第33話 共犯
仕事が終わったのは、深夜だった。 エレノアはもう眠っているだろう。
秋の夜。『無名の夜会』。王都の外れの大きな屋敷の入口で、紫色のランタンが揺れていた。
今夜の催しは、舞踏会だという。
会場はダンスホールで、門番がドアをあけると、廊下へと深紅のカーペットが続いていた。
いつもの密度の濃い空気だが、今日は廊下にいても、中の演奏がすでに大きい音で聞こえてくる。
リィ――
いつものようにドレスを着たアレクシスが、重たいドアを開けると、コンサートホールのように大きな音で音楽が鳴っていた。
参加者の多くは踊っており、隅のテーブルで休憩したり談笑したりしている人もいる。
本来ならダンスは得意な方だが、賑やかなお祭り騒ぎの中、激しく動けばウィッグがずれてしまうかもしれない。アレクシスは壁際に身を潜め、少しだけ窮屈さを感じていた。
すでにノアはいた。
美しいシルバーの長髪を半分編み込み、頭の下の方で一つにまとめている。深いネイビーの燕尾服が美しく夜に似合っている。
いつものように離れたところで壁にもたれながら、腕を組んで、踊る人たちをじっと眺めている。その立ち方だけで、彼の考え方がわかる気がした。 声をかけるより先に、目が合った。お互い、手を上げる。
「踊らないの?」
アレクシスが近づき、声をかける。
「いや、僕は…」
この場の“役割”として踊ることはできる。ただ、それは今の気分ではないのだろう。
踊る人たちは、日頃の鬱憤を晴らすかのように盛り上がっている。真夜中を過ぎているのが信じられないほどの熱気だ。生演奏も行われていて、いつもの秘密の会というよりはお祭りのようだ。
ノアは何か考えるようにあごに手をあて、それからアレクシスの窮屈そうな様子に気づいたように、少しだけ目を細めた。
「……少し、こっちへ来ない?」
「え?」
答えを待たず、ノアは歩き出す。アレクシスは少し遅れて、その後を追った。
ノアは慣れた様子で立ち入り禁止のロープを通り越していく。会場の奥。装飾の陰に隠れるように、古い扉があった。
「…そこ、入っていいの?」
「だめだと思う」
そう言いながら、ノアは躊躇なく扉を押した。
軋む音。薄暗い空間。
ノアが壁際に手を伸ばし、古いランタンに火を灯す。
白くて美しいノアの仮面が暗闇に浮かび上がり、橙色の光が部屋に広がった。埃っぽい空間が、少しだけ温かく見える。 掲げられた光の先に見えたのは、使われなくなった古い舞踏室だった。
(こんなところが…)
蜘蛛の巣と埃。天井の装飾は剥がれ、床の一部は傷んでいる。壁際には、古い椅子が重ねられ、使われていない舞台道具も置かれていた。けれど、奥の大きな窓が開いていて、夜会の音楽が夜風と共に心地よく流れ込んでいる。
「前に、迷い込んだことがある。ここなら、誰も来ない」
ランタンを古い椅子に置きながら、ノアは言った。
遠い音楽と、冷たい夜風。 ――なんて、居心地が良い場所なんだろう。 アレクシスはただ、この名前のない時間を感じ取っていた。
音楽が、少し大きくなった。
ノアが振り返る。
「……踊る?」
その言い方は軽い。
けれど目は、真面目だった。
ここなら、周囲の目を気にする必要もない。ウィッグがずれることも恐れずに、ただ気兼ねなく過ごせる。そんなノアの、言葉にしない不器用な優しさが、アレクシスの胸をじんわりと満たしていく。
アレクシスは一瞬だけ迷い、それから手を差し出した。
「喜んで」
指先が触れる。細い指。
仮面は外さない。本名も、身分も、明かさない。
ただ、音に合わせて足を運ぶ。同じリズムの中で。
床は少し軋む。二人はゆっくり回り始めた。
夜会の煌びやかな中央ではない。
誰も見ていない場所。
埃だらけで、使われなくなった椅子が積まれるような場所。
それでも。いや、だからこそ。
互いの呼吸の音だけがやけに鮮明に鼓膜に届いた。
ノアの手は、思っていたより冷たいことに気づく。アレクシスはほんの少しだけ強く握る。
「寒い?」
「……いや」
短い返答。けれど、手は離れない。
音楽のテンポが少し速くなり、二人がステップを切り替えた、その時だった。ミシッ、と不穏な音がして、ノアの足元の古い床板がわずかに沈み込んだ。長年放置され、腐食していたのだろう。想定外の足場の崩れに、完璧だったノアの重心が、ほんの一瞬だけ斜めに揺らぐ。
「……っ」
アレクシスは無意識に手を引き、空いていたもう片方の手で、ノアの引き締まった腰をぐっと抱き寄せるようにして支えていた。 遠心力も手伝って、二人の身体が隙間なく密着する。
「……悪い」
すぐ目の前で、ノアの低い声が響いた。 支えられた体勢のまま、仮面越しでも分かるほど間近にある琥珀色の瞳。一瞬だけ浮かんだ驚きが、すぐにアレクシスへ信頼を帯びた安心感へと変わっていく。
腕の中に伝わるノアの体温と、耳元をかすめる吐息の熱。
思わず、アレクシスの口元が緩む。
「……大丈夫」
(たぶん今、僕は、ちゃんと笑っている。)
自然に出た自分の声は、いつもの抑えた声より、少しだけ柔らかかった。
体勢を戻し、再びゆっくりと回り始める。しかし、一度密着してしまった距離は、先ほどよりも確実に近くなっていた。 ノアの呼吸が、自分の呼吸と綺麗に重なる。
——この人の前でなら、何も飾らなくていい。
そう割り切っているはずなのに、仮面の隙間から覗くノアの琥珀色の瞳に見つめられるたび、アレクシスは心臓の奥がじりじりと灼けるような錯覚を覚えていた。
そのとき――
ガタン!
遠くの扉が開く音がし、二人の身体が同時に凍りついた。
誰かが入ってきた。話し声が聞こえる。
ここは舞踏室の残骸。扉にはロープがはられているだけ。誰でも入ってこれる。
(二人でいるところを見られたら…!)
足音が近づく。
二人、同時に気づく。
ノアの目が、鋭くなる。アレクシスの心臓が、急に大きく鳴り始める。
扉の向こうで、声がする。
「この辺りに何かあったか?」
「さあ……」
ランタンの光が、扉の隙間から漏れていた。
やばい。見つかれば、この場所が使えなくなるだけではない。二人でこんな暗闇にいたなどと知られれば、この居心地の良い関係が、世俗のくだらない噂で汚されてしまう。
ノアが素早くランタンをひっつかんで消した。 闇が、落ちる。 月明かりだけが、窓から差し込んでいた。
「こっち」
低い囁きと共に、手首を強く掴まれる。
驚く隙もなく、ノアの力によって古い崩れかけたカーテンの裏の狭い隙間へと引きずり込まれた。 壁に背中が激突すると同時に、視界がノアの大きな影で覆われる。
外から扉が軋んで開く音。
「……っ」
声を漏らしそうになったアレクシスの唇に、ノアの手のひらが容赦なく押し当てられた。 密着した距離。仮面と仮面が触れ合う寸前で止まり、ノアの手のひらが、アレクシスの唇の輪郭を黙らせるように少し強く包み込む。
(……近い)
薄暗い闇の中、布越しに伝わるノアの手のひらの熱。金のウィッグから一筋こぼれた銀の髪が、アレクシスの首筋をチリッと撫でる。
ノアの人差し指が、自身の口元に当てられる。ノアの低い声が、すぐ耳元で囁かれる。
「……静かに」
手のひらの熱が、唇に直接伝わってくる。その瞳だけが月明かりを吸って琥珀色に光っていた。 掌から伝わる唇への圧迫感が、心臓の音を異常なほど跳ね上げさせた。見つかる恐怖のせいなのか、それとも、この男に完全に押さえつけられているという事実のせいなのか、もう分からない。
アレクシスは、ただ声にならない息を吐いて、頷くことしかできなかった。
二人とも肩が強張ったまま、動けない。 聞こえるはずがないのに、心臓の音が聞かれている気がしてしまう。
「誰かいた気がしたんだが…」
「気のせいだな」
声と外の足音が、遠ざかっていく。
完全に静寂が戻っても、ノアはすぐには動かなかった。じっとアレクシスの瞳を見つめたまま、重ねていた手のひらを、ゆっくりと、 名残惜しむように、唇の輪郭を一度だけ、そっとなぞって。
「……危なかったね」
囁くような声。
手のひらの熱が消えたあとも、そこだけが、じんと痺れたように熱を持っていた。
銀の髪が、アレクシスの肩にまだ触れている。アレクシスは強張った喉を震わせ、辛うじて声を絞り出した。
「共犯だね」
ノアの瞳が、はっきりと揺れた。
数秒。永遠みたいな時間。
しばらく何も言わなかった。けれどしばらくして——どちらからともなく、口元が、わずかに緩む。
声は出ない。笑っているのに、音がない。
「……ッ」
「……フ、フフ…ッ」
今の恐怖も、鼓動も、全部わかっているのに。なぜか、おかしくて。
安心して。
生きている、と実感する。
ノアの目が、少し細くなる。いたずらを成功させた子どものように。でもその奥には、ちゃんと覚悟がある。
昼の役割に縛られる世界では、こんなふうに笑えない。
ここでは、ただ、ノアの隣にいる自分でいられる。周囲の目を気にせず、ただ対等に、同じ呼吸ができる人。 ――この夜は、まだ壊れていない。 このまま、この“名前のない時間”が続けばいいのに。
そう願うのと同時に、アレクシスの胸の奥に、奇妙な感覚が広がっていった。
唇に残る、手袋越しのあの強引で、けれど酷く繊細だった温度。
恐怖の中で重なり合った、細いのにどこか確かな身体の芯の強さ。
それらが、 エレノアの手の温度と鮮烈に重なった。
初めて一緒に森に行って、虹を見たとき。
夜、一緒に紅茶や果実酒を飲んだとき。
一緒に北へ旅をしたとき。
ここ二カ月、一緒に過ごしてきて触れた、彼女のひんやりとした温度。
魂が震えるような困惑だった。
昼の光の中で、僕の隣にいてくれる完璧な公爵令嬢、エレノア。
夜の闇の中で、僕と共に笑ってくれる、ノア。
姿も、性別も、生きる世界も違うはずの二人。 なのに――どうして目の前のノアを見つめているはずの瞳の裏に、当然のように、エレノアのはちみつ色の瞳が重なるのだろう。
唇に残る手袋越しの熱が、消えてくれない。 胸の奥で鳴り響く鼓動の理由を、アレクシスはまだ、言葉にできずにいた。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回34話の更新は7/24(金)予定です。




