第38話 忘れてください、と彼は笑った
「お嬢様、おはようございます」
まぶしい朝日に照らされて、エレノアはノソノソと起きる。
(全っ然、寝れなかった…!)
昨日のアフタヌーンティの事件は、脳内で何度も再生されて、そのたびにエレノアは頭を抱えた。考えすぎて全然寝付けなかった。
よりによって、今日から朝食はアレクシスと一緒に食べる予定だ。
鏡を見たら、クマができてげっそりしている。
ユノが「え!?いつも完璧に美しいエレノア様がどうしたのですか!?」からの「お任せください。」のプロメイドに変身。しっかり美しくしあげてくれた。
しかし、朝食の部屋へ移動する間も、エレノアはまた考え込んでしまう。
いやまさか、いや、でも…そんなことある?
何万回と考えたその考えがぐるぐるとめぐる。
「エレノア嬢、おはようございます」
「お、おはようございます。アレクシス様」
澄んだ彼の青い瞳。昨日まで見慣れていたはずなのに、今日は違って見える。
白い肌、整えられた明るい金髪。美しくも優しい笑顔。
——ドキッ
心臓がギュっとなる。
「よく眠れましたか?」
「はい、とても!」
大嘘である。
ふと、アレクシスの手が目に入る。今日も手袋をしている。先日の紅茶がかかったのとは違う、茶色の皮の手袋だった。
「火傷は大丈夫ですか?」
「ああ、はい。少し赤くなってはいますが、そこまでひどくはありませんよ」
「そうですか…」
かなり熱そうだったので、実は結構痛かったりするのかもしれない。朝食を食べながら、エレノアの思考は、彼の手の心配でいっぱいになってしまった。
****
その日から、エレノアは何度も考えた。
食事のとき、廊下ですれ違うとき。
アレクシスの手袋が目に入るたびに。
——まさか。いや、でも…。
答えは出ないまま、数日経って、夜になった。
今日も寝れない。
夜会に参加するほど、エレノアはもともと夜型でもある。
こっそり部屋を抜け出し、皆が寝静まった屋敷を散歩することにした。
窓から見える月明かりが明るい。とても静かだ。秋の虫はもうとっくにいなくなってしまった。
二階へ降りると、廊下へ光が漏れている。アレクシスの仕事部屋からだ。
(まだ起きているの?)
ノックをすると、「はい」と不安そうな声で返事がきた。
「エレノアです」
そういうと、パタパタとスリッパの音がしてアレクシスがドアを開ける。
「エレノア…!どうかしたのですか?」
今更だが、呼び捨てにされたことにドキリとする。
「あ、いえ、ちょっと眠れなくて。うろうろしていたら明かりが見えたものですから」
そうでしたか、とアレクシスはほっとした顔をして、エレノアを招き入れてくれた。
深夜の執務室は全体的に暗く、机の明かりのみで、オレンジ色に染まっている。机にはいつものように書類が積まれていた。
彼はシャツにスラックスを合わせ、上品なスリッパを履いていた。仕事着でもなくパジャマでもなく、部屋着だった。そのいつもよりも一層ラフな姿に、エレノアの心臓がじわじわと締め付けられた。…手袋はつけられていた。
「こんな時間まで、お仕事ですか」
「……少し、頭が整理できなくて」
アレクシスは引き出しをしめ、ソファに座り直す。エレノアはそっと、向かいに腰を下ろした。
「私でよかったら話してください」
聞くと、アレクシスは少しだけ微笑んだ。何から言えば…と少し言葉を探して、静かにぼつりと話し出す。
「父からは、リンドブルグ侯爵と上手くやれと言われています。昔からうちの領土を仕切っている貴族です。でも、あの方のやり方では領民が困る。僕はそう思っている。このままではアイゼンドルフは…」
「……」
「正しいことを言っても、若いというだけで軽く扱われる。かといって黙れば、家名を汚す」
どちらに転んでも、削られる。
彼は自嘲するように笑った。
「昔は、もっと簡単だったんです」
「……?」
「父の言う通りにしていればよかった。期待される通りに振る舞っていれば、それで済んだ」
彼は感情の見えない顔で、机の上の書類へ視線をむける。
「でも最近は、何が正しいのかわからない」
ぽつりとこぼした、彼の声がいっそう低くなる。
「疲れているだけです。そう思いたいんです」
少し笑う。
「最近、自分が自分じゃないみたいで」
エレノアははちみつ色の瞳で、彼をじっと見つめる。
「…すみません、こんな話を」
「いいえ」
エレノアは首を振る。
「あなたが正しいと思うことを、言い続けてください」
アレクシスが、こちらを見る。
「……エレノア」
「私には、あなたの判断が正しいかどうかはわかりません」
正直に言う。
「でも、あなたが本気で考えていることは、わかります」
しばらく、沈黙が続いた。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
「……ありがとうございます」
低く、静かな声だった。
昼間の完璧な婚約者ではない。アレクシスの素の声に感じられた。
彼の視線は手に向けられている。指先を、反対の手でなぞっている。
「…こんなことを言うと、あなたに嫌われてしまうかもしれないけど」
青い瞳が揺れる。
「僕は完璧な男になるように、必死に生きてきました。でも、最近はもうわかりません。ある人と知り合ってから、自分らしく生きていけたらと思うようになりました」
…ある人。
エレノアは、自分の手を見た。手袋の下に 黒い爪が、静かに光っている。
ややあって、
「……僕は、かわいいものとか、きれいなものが好きなんです」
疲れ果てた頭の隙間から、せきを切ったようにこぼれ落ちた本音だった。
「昼間は、そんなことを言える場所がなくて」
エレノアの胸が、静かに止まる。
「かわいいものって…?」
気づけば、エレノアは立ち上がっていた。
——もっと聞きたい。
もっと彼の本質に触れたい。その強い衝動に引かれるように、一歩。そしてもう一歩。いつの間にか、彼の隣へ移動していた。夜会でリィの隣に立ったときのように。
アレクシスはハッと目を見開いた。 急に縮まった距離に、その青い瞳が怯えたように激しく動揺して揺れる。
彼の手が、わずかに震えているのが見えた。「婚約者」である自分の前でこぼしてしまったことを、激しく後悔し、恐れているかのように。
——しまった。
少し距離が近すぎたかもしれない、とエレノアは思った。
何か言いかけて、彼はやめた。
しばらく経って、「忘れてください」そう言って、寂しそうに下を向いて笑った。
完璧な公爵令息としての建前を張り直すかのような、「どうせ分かってもらえない」とすべてを諦めて殻にこもってしまったかのような、ひどく孤独な笑みだった。
思わずその手を取りそうになる。
——そんな顔、しないで…。
けれど、エレノアは何も言えなかった。
エレノアは窓の外を見る。
月が出ている。
「月が好きなのですか」
アレクシスが聞く。
「……なんとなく、落ち着くので」
アレクシスは少し黙った。
「僕もです」
同じように、窓の外を見る。二人並んで、しばらく何も言わなかった。
——夜会でも、よく一人で月を見ていた。
…でもリィが来るようになってから、二人で一緒に月を見た。
どちらも何も言わなかった。
気まずくはない。
ただ、静かだ。
——この人との沈黙は、心地いい。
エレノアは思う。
そしてすぐに気づく。
同じことを、あの夜会でも思っていたことを。
****
部屋に戻って、エレノアは浴槽につかりながら、天井を見つめた。
——あの声。
昼の完璧な顔ではなかった。
夜に、ランタンの下で見せてくれた顔に、似ていた。
かわいいものが好きだと言った。
困っているのに、誰にも言えなかったこと。
ネイルは、黒かった。
——同じ色だ。
エレノアは浴槽の縁に手をついた。
自分の黒い爪が、光を受けている。
しばらく、動けなかった。
それから、ゆっくりと息を吐く。
——リィと同じだ。
いや、違う。
そんな偶然があるだろうか。
でも、あの声も。
あの寂しそうな顔も。
知っている。
けれどあの夜会のリィは、もっと自由だった。
もっと無防備だった。
目の前のアレクシスは、苦しいほどに何かを隠している。
同じ人なのだろうか。
それとも私は、似ている部分だけを繋ぎ合わせているのだろうか。
もし、彼がリィだったら。
どちらの自分で、向き合えばいい?
——ノアとエレノア。どちらが本当の自分なのか。
昼も、夜も、同じ人だったら。
私はどうする?
そして。
もし彼が私の正体に気づいたら――。
あの夜は、終わってしまうのだろうか。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回更新は8/3(月)予定です。




