第36話 自由という毒
眠った気がしなかった。
何度も浅い夢を見た自覚はあるのに、内容がどうしても思い出せない。 いや、ここ最近ずっとそうかもしれない。
ただ一つだけ、覚醒の拒絶を裏切るように、頭の奥底で鮮烈に明滅する琥珀色の瞳があったような気がする。
起きて、視界に入った自分の爪が黒い。見慣れるはずのなかった異形に、少しずつ、自分の心が慣れてきてしまっているのが恐ろしい。
アレクシスはずるずるとシーツを引きずりながら重い身体を起こす。 窓から容赦なく差し込む朝の光が、やけに眩しくて眩暈がした。
――やはり、何かがおかしい。あの夜会から、僕は。
冷たい水で顔を洗い、無感動に仕事の準備を進める。 髪を完璧に整え、仕立ての良いシャツを羽織る。鏡の向こうに佇んでいるのは、いつも通り一寸の隙もないヴァルトハイム家の次期公爵だった。
(……僕は、本当にこんな顔をしていただろうか)
なぜか、自分の輪郭すら他人のもののように思えてしまう。 シャツのボタンを留め、シルクのネクタイを結ぼうとした、その時だった。
どうしても指先がうまく動かない。手元を見つめても、肝心の指先が小刻みに震え、滑らかな布地を滑ってうまく捉えられない。
おかしくなり始めたのは明らかに――少し前、あの夜会に行って踊ってからだった。
今まで、自分の身体をコントロールできなくなったことなど、ただの一度もなかったのに。
どれほど寝不足でも、どれほど多忙でも、人形のように完璧に振る舞えたはずなのに。
内側から自分でも抑えきれない何かが侵食してくる感覚。
みしりとどこかで音がする。
身体だけでなく、心までが制御不能になっていく恐怖が、アレクシスの背中を冷たく伝った。
歪んだネクタイをいじりながら部屋を出ると、回廊の先で、不意にエレノアと視線がぶつかった。
深いパープルの髪を後ろで上品にまとめ、今朝は黒いドレスを着ている。その肌の白さと、ドレスの黒のコントラストが、アレクシスの視界に飛び込んできた。
「アレクシス様、お出かけですか」
そう言いながら、彼女がこちらへ微笑んで歩いてくる。
「エ、エレノア…」
咄嗟に声を出すが、 鏡で確認したはずなのに、「完璧」の顔がどんな顔だったか思い出せない。
(だめだ、こんなみっともない姿を見られては…)
彼女はアレクシスの首元にすぐ気づいた。
「ネクタイ、少し曲がってますね」
エレノアはそれを結び直そうとして、躊躇いなく手を伸ばす。上質な白い手袋に包まれた美しい手が、まっすぐにアレクシスの胸元へと伸びてきた。
「失礼」
「!」
小さく、彼女にしてはどこか低く響いた声。
彼女の細い指先がネクタイの結び目をぐっと引いた、まさにその瞬間だった。
喉元を支点にして、身体が強制的に彼女の方へと引っ張られる。
――ドクン!
息が止まった。少し前かがみになった無防備な姿勢のまま、アレクシスは完全に思考を硬直させた。
(え……?)
何だ?今のは。
一瞬の出来事だった。首元を引っ張られたことで、自然とエレノアとの距離が縮まる。
近い。
そんなアレクシスの動揺など露知らず、エレノアは慣れた手つきでするするとネクタイを結び直していく。
なぜか見てはいけない禁忌に触れているような気がして、アレクシスは必死に視線を逸らした。 目を閉じても、彼女の柔らかな吐息が肌にあたる。
そして彼女が動くたびに甘い香りが優しく、けれど暴力的に香ってくる。
――なんで、こんなにいい香りがするんだ?
かつて社交界の人前や二人きりの馬車の中で、婚約者として彼女の身体を抱きしめたことは何度もあった。その時は、これほど動揺することなどなかったはずだ。
肌も触れ合っていない、ただネクタイを結ばれているだけの今の方が、なぜか全く余裕がない。
夜の暗闇で、不敵な笑みを浮かべて自分を共犯関係へと引きずり込むノアの底知れないカッコよさ。 そして今、至近距離で自分の喉元を容赦なく締め上げてくる、昼のエレノアの有無を言わせぬカッコよさ。
性別も立場も違うはずの二人の「自分を圧倒する気配」。それが脳内で完全に重なり合い、アレクシスを挟み撃ちにする。
…逆らえない。
(…彼女の思い通りに弄ばれて、めちゃくちゃにされたいと、僕は思っているのか……?)
不可解な興奮。
脳の言い訳が追いつかないまま、身体だけが、目の前のエレノアという存在に激しく反応して熱を帯びていく。
ドクドクと、心臓が爆発しそうなほどの警鐘が鳴る。うなじから首筋にかけて、どっと熱い汗が噴き出していくのが分かった。あまりの熱量に、息の仕方がわからなくなる。
直接肌には触れられていない。それなのに、なぜか喉元に、彼女の指の冷たい感触が直接焼き付いているかのように熱い。 全身の神経という神経が、その一点だけに恐ろしい密度で集中していく。
それをアレクシスは恐怖混じりに感じていた。
思考が止まり、世界で自分だけが取り残されたように動けない。
(なぜだ、なぜ……)
エレノアの無駄のない手の動きを見つめていると、なぜか脳裏に、強烈な違和感が這い上がってくる。
なぜかノアを思い出す。
夜会で。
ランタンの光の中で。
黒い爪で。
自分の手を取った人。
理性は婚約者だ、と言う。
でも身体が、違うと反応する。
なんで今、こんなに動揺している?
ただネクタイを結ばれているだけだ。
ぐっ、と、またネクタイが強く引っ張られた。
――ドクン!
「……っ」
「あ、ごめんなさい」
エレノアがはちみつ色の瞳でこちらを見上げてくる。
きゅっと喉が締まる。その視線と重なるたびに、全身の筋肉が強張って、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
(どうしたんだ?僕は、さっきから…)
体がなんだか、いうことをきかない。
目の前にいるのは、はちみつ色の瞳をした僕の可憐な婚約者だ。 なのに、僕の首元を容赦なく締め上げる彼女の細い指先が、あの夜、僕の手を引いた「黒い爪のノア」の動きと完全に重なって脳裏にフラッシュバックする。
(どうかしている。僕の頭は、おかしくなってしまったのか)
別々の存在のはずなのに、彼女が動くたびに、夜会で彼の手をとって踊った残像がちらつく。
「きつくないですか?」
「は、はい…」
「どうしたんですか、そんな、抜けた声だしちゃって」
張り詰めたアレクシスの空気とは対照的に、エレノアがいたずらっぽい目で、クスクスと楽しそうに笑う。
アレクシスは、もう指先一つ動かせなかった。
その瞳、声、なめらかな手の動き。――そのすべてに視線も意識も吸い尽くされて、胸の奥が焼き切れそうに熱い。
(どうしよう)
理由のわからない衝動に激しく翻弄され、情けないほどにただ圧倒されている。 ダラリと、額からこめかみへと、あふれた汗が伝っていく。
「はい、できました」
エレノアがネクタイから手を離そうと、一歩後ろに下がろうとした。
その瞬間だった。
(――待って)
脳が思考を挟むより早く、彼の右手が、電撃に打たれたように動いていた。 呼び止めようと、触れそうになった指先が、接触する寸前で虚空に止まる。
(行かないで)
「エ…ノア」
(何を、しているんだ、僕は――)
――嫌だ
胸の奥が妙にざわついた。
もう終わりなのか、と。
何が終わるのかも分からないくせに。彼女が離れていくことが、引き裂かれるように嫌だった。
ドクン
ドクン
心臓が耳の奥でうるさいほどに脈打つ。
呼ぼうとした名前が、熱に浮かされたような掠れた声で、喉から漏れ出していく。
「…ノア……エレノア」
「はい?」
エレノアは返事をする。
はちみつ色の瞳をぱちくりさせて「どうしたの?」と目が言っている。
そのとき、廊下から無情にもギルバートの足音が近づいてくるのが聞こえた。
仕事へ行く時間だ。これ以上、ここに留まることは許されない。
「……ネクタイ、ありがとうございました」
何とかそれだけ、掠れた声で絞り出すと、エレノアの顔から視線をちぎり、逃げるように玄関ホールへと早足で去っていった。
―― 離れたくない。
―― もっと、見ていたい。
階段を駆け降りながら、アレクシスは懇願するように目を閉じる。
お願いだ、あのまま、もう少しだけ。
何でもない話をしていてもよかった。
ただ隣に立っているだけでもよかった。
彼女が離れようとした瞬間に胸がざわついた理由を、アレクシスは理解したくなかった。
(ありえない)
アレクシスは唇を噛んだ。
今まで誰に対しても、こんな風に思ったことはなかったのに。
ギルバートの後ろを下を向いて、ただの人形のように歩く。
なぜか呼吸が浅い。
背中を伝う冷や汗が止まらない。
僕はどうやって息をしていた?
昨日まで、エレノアの前では、自然に息ができていたのに。
離れたら、途端にわからなくなった。
たかが数分の出来事だ。
なのに離れてからの方が、彼女の姿ばかり思い出してしまう。
「アレクシス様、本日の午前中の書類ですが――」
「あ、ああ。……すまない、もう一度言ってくれ」
ギルバートの報告が、全く頭に入ってこない。
先ほど近くで見た、はちみつ色の瞳が、ずっとフラッシュバックする。
アレクシスは片手で、熱を持った自分の顔を覆った。
もう、感覚のすべてを彼女に支配されている。
その目は、エレノアか?
―― ノアなのか?
ただの過労だ。睡眠不足のせいで、僕の脳がわけがわからなくなっているんだ。
自分にそう言い聞かせる。
エレノアと、ノア。
ノアはドレスの話を笑わなかった。
黒い爪を塗ってくれた。
夜明けまで話していた。
エレノアは応援してくれた。
羽根を喜んでくれた。
思い出そうとすればするほど、二人の姿が境界線を無くして混ざり合っていく。
(やめろ)
―― 疲れているんだ。ちゃんと寝ていないから…。
エレノアの笑顔を思い出す。ノアの笑顔を思い出す。
どちらを思い浮かべても、胸の奥が熱くなる。
(苦しい)
馬車の中、必死に書類を見つめる。
白い紙面に浮かび上がるのは、はちみつ色の瞳だけだった。
歪んでいく理性を必死にかき集め、彼は目元を震える手で覆う。
急に何もわからなくなった。
もう一度会いたい。
そう思った相手が、どちらだったのかさえ分からない。
しかし、その震えは、夜が来ても決して止まることはなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回公開は7/31(金)予定です。




