↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
孤独な公爵令息は、夜の香りに毒される 〜夜会で恋した「彼」は、完璧な昼の婚約者(ただし男装令嬢)でした〜  作者: ユニ子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/57

第30話 真夜中の飲み

喉が渇き、エレノアは一人キッチンへと向かった。

深い夜。廊下は静まり返り、冷ややかな月明かりだけが、床を白く、頼りなく照らしている。


キッチンの扉を、音を立てないよう細く開けた瞬間――エレノアは呼吸を忘れて立ち尽くした。


そこに、アレクシスがいた。

いつもの完璧な上着はどこかに脱ぎ捨てられ、白いシャツのボタンはいくつか外されている。


肘まで無造作に捲り上げられた袖。ただ一人の青年が、孤独な夜の中で、静かに何かに心を通わせている……そんなひどく無防備な姿だった。


月明かりと、手元のわずかな灯りが交差するなか、彼は作業台の前に立ち、小さな瓶を両手で包み込むようにしてじっと眺めていた。



——また、具合でも悪いのか?大丈夫?



エレノアは以前の彼を思い出し心配した。しかし、今回は消耗している雰囲気ではなかった。


捲り上げた袖から覗く、しなやかな白い前腕。

月明かりに透ける、少し乱れた金髪。

瓶を持つ長い指先が、何かを愛おしむように、微かに動いている。



(あれ、もしかしてヴィクトルの作ったスープ…?)



目が離せなかった。どのくらいそうしていただろう。


ふいにアレクシスが顔を上げ、視線が真っ直ぐに重なった。一瞬、世界から音が消えた。「完璧」という名の仮面がない。彼を縛る「鎧」もない。ただの素顔のアレクシスが、戸惑いを湛えた瞳でエレノアを見ていた。


その瞳の奥に潜む熱があまりに眩しくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。



「……」



先に視線を逸らしたのは、アレクシスだった。そして彼は降参したように、ゆっくりと、そしてどこか甘く苦笑した。



「まったく……いつからそこにいたのですか?」



その声が、驚くほど低く、甘く響いて。 エレノアの心臓が、夜の静寂を壊してしまいそうなほど激しく打ち鳴らされる。



「さ、先ほどから……」



逃げるように視線を逸らしたエレノアの前に、彼がそっと瓶を置いた。

エレノアが戸棚を開けた。 パンと蜂蜜、焼き菓子が籠に収まっている。



「まあ、こんなものが。ヴィクトルが私のために用意してくれたのかしら?」



目が、いたずらっぽく光っている。アレクシスがエレノアを見た。



「私のためということは……つまり婚約者のアレクシス様が食べても、問題ございませんよね?」



アレクシスは少し止まって、小さく息を吐いた。そして「フ」と口元がほころぶ。



「……では、今度こっそり忍び込むことにします」



エレノアも、自然と顔がほぐれた 。「……ありがとうございます」と言った彼の声は低く、静かで、 喉の奥で震えるような、心からの、素の声だった。



エレノアははちみつ色の瞳を細め、彼に向かってそっと微笑み返した。

ふと、作業台に目を向けると、そこには色鮮やかな果物と、深い赤のワイン、そして数種類のスパイスが散らばっていた。



「それで、アレクシス様は何をしていたのですか?」

「……果実酒を作ろうと思っていたんです」


彼は手元の果物を手に取る。


「アイゼンドルフは冬になると厳しく冷えます。領地ではこういう果実酒を温めて飲む習慣があるんです。……あの旅で、エレノアが美味しそうに市場の食べ物を眺めていたのを見て、ふと思い出して」

「この屋敷も、朝晩は冷えてきましたね」

「ええ。だから今夜、作ってみようと思って」


少し間を置いて、またエレノアを見た。 何かを測るような、短い沈黙。


「考えることが多い夜は、こうして手を動かしていると……少し、落ち着くのです。よければ、付き合ってもらえますか?」


エレノアは頷き、作業台の端に腰を下ろした。包丁を手に取ったアレクシスが、果実を刻み始める。迷いのない、流れるような指先の動き。



(アレクシス様は、器用なんだ。)



静かなキッチンに、果実が刻まれる音と、鍋でワインが煮立つ微かな音が響く。

やがて、スパイスの刺激と果実の甘い香りが、湯気と共にふわりと空間を満たした。


「……こういうことが好きなんです。誰にも言っていませんでしたが」


しばらく沈黙があった。 アレクシスが、少しだけ照れくさそうに笑った。


「……変だと思いますか?」

「思いません」


短く、真顔で答えた。アレクシスは何も言わなかった。 でも、果実を刻む手が、少しだけゆっくりになった気がした。


果物が入れられた鍋が気になって、エレノアが鍋を覗き込む。肩から落ちた髪が揺れた。


「あ……」


アレクシスは自然な動作でその髪を掬った。


「失礼」


指先でまとめ、そのまま肩の後ろへ流す。


「燃えてしまいますよ」


冗談めかした口調だったが、髪を離した後、アレクシスは自分の指先を見つめていた。その後、なぜか少しだけ気まずそうに視線を逸らした。その横顔が妙にぎこちなくて、エレノアは首を傾げる。


アレクシスは咳払いを一つして、火を消す。

深い赤紫色の液体が、カップに注がれる。


「毒見を」


冗談めかして、アレクシスが至近距離でカップを差し出した。

受け取る指先が触れそうになり、エレノアの肩がびくりと揺れる。

一口、飲む。

舌の上で転がる甘酸っぱさと、鼻に抜けるスパイスの温かな香り。

体の奥から、じわりと広がる熱。

こちらを見つめるアレクシスが近い。



「おいしい……」



思わず零れた本音に、アレクシスが満足そうに、心からの笑みを浮かべた。



「果物を三種類、それにスパイスをいくつか入れてみました。エレノア嬢の好みに合えばいいのですが」

「初めての味です……温かいお酒が、こんなに優しいなんて」

「温まりました?」

「はい」


彼は「よかった」とうなずく。 そうしてまた一口飲んだ。


「アレクシス様。今日はまだこの後もお仕事ですか?」


エレノアが聞くと、少し疲れたように笑ってカップを置いた。


「ええ。……新しい事業の認可が、なかなか下りなくて。周囲からは冷笑されていますよ」

「……後悔されているのですか?」


エレノアの問いに、彼は窓の外の暗闇を見つめ、静かに、けれど強く首を振った。


「いいえ。誰かに与えられた富を消費するだけの人生は、もう終わりにしたいんです。たとえ泥を被っても、自分の力で道を切り拓きたい。……それが、私にとっての『自由』の証明ですから」


その時の彼の瞳には、かつて夜会で見たリィと同じような、ひっそりとした気高さが宿っているとエレノアは感じた。


自由、という言葉がエレノアの心に刺さる。



「…応援、してます」


言って、エレノアは赤くなった。

我ながら、なんて薄っぺらい言葉なんだろう。



けれどアレクシスは少し目を見開いて、それから視線をグラスの中身に落とした。「ありがとうございます」という声が、いつもより低かった。



二人で並んで、温かなグラスを傾ける。

アレクシスは空気を変えるように、ツンとカップを指ではじく。



「明日、ギルバートが絶対に指摘してくるはずです。かけてもいい」

「怒られてしまいますか?」

「というよりは、在庫がうんぬんと言うでしょうね。」


——前は、本当に笑わない方で。


フィオナの言葉を思い出す。

目の前のアレクシスは、フフ、と笑っている。

そういえば、社交界のときもよく笑っていた。


エレノアは隣に座る彼の肩越しに月を見上げた。 深夜のキッチンで、二人の心拍だけが、静かに共鳴していた。



このあと、二人は「質問ゲーム」と称した、際どい問答を交わすことになる。 そして、それぞれが思いがけない一面を見せ合うことになるのだが――それはまた、少し先の話。



****

翌朝、二人が一緒に朝食をとっていると、そこにギルバートが現れた。

音もなく。 いつも通りの、完璧な所作で。


「旦那様」

「……なんだ、食事中に」

「昨夜、調理場のスパイスと果物の在庫に、説明のつかない不一致がございました」

アレクシスはすました顔で紅茶を一口飲んだ。

「……それがどうした」

「加えて、廊下に残った微かな甘い香りが、今朝の執務の妨げになりかねません」


ギルバートが一礼して、下がった。


アレクシスが、ほんの少しだけ、口元を緩めた。エレノアが口元を隠した。

廊下に出たギルバートの背中は、いつも通りだった。

何も言わなかったが、その足取りが心なしか、いつもより軽い気がした。

エレノアはドキドキしながら、すました顔のアレクシスを見つめた。


(あんな顔で、昨夜は……)


手の甲に触れた指先の熱を、まだ覚えている。何事もなかったような今の彼の横顔が、逆に落ち着かなかった。


本日もお読みいただきありがとうございました!

次回30.5話は7/13(月)公開予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。