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孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


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第31話 エレノアの第一歩

近い将来執り行われる、ヴァルトハイム公爵家とローゼンベルク公爵家の婚礼。 その式場候補である大聖堂への挨拶と、内装の打ち合わせのために二人は街へ出ていた。 滞りなく視察を終え、並んで歩いていた折、聞き覚えのある甲高い声に呼び止められた。


「あら、エレノア様じゃない?」


学生時代、同じ社交界デビューの場にいた令嬢だった。名前は覚えているが、当時は特に親しかったわけではない。むしろ、遠巻きに笑われていた記憶の方が強い。 隣には、アレクシスがいた。


「まあ、ヴァルトハイム卿の婚約者になられたんですって? 信じられない、あの頃のエレノア様が」


悪気はないのだろう。だが、言葉の端々に、値踏みするような響きが滲んでいた。


「昔から変わったご趣味でしたものね。今も、あの……地味なインク収集ですとか、紙の質や文字の形を眺めるようなお遊び、続けていらっしゃるの?」


くすくすと笑いながら、令嬢が続ける。


(やれやれ。面倒くさい)



エレノアの表情から、令嬢らしい微笑みが抜け落ちた。綺麗に整えられた眉が一瞬、不快そうに動く。今まで通りなら、穏やかな声音のまま、能面のような完璧な無表情でやり過ごしていた。



「……はあ」



思わずエレノアは取り繕うこともせず、令嬢の目の前で、はっきりと肩を落として深い溜め息を吐いてしまった。



学生時代のエレノアには特出する趣味はなかったけれど、人のうわさ話に首をつっこんだり、流行のドレスのデザインを追いかけたり、おしゃべりで見栄や駆け引きをするくらいなら、本の字体がどういったもので、どう本の印象を変えるかを眺める方が良かった。

ペンの書き心地や、墨だまり、その人が書く字のクセなんかも、見ているのは嫌じゃなかった。



――そんな苦い学生時代のことが、エレノアの胸を懐かしくかすめていった。


握った手にふと視線を落とすと、隣に立つ、アレクシスの磨かれた革靴が見えた。

――彼が、隣にいる。


エレノアは無表情にそれを見た。一瞬だったけど、エレノアには時間が止まったような気がした。


(もしかして、ここが分かれ目?)


ふとそんなことを思った。


このまま、今までと同じように、無表情のまま受け流すのか。

それとも――今度こそ、自分らしくいていいのか。

昔なら、絶対にできなかった。けれど今は、隣にいる彼になら、この顔を見せても、大丈夫な気がした。



眉間にはっきりと皺を寄せ、心底うんざりした、隠す気もないダルそうな顔をしてみせる。



「ええ、今も。我が実家、ローゼンベルク領の染色技術を活かした色彩はとても奥が深いですから。趣味は変わりません」



投げやり一歩手前の、明らかに温度の低い声。 令嬢はエレノアの想定外に露骨な「だるそうな態度」に一瞬怯み、引きつった笑いを浮かべた。


アレクシスは、そのエレノアの様子を、驚いたように目を見開いて見つめていた。



「失礼ですが」


アレクシスが、磨き抜かれた氷のように涼やかな声で割って入る。


「彼女のその優れた審美眼のおかげで、私たちの婚礼の招待状は、王室御用達の職人も唸るほどの芸術品になりそうです。ローゼンベルクのインクと、エレノアが選んだ美しい書体で仕上がる招待状を、皆さんにお届けするのが今から楽しみで仕方がないのですよ」



穏やかな口調だったが、それ以上の侮るような会話を一切許さない、圧倒的な格の違いを示す静かな圧があった。


エレノアは彼の涼しい横顔を見つめる。



「そ、そうですか……。それは、素晴らしいですわね。では、私はこれで」



自分のいじりを冷酷に返されたのだと察した令嬢は、顔を引きつらせてそそくさと去っていった。その後ろ姿を見送りながら、エレノアは小さく息を吐いた。



****



馬車に乗り込むと、アレクシスがすぐに口を開いた。


「さっきの顔」


エレノアが、ピシリと背筋を伸ばした。尻尾を踏まれた猫のような反応だった。


「あの令嬢の言葉を聞いた時の顔です。あんな顔、するのですね」


エレノアの心臓が、小さく跳ねた。


――知りたい、と言われたことを、思い出す。 あの夜の言葉が、まさかこんな形で叶うとは思っていなかった。



「あ、いや…。少し、我慢ができなくて」


アレクシスは、なぜか少し嬉しそうだった。


「あんな顔、初めて見ました」

「……幻滅、しました?」



恐る恐る尋ねる。


「まさか」


即答だった。


「あなたのことを、すべて知りたいと言いました。あの顔を見られたのが、僕だけだと思うと」


言葉を切って、アレクシスは窓の外へ視線を向けた。


「嬉しくて、どうしようもないです」


その声が、思いのほか本気だったので、エレノアは何も言えなくなった。


「本当に、それだけ?」


からかうように、けれど少し探るように、そう聞いてみる。 あの日の会話を、彼はどこまで覚えているのだろう。


「それだけでは、いけませんか」


アレクシスが、こちらを見て微笑んだ。

いつもの完璧な社交界用の笑顔ではない。細められた青い瞳の奥に、じっと獲物を閉じ込めるような、濃密で、酷く艶やかな光が灯っている。 いつもとは違うその眼差しの熱を肌で感じて、エレノアはそれ以上からかうこともできなくなった。 少し気恥ずかしそうに眉を下げて、「フフ」と笑う。


――もし、あの無防備で、だるそうな顔を。


アレクシスは、ふと、そんなことを考える。

もしあの表情を、自分以外の誰かに見せるようなことがあれば。



窓の外へ視線を戻したアレクシスの口元に、ふわりと小さな笑みが浮かんだ。

なぜこんなにも胸が満たされているのか、その理由を深く突き詰めるつもりはなかった。ただ、他者には決して見せない彼女の「裏側」を、一番最初に、自分だけが手に入れた。その事実が、脳の奥を痺れさせるほどに彼を満足させていた。



誰の目にも触れさせたくない。自分の前だけで、その素顔を晒し、自分にだけ我儘を言って、だるそうに溜め息を吐いてほしい。



膝の上に置いた指先に、ほんのわずかだけ力がこもる。 理由のつかない独占欲が、引き返せないほど深く自分の中に根を張っていること。その歪な心地よさに、アレクシスはただ静かに、身を委ねていた。



本日もお読みいただきありがとうございました。

次回32話は7/19(日)更新予定です。

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