第30話 真夜中の飲み
喉が渇き、エレノアは一人キッチンへと向かった。
深い夜。廊下は静まり返り、冷ややかな月明かりだけが、床を白く、頼りなく照らしている。
キッチンの扉を、音を立てないよう細く開けた瞬間――エレノアは呼吸を忘れて立ち尽くした。
そこに、アレクシスがいた。
いつもの完璧な上着はどこかに脱ぎ捨てられ、白いシャツのボタンはいくつか外されている。
肘まで無造作に捲り上げられた袖。ただ一人の青年が、孤独な夜の中で、静かに何かに心を通わせている……そんなひどく無防備な姿だった。
月明かりと、手元のわずかな灯りが交差するなか、彼は作業台の前に立ち、小さな瓶を両手で包み込むようにしてじっと眺めていた。
——また、具合でも悪いのか?大丈夫?
エレノアは以前の彼を思い出し心配した。しかし、今回は消耗している雰囲気ではなかった。
捲り上げた袖から覗く、しなやかな白い前腕。
月明かりに透ける、少し乱れた金髪。
瓶を持つ長い指先が、何かを愛おしむように、微かに動いている。
(あれ、もしかしてヴィクトルの作ったスープ…?)
目が離せなかった。どのくらいそうしていただろう。
ふいにアレクシスが顔を上げ、視線が真っ直ぐに重なった。一瞬、世界から音が消えた。「完璧」という名の仮面がない。彼を縛る「鎧」もない。ただの素顔のアレクシスが、戸惑いを湛えた瞳でエレノアを見ていた。
その瞳の奥に潜む熱があまりに眩しくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……」
先に視線を逸らしたのは、アレクシスだった。そして彼は降参したように、ゆっくりと、そしてどこか甘く苦笑した。
「まったく……いつからそこにいたのですか?」
その声が、驚くほど低く、甘く響いて。 エレノアの心臓が、夜の静寂を壊してしまいそうなほど激しく打ち鳴らされる。
「さ、先ほどから……」
逃げるように視線を逸らしたエレノアの前に、彼がそっと瓶を置いた。
エレノアが戸棚を開けた。 パンと蜂蜜、焼き菓子が籠に収まっている。
「まあ、こんなものが。ヴィクトルが私のために用意してくれたのかしら?」
目が、いたずらっぽく光っている。アレクシスがエレノアを見た。
「私のためということは……つまり婚約者のアレクシス様が食べても、問題ございませんよね?」
アレクシスは少し止まって、小さく息を吐いた。そして「フ」と口元がほころぶ。
「……では、今度こっそり忍び込むことにします」
エレノアも、自然と顔がほぐれた 。「……ありがとうございます」と言った彼の声は低く、静かで、 喉の奥で震えるような、心からの、素の声だった。
エレノアははちみつ色の瞳を細め、彼に向かってそっと微笑み返した。
ふと、作業台に目を向けると、そこには色鮮やかな果物と、深い赤のワイン、そして数種類のスパイスが散らばっていた。
「それで、アレクシス様は何をしていたのですか?」
「……果実酒を作ろうと思っていたんです」
彼は手元の果物を手に取る。
「アイゼンドルフは冬になると厳しく冷えます。領地ではこういう果実酒を温めて飲む習慣があるんです。……あの旅で、エレノアが美味しそうに市場の食べ物を眺めていたのを見て、ふと思い出して」
「この屋敷も、朝晩は冷えてきましたね」
「ええ。だから今夜、作ってみようと思って」
少し間を置いて、またエレノアを見た。 何かを測るような、短い沈黙。
「考えることが多い夜は、こうして手を動かしていると……少し、落ち着くのです。よければ、付き合ってもらえますか?」
エレノアは頷き、作業台の端に腰を下ろした。包丁を手に取ったアレクシスが、果実を刻み始める。迷いのない、流れるような指先の動き。
(アレクシス様は、器用なんだ。)
静かなキッチンに、果実が刻まれる音と、鍋でワインが煮立つ微かな音が響く。
やがて、スパイスの刺激と果実の甘い香りが、湯気と共にふわりと空間を満たした。
「……こういうことが好きなんです。誰にも言っていませんでしたが」
しばらく沈黙があった。 アレクシスが、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……変だと思いますか?」
「思いません」
短く、真顔で答えた。アレクシスは何も言わなかった。 でも、果実を刻む手が、少しだけゆっくりになった気がした。
果物が入れられた鍋が気になって、エレノアが鍋を覗き込む。肩から落ちた髪が揺れた。
「あ……」
アレクシスは自然な動作でその髪を掬った。
「失礼」
指先でまとめ、そのまま肩の後ろへ流す。
「燃えてしまいますよ」
冗談めかした口調だったが、髪を離した後、アレクシスは自分の指先を見つめていた。その後、なぜか少しだけ気まずそうに視線を逸らした。その横顔が妙にぎこちなくて、エレノアは首を傾げる。
アレクシスは咳払いを一つして、火を消す。
深い赤紫色の液体が、カップに注がれる。
「毒見を」
冗談めかして、アレクシスが至近距離でカップを差し出した。
受け取る指先が触れそうになり、エレノアの肩がびくりと揺れる。
一口、飲む。
舌の上で転がる甘酸っぱさと、鼻に抜けるスパイスの温かな香り。
体の奥から、じわりと広がる熱。
こちらを見つめるアレクシスが近い。
「おいしい……」
思わず零れた本音に、アレクシスが満足そうに、心からの笑みを浮かべた。
「果物を三種類、それにスパイスをいくつか入れてみました。エレノア嬢の好みに合えばいいのですが」
「初めての味です……温かいお酒が、こんなに優しいなんて」
「温まりました?」
「はい」
彼は「よかった」とうなずく。 そうしてまた一口飲んだ。
「アレクシス様。今日はまだこの後もお仕事ですか?」
エレノアが聞くと、少し疲れたように笑ってカップを置いた。
「ええ。……新しい事業の認可が、なかなか下りなくて。周囲からは冷笑されていますよ」
「……後悔されているのですか?」
エレノアの問いに、彼は窓の外の暗闇を見つめ、静かに、けれど強く首を振った。
「いいえ。誰かに与えられた富を消費するだけの人生は、もう終わりにしたいんです。たとえ泥を被っても、自分の力で道を切り拓きたい。……それが、私にとっての『自由』の証明ですから」
その時の彼の瞳には、かつて夜会で見たリィと同じような、ひっそりとした気高さが宿っているとエレノアは感じた。
自由、という言葉がエレノアの心に刺さる。
「…応援、してます」
言って、エレノアは赤くなった。
我ながら、なんて薄っぺらい言葉なんだろう。
けれどアレクシスは少し目を見開いて、それから視線をグラスの中身に落とした。「ありがとうございます」という声が、いつもより低かった。
二人で並んで、温かなグラスを傾ける。
アレクシスは空気を変えるように、ツンとカップを指ではじく。
「明日、ギルバートが絶対に指摘してくるはずです。かけてもいい」
「怒られてしまいますか?」
「というよりは、在庫がうんぬんと言うでしょうね。」
——前は、本当に笑わない方で。
フィオナの言葉を思い出す。
目の前のアレクシスは、フフ、と笑っている。
そういえば、社交界のときもよく笑っていた。
エレノアは隣に座る彼の肩越しに月を見上げた。 深夜のキッチンで、二人の心拍だけが、静かに共鳴していた。
このあと、二人は「質問ゲーム」と称した、際どい問答を交わすことになる。 そして、それぞれが思いがけない一面を見せ合うことになるのだが――それはまた、少し先の話。
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翌朝、二人が一緒に朝食をとっていると、そこにギルバートが現れた。
音もなく。 いつも通りの、完璧な所作で。
「旦那様」
「……なんだ、食事中に」
「昨夜、調理場のスパイスと果物の在庫に、説明のつかない不一致がございました」
アレクシスはすました顔で紅茶を一口飲んだ。
「……それがどうした」
「加えて、廊下に残った微かな甘い香りが、今朝の執務の妨げになりかねません」
ギルバートが一礼して、下がった。
アレクシスが、ほんの少しだけ、口元を緩めた。エレノアが口元を隠した。
廊下に出たギルバートの背中は、いつも通りだった。
何も言わなかったが、その足取りが心なしか、いつもより軽い気がした。
エレノアはドキドキしながら、すました顔のアレクシスを見つめた。
(あんな顔で、昨夜は……)
手の甲に触れた指先の熱を、まだ覚えている。何事もなかったような今の彼の横顔が、逆に落ち着かなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回30.5話は7/13(月)公開予定です。




