第30.5話 知りたいんです
~30話の、二人が果実酒を試飲しているときのお話~
「けっこう強いですね」
使ったワインのボトルを見ながら、アレクシスが意外そうに唇をほころばせる。
ほんの小一時間、果実酒の味見をしていたはずが、いつのまにか二人の手元では杯が何度も重ねられていた。
「アレクシス様はお酒は普通に飲まれますよね?」
エレノアは、きらびやかな夜会で常に完璧に立ち回る彼の姿を思い出しながら尋ねる。
「ええ、まあ」
エレノアの意図を汲んだアレクシス。きらり、青い目がいたずらっぽく光る。彼は自らの有能さを隠そうともせず、あえて挑発するように言葉を置く。
「お強いと言ってましたよね…エレノア?」
「アレクシス様よりは強いと思いますよ」
ほう…?、彼は目を細め、仕留める獲物を定めるように舌なめずりする。場の主導権を握る。それは彼が最も得意とする社交界での戦い方だった。彼は手元のカップをチェスの駒のようにかざし、滑らかな声で提案する。
「一つ提案があるんですが、僕たち婚約している身として、仲良くならなければなりませんよね?」
「はい…でも、提案って?」
「一杯飲むごとに、相手に一つ質問していきませんか?飲めなくなったら負け」
エレノアは思わず吹き出した。
「尋問みたい」
「答えたくなければ、答える代わりに一杯飲む。簡単でしょ?」
「それ、私を酔わせたいだけでは? 」
「否定はしません。やりますか?」
エレノアもまた、負けず嫌いな一面を覗かせていたずらっぽく目を細める。
「負けませんよ」
では僕から。アレクシスが躊躇なく杯を干す。喉の輪郭が美しく動いた。
「好きな花は?」
「バラです」
「似合いますね」
次、エレノアが一杯。
「苦手なものは?」
「雷」
「本当に?」
「音が苦手なんです」
「ふふ、かわいい」
「今笑いました?」
「少しだけ」
熟練のギャンブラーのように、アレクシスは静かにカップに酒を注ぎ、揺さぶりをかける。
「好きな季節は?」
「冬です」
「意外ですね、寒がりそうなのに 」
「静かだから好きなんです」
「……わかる気がします」
また一杯。エレノアが聞く。
「好きな色は?」
「うーん…深い青灰色…かな」
アレクシスが少し考えて言った。
「それ、どんな色ですか?」
「…なんか…夜明け前の、誰もいない空みたいな色です 」
エレノアの瞳をじっと見つめながら、まるで彼女そのものの色だと言いたげに呟く。
「あー…」
エレノアは考えこむように、顎に手を当てる。そして「わかります」と言った。
夜更かしをするとき。
だんだんと明るくなる空。…ひっそりと帰った自室で過ごす夜会の終わりは、いつもその色だった。
「なんか全部青いんですよね。きれいですよね」
そういうエレノアの目は遠くを見て、ひどく穏やかで優しい顔をしている。
アレクシスの瞳が少し見開かれる。
まただ、と思った。彼女が今、サロンで甘いものを好きな人を思い出していたときと同じ顔をしていることに気づいたのだ。完璧な仮面の下で、彼の心臓がどくり、と嫌な重さで跳ねる。
次、アレクシスがもう一杯、喉に流し込む 。
「一番好きな時間は?」
――夜会です。
そう答えそうになり、エレノアはハッとして言葉を飲み込んだ。
かけがえのないリィとの時間。名前がない、私たちの特別な関係。魂が惹かれあうような気持ちになる時間。
―― 危なかった。
「夜明け前の時間です」
「……あ、僕の好きな色に被せてきましたね 」
「ほ、本当に好きなんです」
少し焦って、エレノアは言う。少し焦って言い訳するエレノアに、アレクシスは「へえ……」と喉を鳴らした。
「アレクシス様は?」
「実は、僕もなんです」
フフ、と笑う顔が、なんだか急に年相応な感じがして。
―― こんな風にも笑うんだ。
エレノアの心臓がしめつけられた。共通点があると素直に嬉しい。
また一杯。アレクシスが、勝負の盤面を進める。ここまでは、彼の計算通りだった。
「子供の頃は、どんな子でしたか」
「……元気な子だったと思います。本を読むのが好きでしたが」
「友達は?」
「多くはなかったです」
エレノアが答える。アレクシスは何も言わず、ただ頷いて聞いた。その冷徹な青い瞳が、答えの奥にある彼女の「孤独の輪郭」を精密に探っている。
エレノアは引き込むように一杯飲む。順番が来て、彼女が切り込んだ。
「アレクシス様は、子供の頃どんな子でしたか」
「……あまり、覚えていません」
短い答えだった。飲むこともせず、ただそう言った。
「覚えていない、というのは」
「忘れた方がいいことが多かったので」
息を呑むエレノアを見つめ、アレクシスはすかさずもう一杯を煽る。会話の主導権を絶対に渡さない。相手の動揺を突く、彼特有の攻め方だった。
「誰かに頼るのは、苦手ですか」
エレノアが少し考える。
「……苦手かもしれません。一人でいる方が、楽だったので」
「今は?」
その問いに、エレノアは少し詰まった。
「……今は、わかりません」
正直な、無防備な答えだった。アレクシスはそれ以上追及せず、満足そうに目を細めた。
次は、エレノアの番だった。彼女は彼の鉄壁の防衛を崩そうと、核心を突く。
「幸せだと思う瞬間は、いつですか」
アレクシスは少し考えて、「最近、増えました」と答えた。
「どんな時ですか?」
「……それは」
と、答えるふりをして、大げさにごくりと一杯飲んだ。エレノアが小さく唇を尖らせた。
「アレクシス様、ずるいです」
「お互い、ずるいんですよ」
二人とも、頬がほんのり熱い。
酒のせいなのか、それ以外のせいなのか、もうわからなくなっていた。
「アレクシス様、私ばっかり聞かれている気がします」
エレノアが、ふと気づいて言う。アレクシスは少し考えて、「そうですね」と答えた。
――ここまでは、彼が仕掛けた完璧な駆け引きのはずだった。 婚約者のすべてを暴き、自分だけの手の内に収めるための、計算されたやり取り。
しかし、自分以外の「誰か」を想って優しく微笑んでいた彼女が、次の瞬間、潤んだ瞳で自分をまっすぐに見つめてきた。 その落差に、彼の胸の奥でどす黒い焦燥が跳ねる。
その目に映る自分は、ただの書類上の婚約者に過ぎないのか。彼女のすべてを、その心ごと自分だけのものにしたいという独占欲が、制御の鎖を焼き切って暴走を始める。
「知りたいんです」
低く、静かに付け加えられたその声は、いつもより明らかに温度が低かった。
「……何を」
「あなたのことをすべて教えて欲しい」
社交界の仮面が、ボロリと内側から剥がれ落ちていく。冗談めいた響きは、もう一欠片も残っていなかった。
「好きなものも、嫌いなものも」
侵食するように、 静かな声が続く。
「機嫌がいい時に何を考えているのかも」
「どんな本を読んで、どんな言葉に傷ついてきたのかも 」
「どんなことで笑うのかも」
「まだ僕の知らないあなたを」
アレクシスが、衝動を抑えきれないようにエレノアの手を強く取った。 指先が、じんわりと熱い。二人とも、手袋をしていない。生身の肌が、ダイレクトに熱を伝え合う。
「これから先、僕たちは夫婦になります」
低く、引きずり込むような質量を持った言葉が続く。
「だから、知っておきたいんです。あなたが何に笑って、何に震えて。……どこに触れたら、どんな顔をするのかまで。他の誰にも見せない姿を、僕だけに刻みつけてほしい 」
余裕を見せているつもりの口元は甘く微笑んでいるのに、その奥の青い瞳は、一欠片も笑っていなかった。ただどす黒い執着と独占欲だけが、ぎらぎらと燃えている。
自分の言葉に、自分自身が狂わされていく。
エレノアの体温が一気に跳ね上がるのが分かった。
「……っ」
エレノアは声にならなかった。
「僕は、あなたの婚約者ですよ」
深夜に、二人きり。アレクシスは何かを言おうとして、途中で口を閉じた。その視線だけが、エレノアから離れない。
「……教えて、くれますか」
囁くような声。逃げ場がなかった。
ドクン ドクン
エレノアの心臓がうるさく鳴り響く。あの馬車での出来事が、彼に強く抱きしめられた記憶が蘇る。あの時と同じ、痛いくらいの男の熱量。
「わたし……」
声が、震えた。
逃げたいのに、逃げられない。
彼の指先が、エレノアの手の甲を、確かめるようにそっと撫でた。
――これ以上は、一線を越える。
アレクシスの脳内で、理性の警報が鳴り響いた。これ以上踏み込めば、ゲームの体裁を失い、自分のどす黒い本性をこの場で完全に晒してしまう。
ぱちり。
その瞬間、暖炉の火が、ぱちりと大きく鳴った。
「……はい、僕の勝ち!」
アレクシスが、ふっと顔に「余裕の仮面」を貼り付け直して笑った。
「…え?」
呆然とするエレノアが卓上を見つめると、 彼はきちんと質問の際に飲んでいて。
自分は答えられず、もう果実酒はなくなり、彼の方が多く飲んだことになっていた。
「えええー! 今、わざと……?」
「さあ、どうでしょう」
アレクシスはカップを置いて、乱暴にジャケットを持つとキッチンを出ていく。
その背中が、いつもより、少しだけ余裕がなかった。
「あ、言い忘れましたが…」
アレクシスは扉の前で振り返る。その青い瞳は、闇のように深く細められていた。
「夫婦になったら、もっと深く互いを知ることになります。……覚悟しておいてくださいね 」
警告のような低い声が、扉の隙間に残った。
「おやすみなさい、エレノア」
そう言って、彼は今度こそ去っていった。
(...急に来る、夫婦発言...)
一人残されたエレノアは、彼の指先の熱がまだ残っている手の甲を、もう片方の手でそっと押さえた。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回は7/17(金)にて公開予定です。




