第35話 アレクシスのお守り
——変化は緩やかに、しかし、確実にアレクシスを静かに壊していった。
会議室の空気は、湿った鉛のように重い。 長いテーブルを囲むのは、老いた地元の貴族たち。その末席に、一寸の乱れもない背筋で、アレクシスは座っていた。 父の名代――それは、彼らにとっては格好の標的でしかない。
「ヴァルトハイム家のご子息は、随分と若くていらっしゃる」
上座から、穏やかさの中に嫌悪混じりの声が落ちる。白髪で笑みを絶やさない男、リンドブルグ侯爵。若者を値踏みし、引きずり下ろそうとする醜い欲望が透けて見えた。
「若輩者ではございますが、父の名代として誠心誠意、務めさせていただきます」
アレクシスは仮面のような美しい微笑みを崩さない。 だが、彼が論理的な正論を積み上げるほど、老人たちの神経は逆撫でされていく。
「ヴァルトハイム家のご意見はよくわかりました」
リンドブルグ侯爵が、厭らしく目を細めた。
「しかしねえ。現場を知らぬ若者の言葉は、どうにも机上の空論、軽く聞こえてしまいますな」
クスクスと、テーブルを囲む者たちの間に卑屈な笑いが伝播していく。 完璧でなければ、価値がない。隙を見せれば、この獣たちに噛み殺される。
(……ああ、息が、できない)
いつもの窒息感がアレクシスを襲い、視界が歪みかけた、その時だった。
アレクシスは机の下で、手袋に包まれた左手の指先を、もう片方の手で静かに包み込んだ。 上質な布越しに触れる、確かな秘密。
自分だけが知っている、夜の闇を閉じ込めたような黒い爪。
ランタンの光に照らされた、ノアの真剣な横顔。丁寧にネイルを塗る、あの指先。
悪戯っぽいあの笑顔が、凍りついたアレクシスの胸に一気に熱を灯す。
さらに耳の奥で、夜中のキッチンで恥ずかしそうに『応援してます』と囁いてくれたエレノアの声までが重なった。
胸の奥から、かつてない全能感が湧き上がってくる。 失うものなど、何もない。僕には、あの夜がある。
「何か面白いことでも? ヴァルトハイム卿。先ほどから妙な笑みを浮かべておられるが」
不審そうに顔を歪めるリンドブルグ侯爵を見据え、アレクシスは極上の微笑みを湛えたまま、溢れ出た本音を、初めてそのまま唇から滑らせた。
「いいえ。ただ、老人の話というのは退屈で、随分と話が長いのだな、と思っておりました」
「な……っ!?」
ガタ、と誰かの椅子が鳴り、会議室が文字通り氷結した。
「失礼、少し考え事をしていました」
とアレクシスはすぐに完璧な謝罪の仮面を被せたが、その胸の奥は、かつてないほど軽やかに澄み渡っていた。
****
屋敷へ戻ると、玄関ホールでエレノアが迎えてくれた。 彼女の出迎えを受けることが、いつの間にか、彼にとって何よりの救いになり始めている。
「お疲れのようですね、アレクシス様」
「……ええ、少し」
——しまった。
完璧な貴公子の顔を辞めていたと気づく。
ふと、アレクシスは彼女が珍しく手袋をしているのを見た。上質な白い手袋だった。
「手、どうかしたのですか?」
自分も外出の手袋をしたままだったが。エレノアはびくりと肩を揺らし、さっと両手を後ろへと隠してしまった。
「あ、これ、は……植物の染料を触ったら、少し肌が荒れてしまって。ユノに薬を塗ってもらったので、落ちないように覆っているのです」
そう言って、誤魔化すように顔を背けるエレノア。 だが、その気まずそうな首の傾げ方、耳の赤みが、アレクシスの脳裏にある「別の誰か」と鮮烈に重なった。
(……)
昨夜、カーテンの裏で自分を気遣い、静かに笑っていたノア。男であるはずの彼の仕草や空気感が、また目の前のエレノアと重なって見える。
アレクシスはまた激しい困惑に襲われた。
(僕は、どれだけ疲れているんだ。相手は男だぞ。それに彼女は……)
昼の「彼女」のなかに、夜の「彼」の残像を探してしまう自分自身の奇妙な焦りと錯覚に、アレクシスは激しく動揺した。
思わずこめかみを押さえるアレクシスに、エレノアは心配そうにしながらも、「では私はこれで…」と部屋を去ろうとする。アレクシスは衝動的に、その背中に声をかけていた。
「今週は少し時間が作れそうです。……もしよければ、二人でお茶でもしませんか」
エレノアはドアノブから手を離し、ゆっくりと振り返った。はちみつ色の瞳が優しく揺れる。
「――喜んで」
そう言った彼女は、ほんの少しだけ目を細め、自分の手袋をはめた手をいとおしそうに見つめ、出て行った。
…固まっているアレクシスを残して。
****
深夜。アレクシスは執務室の机で、止まらない眩暈と戦っていた。 連日の激務。気がつけば、羽ペンを持つ指先が微かに震え、重要書類に一筋のインクのシミができていた。
「……集中できない」
きつく目を閉じた。 耐えがたいほどの孤独と疲弊のなかで、アレクシスはすがるように左手の手袋を外す。
ランタンの鈍い光のなかで、妖しく輝く黒い爪。
「ノア……君は今夜、どこにいるんだろう」
その名を呟いた瞬間。
コンコン、と鋭いノック音が響き、扉が開いた。 心臓が跳ねる。
「旦那様、夜食をお持ちし――」
アレクシスは、瞬時に左手を机の影へと滑り込ませた。声を荒らげることはしなかった。ただ、静かに——けれど有無を言わさぬ声で。
「……今は、いい。下がってくれ」
静かな声のほうが、時に叫び声より恐ろしい。使用人はそれを本能的に察し、一礼して足早に下がっていった。
静まり返った書斎で、アレクシスは激しい動悸のなか、じわりと冷や汗をにじませた。
見られただろうか。息子が爪を黒く染めているなど、もし父の耳に入れば次期公爵としての立場は一瞬で剥奪される。リンドブルグ侯爵のような連中に知られれば、格好の醜聞として社交界の餌食になるだろう。
何より――あの美しい夜の暗闇で、ノアと交わした「共犯」の誓いが、昼の俗悪な噂話で汚されることだけは、耐え難かった。
呼吸を整えながら、彼は机の上のランタンに、手袋を外した左手をかざした。 闇の中に、妖しく浮かび上がる黒い爪。
――僕らは夜にだけ存在している。これがその証明になる。
耳の奥で、そう言ったノアの声が蘇る。昼の世界では絶対に許されない、手袋の下に隠された二人だけの秘密。
だが、その黒い爪をじっと見つめていたアレクシスの脳裏に、突如として、昼間の光景が鮮烈にフラッシュバックした。
――『あ、これ、は……』
玄関ホールで、頑なに両手を後ろに隠し、頑丈な手袋で何かを覆い隠していたエレノアの姿。
(……なぜだ)
自分の手元にある「隠された黒」と、彼女が昼間に必死で「隠そうとしていた手元」。 まったく別物のはずなのに、その“何かを隠している手袋”の気配が、噛み合ってしまった。
続いて脳裏に響いたのは、お茶に誘ったときのエレノアの、あの愛おしげに手元を見つめた眼差しと、静かな声だった。
『――喜んで』
「くそっ……だめだ、本当に、どうかしている……」
初めは気のせいかと思った。
でももう、気のせいじゃない。
夜のノアを想い、その秘密に浸ろうとしているはずなのに、どうして昼間のエレノアの気配が、まるで同一人物の影のように地続きで重なってくるのか。
性別も立場も違う二人の輪郭が、理由もわからず脳内で一つに溶け合っていく不可解な恐怖に、アレクシスは強く頭を抱えた。
(疲れているんだ。連日の激務で、僕の頭はおかしくなっている……)
震える手で、黒い爪を再び手袋の下へと深く隠す。 婚約者を大切にすること。それだけが、今のアレクシスをこの世界に繋ぎ止める唯一の鎖だった。
——それでも、脳裏に焼き付いた“ノア”の面影だけは、甘い毒のように、彼を酔わせ続けていた。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回の更新は7/27(月)予定です。




