第29.5話 会えなくても
冬が近づく頃から、屋敷でアレクシスの姿を見ることが減った。
朝まだ暗いうちに、彼は屋敷を出て、夜は蝋燭の芯が短くなる頃にようやく帰ってくる。食堂の椅子は、いつも片方だけ冷たいままだった。
屋敷にいるのか、いないのか。それすらもわからない日が増えていく。
エレノアは、特に何も言わなかった。忙しい人だということは、もうとっくにわかっている。
しかし廊下を歩くとき、目の端でつい彼の姿を探してしまう自分がいた。
——いない。
窓の外では、木々が最後の葉を手放し始めていた。庭師が落ち葉を掃く音だけが、いつもより大きく響く。屋敷全体が、少しだけ静かになった気がした。
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ある朝、扉の前に何かが置いてあった。
細長い包み。紐は几帳面に、蝶結びで丁寧に結ばれている。表には、流れるように美しい筆跡で「エレノアへ。」とだけ書かれていた。
エレノアはしばらくそれを見下ろしてから、しゃがみ込み、そっと手に取った。
紐をほどく指先が、少しだけ冷たい。
開けると、中から一枚の羽根が現れた。青とグレーの混じった、大きな羽根だった。
窓から差し込む朝の光にかざすと、色が微かに揺れる。灰色だと思っていた部分に、青が滲むように浮かび上がった。
一緒に、小さなメモが折りたたまれていた。
——「視察先で見つけました。」
それだけだった。
エレノアは羽根を手のひらに乗せたまま、しばらく動けなかった。
視察先で、彼がこれを見つけた瞬間を想像してみる。書類の束を抱え、馬車を待つ合間。ふと足元か、道端の茂みか。忙しさの中で、一瞬だけ視線が留まる。
——誰かに渡そうと思って。
その「誰か」が、私だった。
(そう思ってしまった)
それだけのことなのに。
胸の奥が、じんわりと、けれど確かに熱を持った。冷えていた指先が、羽根を包んだまま少しずつ温まっていくのがわかる。
言葉より先に、何かが届いてしまった。
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——何か、私からも渡せるだろうか。
彼が拾ってきてくれた羽根ほど、心を動かすものなんて持っていない。それでも、何か返したかった。
窓辺に立って庭を見渡す。冬に向かう庭は、色を失いかけていた。それでも一輪、白い花が霜にも負けず咲き残っている。
——これがいい。
庭に下り、迷わずその一本だけを摘んだ。茎を短く切り、小さな紙にくるむ。宛名は書かなかった。
夜が更けた頃、足音を忍ばせて執務室のドアノブにそっと掛けた。誰にも見られなかった。物音もしなかった。ただ、置いてきただけだ。
——伝わるだろうか。
伝わらなくてもいい、とも思った。ただ、ここに自分がいた、という痕跡を残したかっただけかもしれない。
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それから、やり取りは静かに続いた。
二度目は、小さな髪飾りだった。視察先の職人が作ったという、細やかな細工が施されたもの。銀の糸が、蔦のように編み込まれている。
エレノアはそれを手に取り、しばらく考えた。今度は、何かを「作って」返したかった。
厨房へ向かい、ヴィクトルの大きな背中に声をかける。
「焼き菓子の作り方を、教えてもらえませんか」
ヴィクトルが、大きな体をゆっくりと振り返らせた。
「……え?」
エレノアは、はちみつ色の瞳をいたずらっぽく煌めかせる。ヴィクトルはしばし黙り込み、それから深く息を吐いた。
「……仕方ないですね」
差し出されたエプロンは、エレノアには少し大きすぎた。二人で並び、粉を量り、はちみつと、アイゼンドルフ産のスパイスを少しだけ加える。不格好な焼き上がりだったが、部屋いっぱいに広がる香りだけは、驚くほど良かった。
小さな布袋に詰め、その夜も同じドアノブに掛けた。
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三度目のある日、エレノアは町へ出た。夜会の場所を確認するためだ。今月はまだ、目印を見つけていなかった。
石畳の路地を一本入ったところに、小さな布地の店があった。店先の棚に、細かい編み目のレースが並んでいる。
(きれい)
思わず足が止まった。白に近い、淡い色。光に透かすと、蔦のような模様がふわりと浮かび上がる。
なぜか、アレクシスの横顔が思い浮かんだ。彼の好みかどうかはわからなかった。それでも、一つだけ買った。
その夜、いつものドアノブに、その包みを掛けた。
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しばらくして、扉の前にまた何かが置かれていた。小さな包みを開くと、中には一枚の押し葉が入っていた。紅葉した葉が、丁寧に、時間をかけて乾かされている。
アイゼンドルフからの帰り道、二人で並んで眺めた紅葉と、同じ色をしていた。
——「エレノアへ。」
いつもと同じ筆跡で、それだけ書かれていた。
エレノアは、葉を手のひらに乗せたまま、しばらく立ち尽くした。
——あの日のことを、思い出す。
馬車の窓越しに見た、燃えるような山の色。隣に座っていた彼の横顔。ふいに視線が合ったときの、少し困ったような笑い方。
最近、そればかりだ。
会っていないのに。
むしろ、会えないから。
前よりずっと、彼のことを考えている。
——馬鹿みたいだ。
そう思うのに、頬が緩むのを止められなかった。
昼のエレノアなら、きっと目を伏せていた。誰かに見られていないか、まず確かめていた。
でも今は、誰も見ていない。
だから、エレノアは一人で嬉しそうに笑っていた。




