第32話 重なる筆跡
エレノアが廊下を歩いていると、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
ギルバートだった。 いつもの落ち着いた所作とは違い、何か書類を抱えたまま小走りに移動している。
「ギルバート、どうかしましたか?」
「ああ、エレノア様。実は今日、旦那様が急に呼び出されてしまいまして…。先ほど外出されました。いくつか手配が重なってしまっておりまして……」
珍しく、ギルバートが言葉を濁した。
「何か、お手伝いできることはありますか?」
ギルバートは一瞬だけ迷うような顔をして、それから静かに頷いた。
「恐れ入ります。でしたら二つほど、お願いできますか」
一つ目は、執務室の窓を閉めること。 アレクシスが外出の際に開けたままにしてしまったらしい。
二つ目は、図書室でいくつかの本を探しておくこと。 アレクシスの仕事の資料として必要なものだという。
「こちらのメモに書いてありますので」
渡されたメモを見た瞬間、エレノアの手が止まった。几帳面で、整った字。 公式の書類で見たことのある、彼の筆跡だ。でも、走り書きのせいだろうか。
はねの角度が、いつもよりわずかに丸い。急いでいたのか、一画ごとの筆圧にムラがあって、ところどころ、インクが少し滲んでいる。
完璧に整えられた、普段の"公式の字"の下から、素の彼の筆跡が、覗いているような気がした。
(……アレクシス様の字だ)
胸が少し動いた。
「ありがとうございます。では、先に執務室へ伺いますね」
****
カーテンがはためき、午後の光が斜めに差し込む執務室は、アレクシスがいないせいか、いつもより広く感じた。風に吹き飛ばされたのだろう、書類が床のあちこちに散らばっている。
エレノアは急いで窓を閉める。 書類を拾い集めながら、机の上に戻していく。
(……これは)
事業計画書、見積書、報告書らしきもの……。 その中に、明らかに雰囲気の違う書類を見つけ、思わずじっくり眺めてしまう。
店の間取り図だろうか。テーブルの配置、窓の位置、カウンターの形。隅には、小さなロゴのようなデザインがいくつか並んでいる。
一つ描いては消して、また書き直した跡がある。その横には、お菓子の盛り付けと思われるイラスト。ケーキ、焼き菓子、小さなカップ。細部まで、丁寧に描かれていた。
カップの取っ手の向き。ケーキの断面図。テーブルの高さの書き込み。 ここに座る人が、どう手を伸ばすか。どう見えるか。 そこまで考えて、描いている。
線は繊細で、でも迷いの跡がそのまま残っている。消しかけた線。描き直した角。何度も試した跡が、静かにそこにある。
もう一枚、違う書類を見る。 こちらはもっと荒い質感で、たくさんのデッサン案が叩きつけるように描かれていた。ボツになったアイデアたちが、そのまま残っている。
(アレクシス様が、これを描いたのか)
さっきメモで見た字と、同じ筆跡だった。 でも、全然違う。 あのメモより、ずっと自由で、ずっと丁寧だった。 完璧な公爵令息が、誰にも見せない場所で、こんなふうに手を動かしていたのだ。
机の引き出しの取っ手に、小さな傷がついているのが目に入った。何かを何度も引き出して、また閉めた跡だろうか。 深夜まで灯りが消えない執務室。この椅子に、一人で座って。
(……知らなかった)
胸の奥が、静かに揺れた。書類を机に置き、カーテンを少し直す。
立ち去ろうとして——机の端に、小さな針山があるのに気づいた。
置き物かと思ったが、よく見ると細い針が数本刺さっている。 その隣に、糸の切れ端が一本、静かに落ちていた。
(……なんで執務室に、こんなものが)
ふと、ケープの手触りを思い出した。 旅の間、ずっと肩にかけていたあのケープ。 裏地の縫い目が、どこか職人とは違う温かさを持っていた気がして。
まさか、と思う。 でも、確信は持てないまま、執務室を出た。
廊下に出てから、一度だけ振り返った。閉じたドアの向こうに、走り書きのスケッチが残っている。
——あの人は、ここで一人で、こんな仕事をしていたんだ。
あの青い瞳を見たら、きっと思い出してしまう。誰にも見せない筆跡も、描き直された無数の線も、深夜まで灯りが消えない執務室も。
——知らないままではいられなくなってしまった。
****
図書室は、天井まで届く棚が並ぶ静かな部屋だった。メモのリストを見ながら、背表紙を一つずつ確認していく。 経済書、法律書、領地管理の専門書……。
(これを全部、読んでいるんだ)
難しそうな本ばかりだったが、よく見ると背表紙が少し擦れているものがある。何度も手に取った跡だろう。
アレクシスの美しい横顔が、つい頭に浮かぶ。
——努力の人。
(それを周りに見せないんだ)
リストの本を探し終え、エレノアは棚の間を歩いていた。 ふと、一冊の本が目に留まった。
料理の本だった。 庭や植物の本と並んでいる。なんとなく手に取る。ページをめくると、各国の家庭料理が絵付きで紹介されていた。あまり手に取られていないのか、開いた後がない。
(アレクシス様が好きな食べ物は、何かあるかな)
――そこまで考えて、エレノアははっとした。
夫婦になるのだから、相手の嗜好を把握しておくのは公爵夫人としての当然の義務。そう自分に言い聞かせる。けれど、ノートの端に小さく描かれたケーキの断面図を思い出すたび、義務とは違う、もっと個人的な好奇心が胸をちりちりと急かした。
メモのリストの本を抱えて、図書室を出る。 アレクシスの字で書かれたリストを、もう一度だけ見た。
先日の、あの夜を思い出して。手を握られたときの、彼の指の熱。「覚悟しておいてください」と囁いた、あの声。思わず心臓がぎゅうとなる。
「エレノア様?真っ赤な顔されて、どうかされましたか?」
「うわ…っ!!」
フィオナに話しかけられて、エレノアの心臓が口から出そうになる。執務まで一緒に本を運ぶ。すると、アレクシスが帰ってきた音がする。ギルバートが出迎えている。
「アレクシス様、早かったですね」
フィオナがこっそりと言う。
「アレクシス様、最近エレノア様に会いたくて、いつも急いで帰ってきてる気がします 」
「え」
いやいや、彼は忙しいから、帰ってからも仕事をするためでは …。
いつものエレノアなら、そう笑って受け流していただろう。 ――けれど。
脳裏をよぎったのは、馬車の中で見せられた彼のあの眼差しだ。 完璧な次期公爵としての仮面ではない、あの熱を帯びた青い瞳。『嬉しくて、どうしようもないです』と言った声を思い出すと、理性がうまく働かなくなる。
(……まさか、ね)
そう思うのに、心のどこかで、否定しきれない自分がいた。
玄関ホールから聞こえていた足音が、ふと止まった。
視線を上げると、アレクシスがこちらを見ていた。 ギルバートが何か話しかけているのに、彼の目はまっすぐエレノアを捉えている。
——見つかった
そんな感覚がした。
その目には、隠しきれない飢えと安堵ようなものが、同時に滲んでいた。
思わず息を呑む。
次の瞬間、彼はいつもの完璧な微笑みを浮かべ――しかし、その足を止めずにまっすぐこちらへ歩み寄ってきた。
「ただいま戻りました、エレノア」
挨拶と共に、アレクシスが当然のように手を伸ばす。 避ける理由などない。これは完璧な婚約者同士の、義務的な触れ合いだ。そう自分に言い聞かせるエレノアの手から、彼は抱えられた本をそっと引き取り、空いた彼女の指先を、大きな掌でふわりと包み込んだ。
「……っ」
近い。政略結婚の距離ではない。 いつもより一段低い彼の声の響きも、触れ合った指先から伝わる驚くほどの熱も、すべてが「公爵令息」ではなく一人の「男」としての生々しさを持ってエレノアの肌を焼く。
「……おかえりなさいませ、アレクシス様」
辛うじてそれだけを返すと、アレクシスは満足したように、甘く目を細めた。
残る本を胸に抱き直しながら、エレノアは遠ざかる彼の背中を見つめた。 じわりと指先に残る熱が、冷めてくれない。
(この婚約は、政略結婚のはずだ)
家のため、役割のため。お互いに割り切っているはずなのに。 どうして彼は、こんなにも私を揺さぶるのだろう。
エレノアは、冷たいはずの本を、まるで彼の体温を繋ぎ止めるように強く抱きしめた。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回33話の更新は7/20(月)予定です。




