第34話 君が笑顔でいられますように
「……危なかったね」
重ねていた手のひらをゆっくりと滑り落とし、ノアは銀の髪をかきあげた。
遠ざかる足音。まだ音楽は止まらない。 誰もいない暗闇の中、声を押し殺してひとしきり笑い合ったあと、「座って少し話そうか」とノアは言った。
積み上げてある椅子の埃を払い、リィを座らせる。自分は近くの箱の上に腰掛けた。
少しの間、どちらも何も言わなかった。 窓の向こうから、遠くの音楽だけが流れてくる。 さっきまで手を取り合い、カーテンの裏で密着していた感触が、まだ手袋の奥に残っている気がした。
ランタンの淡い光が、リィの横顔を仄白く照らしている。
その横顔を見つめながら、ノアはふと思った。
――リィは、どこか落ち着きがない。
さっき笑い合ったはずなのに、彼は膝の上で自分の手を小さく握り締めたり、開いたりしている。いつもならもっと柔らかく笑うはずの唇が、今は心なしか、強張っているようにも見えた。
仮面の奥の瞳は、じっと床の木目を見つめたまま、こちらを見ようとしない。 カーテン裏での、あの重なり合うような近さ。自分の手のひらが彼の唇に触れた瞬間の、爆発しそうに跳ね上がっていた彼の鼓動。
(まだ、緊張しているのだろうか……?)
彼の静かな動揺が、沈黙を通じてこちらの肌にまで伝わってくるようだった。 ノアは、その張り詰めた空気をそっと解きほぐすように、穏やかな声で言葉を紡いだ。
「君は、ダンスは得意なんだね」
リィは、弾かれたように小さく肩を揺らし、それからゆっくりと頷いた。
「…うん」
その声は、いつもより少しだけ低く、掠れていた。
「小さい頃からみっちりと仕込まれてね。先生の動きまで丸暗記したよ。…ノアは?」
「僕はぼちぼちかな」
教養として習得はしたが、女性側しか基本わからない。男性側を踊ったのは今日が初めてだった。
「上手だったよ」
リィが笑う。それはどーも、とノアは脚を組む。
しばらくして、今度はリィから質問する。
「あなたは、何が好きなの?」
食べ物でも、趣味でも、なんでもいい。とリィは付け加えた。
僕は…なんだろう。
ノアは手を顎に添えて首を傾げた。
「しいて言うなら、自由かな…」
自由?とリィが聞き返す。
「こうでないといけない、ということが嫌いなんだ」
おかしいよね。と笑う。
リィは笑わなかった。じっとノアの目を見つめる。
「わ、僕は…」
今度は下を向いて、手を握る。
絞り出すようにしてこう言った。
「かわいいものとか、きれいな物が好き」
「うん」
「このドレスも、作ったんだ…自分で」
「そうなの!?」
あまりの驚きに声を張ってしまった。
二人してしー!と口に指を充てる。
「すごいね、上手だね」
「そうでしょ!?」
リィが嬉しそうに笑う。
「僕にも作って欲しいな」
言って、しまった、とノアは固まった。
いいよ、とリィの目が細くなる。
「でも…」と下を向く。
「時間がかかってしまうかも。昔から、うちでは、自分らしくいることは禁じられているので」
気長に待っていて、と言うリィの声が、少しだけ低くなった。
ノアは、その声の落とし方が、どこか昼間の自分に似ていると思った。 本当の自分でいられない場所にいる人間の、慣れた声のしまい方 。
名前も知らない。どこに住んでいるかも知らない。でも、その声だけは、わかる気がした。
もちろん、自分だって男装しているのはこの夜会でだけだ。昼間には令嬢としての生活がある。リィにもまた、昼間の顔があるのだ。
(でも…最近は…)
屋敷のドアを開けたとき、扉の前に何かが置かれていたことを思い出す。紐の結び目、細長い包み。表に書かれた、流れるように美しい字。
―― 最近は、ちょっと変わってきたんだ。
「エレノアへ」と書かれた、美しい彼の字。羽根を見つけて、拾って、持ち帰ることにしただろう彼の背中。手のひらの上でゆっくり色を変えた、青とグレーの羽根。
羽根を見つけたであろう、彼の背中。
思い出すと、口元が柔らかくなる。
リィの横顔を眺めながら、ノアは思う。
―― 本当の名前も知らない君。
―― どこに住んでるのかも、次にいつ会えるかもわからない君。
―― それでも、僕には確かに、待っていてくれる人がいる。
ふと、部屋の隅の舞台道具が目に入る。昔、ここで演劇をしたことがあった。 まさかこんな形で戻ってくるとは思っていなかった。 その舞台道具は最近置かれたものなのか、埃も被っておらず、衣装やメイク道具が一式おいてある。
ノアはちょっと待ってて、と言い、ガサゴソとあさる。
そして見つけた。女優が使っていたものだろうか。 マニキュアだ。この夜を溶かしたような、黒い色のマニキュア。
「それは?」
「ネイル、したことある?」
「……ない」
「やってみる?」
リィが少し迷う。指先を見る。
手袋をすればばれないさ。と言うと、頷く。
「手を、貸して」
ランタンを寄せて、彼女の前に跪く。
素手で手のひらを差し出す。
リィはノアの手を見た。少しの間、躊躇するように止まる。
それから——ゆっくりと手袋を外した。
ノアの手の上に、リィの手が静かに置かれる。
温かい。
自分より大きな、少し無骨な手。でも、指は美しく長い。
手袋のない手と手が、重なる。
それが、こんなにも温かいとは思わなかった。
深夜を超えた、濃密な夜の空気。ランタンの炎が、風もないのにわずかに揺れる。その光が、二人の影を壁に長く伸ばしていた。
ノアの指が、爪の上をゆっくり動く。筆先が、小さな爪の端まで丁寧になぞる。乾くまでの間、二人は黙っていた。
音楽が遠くで続いている。二人の呼吸だけが近くで聞こえる。
——昼間の君を、僕は知らない。
——横に、いてあげられない。
ノアは祈る。
だから。
せめて、これだけ。
心細い昼に、 一人じゃないと思えたら。
——この黒が、君を守ってくれますように。
——この夜がなくなっても、君が少しでも君らしくいられますように。
——君が笑顔でいられますように。
(これは僕の勝手な願いだけれど)
「……かわいい」
リィの小さな声。
ノアの指先が、ほんの一瞬だけ止まった。 何も言わなかった。
ただ、次の指に筆を移した。
ふー、と息を吹く。リィの両手の爪が黒く完成した。
まだ完全に乾いてないからね、と言うと、リィはうんとうなずいて手を見ている。
その横顔が、ランタンの光に照らされている。
仮面をつけていても、目元が柔らかいのがわかる。
こんな顔をする人なんだ、と思う。
昼間のこの人は、どんな顔で笑うのだろう。
次は自分の爪にも塗っていく。リィはその様子をじっと見つめていた。
両手に塗り終え、今度は自分の指先に、同じように息を吹きかける。
二人の両手の爪が、ランタンに照らされて黒く光る。
手をつなぐ。
「僕らは夜にだけ存在している。これがその証明になる」
ノアが言う。
琥珀色の目が、ランタンの光を照り返して煌めいていた。言葉の意味を少し考えるように爪を見て、リィが言う。
「僕たちの秘密」
「……共犯だ」
昼間は手袋の下に隠れている。 誰も知らない、二人だけの秘密。
しばらくどちらも黙っていた。音楽が遠くで続き、夜がゆっくりと深くなっていく。
こういう時間が、あるんだ。誰にも説明できない、名前もない、続きもわからない、この時間が。
乾いた爪を、リィがそっと見つめている。
「明日も、残ってる?」
「残ってる」
ここでのことは、夢みたいだと思う。
朝になれば消えてしまう。
昼の世界では、二人は知らない顔をしている。
——でもこの爪の黒い光だけは、昼間も残る。
あなたの隣に、置いていける。
****
「また」
リィは手を振って帰っていった。ノアはネイルを見つめる。
——昼の自分に戻る準備をしないと。
****
少しだけ眠って、エレノアは寝台からこっそりと抜け出してドレスを着替えた。
鏡の前に立つ。
夜会から帰ってきて、湯を浴びた。その間もずっと手を眺めていた。
今、銀色だった髪は、深い紫色に染まっている。
しかし、その手には夜の黒いマニキュアが光っている。
夜は消えていない。
(リィ)
エレノアは手を抱きしめて、目をつむった。
――『ノア』
そう呼んでもらえて、嬉しかった。
昼間には呼ばれない、特別な自分の名前。
昨日のダンスしたのを思い出す。
見つかりそうになったことも。思わず笑ってしまう。
「共犯ね」
そう言って、エレノアは少しだけ迷ってから手袋をつけた。…ネイルが誰にもバレないように。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回は7/26(日)更新予定です。




