋を正した若い主人の瞳だけが、見えなくなるまで強くこちらを見つめていた。



****



夕刻、エレノアは実家のローゼンベルク邸に到着した。



出迎えてくれた両親の顔を見て、彼女は「ただいま帰りました」と安堵の息を漏らす。


だが、感動の再会も束の間。食卓へ移動するなり、母がニヤニヤとした目つきで身を乗り出してきた。



「で、アレクシス様とはどうなったのォ? あの鉄壁の次期公爵を、少しは溶かしてきたのかしら?」

「……やめてください、お母様。その目つき」



エレノアはあからさまに目を逸らす。

父までもが「ゲフン!」と不自然な咳払いをしている。娘の帰宅をとても喜んでくれているとわかった。



ローゼンベルク家も公爵家だ。作法には厳しいし、令嬢としての役割も求められる。しかし、ヴァルトハイム家とは違うと実感する。



夕食の席で、エレノアは驚くほど饒舌だった。

アレクシス邸での日常、北への旅行、彼がいかに真面目で、人のために尽力しているか。

自分でも気づかないほど楽しそうに語る娘を見て、両親は不思議そうに、けれど嬉しそうに顔を見合わせていた。



「そうだ、ヴィクトル……あちらの料理人が持たせてくれたお菓子です。食べてみて」



アイゼンドルフの蜂蜜をふんだんに使った焼き菓子。 それを差し出した時、母がふと口にした。



「エレノア、いつからそんなに甘いものを好んで食べるようになったの? 昔は苦手だったでしょう?」



「それは――」 答えようとして、エレノアは不意に思い出した。

あの夜会で、初めて出会ったリィ。

まだあの時は、名前もなかった”不思議な令嬢”。



仮面越しに、ケーキを「はむ!」と美味しそうに頬張っていた姿。

……そして、目の前で全く同じ顔をして菓子を食べるアレクシス。



ずっと、二人の姿が重なっていた。

偶然だと思っていた。

信じたくなかったのかもしれない。

けれど、最初から、自分の魂は気づいていたのだ。



(私、知ってたんだ……。初めから、私たち、出会ってたんだ)



不意に込み上げてきた笑いを我慢できず、エレノアは吹き出した。



「エレノア、どうしたの?」


——なんだなんだ、そうだったんだ。



「アハハハ!、…ハハ…」



おかしさと喜びで、笑いが止まらない。

困惑する両親をよそに、彼女は笑いながら、けれど、ほんの少し泣いた。



****



――翌朝。

目覚めて見上げた天井が、見慣れたはずなのに、どこか余所余所しい。



(あ……帰ってきたんだっけ。……アレクシス様のお屋敷じゃないんだった)



フィオナの元気な声も、ヴィクトルの焼くパンの匂いも、ギルバートの丁寧な挨拶も。 そして、あの静かな青い瞳も、ここにはない。


朝食を終えた頃、一階から父の狼狽える声が聞こえてきた。



「な、そんな……勝手な!」



何かしら、とエレノアが階段を下りると、客間に見知らぬ男が立っていた。


父と対峙していたその男は、エレノアの姿を認めるなり、傲慢なほど自信に満ちた足取りで近づいてくる。



「ようやくお目にかかれた、エレノア嬢」



年の頃は二十代前半。

茶色の艶髪をなでつけていて、瞳は紫色。

仕立ての良い服を着ているが、その眼差しには他者を踏みつけるような威圧感が宿っている。

彼はエレノアの手を強引に取ると、挨拶も抜きに言い放った。



「オスカー・ド・ヴィルヌーヴだ。貴女を、私の妻にしてやろう。――光栄に思うがいい」

「…………は?」



エレノアの頭の中で、昨日までの温かな思い出が、一瞬で霧散した。


本日もお読みいただきありがとうございました。

次回更新は8/7(金)予定です。

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