第35.5話 僕は蛹(さなぎ)
それは”疲れ”ではなかった。
襲いかかってくる強烈な眩暈。それは連日の激務による肉体の疲労とは、明らかに異質だった。 まるで、自分の肉体の内側から、別の凶暴な『何か』が殻を破って這い出そうとしているかのような、恐ろしいほどの拒絶反応だった。
(…暑い)
昼食後。アレクシスは逃げるように自室の窓際に立っていた。 冷たいガラスに額を押し当てても、首の後ろから鎖骨の際まで這い上がってくる、じっとりとした熱は一向に引かない。
おかしかった。手袋の下、黒い爪の指先だけが、まるで心臓のようにドクドクと独自の脈を打っている。
――触れられた場所を、体が覚えている。
窓の外では、秋の光の中で使用人たちが平穏に行き来している。それなのに、今の彼にはその「いつもの日常」が、ひどく作り物めいた、薄っぺらい舞台装置のように見えていた。
(……拒絶しているのか? 僕は、この場所を)
完璧な次期公爵でいることが、あれほど絶対だったはずなのに。今は仮面を顔に貼り付けているだけで、初めてみる景色のように違和感がある。
『――僕らは夜にだけ存在している』
思考は勝手に、あの夜の舞踏室へと飛んでしまう。耳の奥で、鼓膜を優しく震わせるノアの低い声。
――次の瞬間、深夜のキッチンで紅茶を差し出してきた、エレノアの顔が脳裏を鮮烈によぎる。
いや、よぎるだけではなかった。
ノアの声を思い出しているはずなのに、鼻をかすめたのは、あの日エレノアが淹れてくれたアッサムの甘い香りだった。
エレノアの瞳を思い出そうとすると、肌に蘇るのは、ノアに手首を掴まれたときのあの強引な熱量だった。
(……何だこれは。何が起きている?)
二人の残像が重なるのではない。五感が、記憶が、完全に混乱を起こして混ざり合っている。
逃げ込むように寝台に横になったアレクシスは、視界がぐにゃりと反転するほどの激しい目眩に襲われ、強く眉を寄せた。 指先の関節が、じん、と疼く。喉の奥が、異常に渇く。
「う、……っ」
手のひらで、無意識に自分の喉と口元を強く押さえた。 あの日、ノアの指が触れた場所。そこがまるで、別の生き物の皮膚に作り変えられていくように熱い。息を吸うことすら苦しい。
かつて自分を縛っていた公爵令息としての正気が、内側から膨れ上がる圧倒的な熱量によって、ミリミリと音を立てて引きちぎられていくのが分かった。
僕は今、壊れている。 あるいは――全く別の何かに、生まれ変わろうとしているのか。
はちみつ色の瞳が、そんな自分を見ている錯覚に陥る。
気持ちはまだ、何も追いついていない。 認めたいわけでもない。
ただ、全身の肉体が、細胞が、二人の気配に勝手に反応して作り変えられていく不可解な恐怖に、アレクシスは寝台の上でただ身を震わせるしかなかった。
――その日は、朝、目が覚めた瞬間から、世界のすべてがおかしかった。
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