第29話 この屋敷の、静かな答え
「エレノア様って……カッコイイ!!」
廊下の先から、メイドたちの声が聞こえてきた。
「この間、脚立から落ちかけたときに、エレノア様が男の人みたいに受け止めてくださってね。そのあと『怪我は?』って」
「えー!」
「それだけで、なんかドキッとしちゃって……」
仕事中の私語は、本来なら注意すべき案件だ。三十年、そうしてきた。執事のギルバートは、今日だけは聞こえなかったことにした。歩きながら、先日の、料理長ヴィクトルとの会話を思い出す。
「今月の仕入れの件ですが、実は…」
ヴィクトルが少し言いにくそうにして、手元の紙を差し出した。ギルバートは受け取って、目を通した。
いくつかいつもと違う品目がある。数も普段より多い。
「旦那様が朝食を召し上がれないことが多いので、手軽につまめるものを用意します。燻製肉とパン、それとスープの素の材料も追加します」
「…もしや…エレノア様が、そう言われたのか」
「……はい」
ヴィクトルが腕を組んだ。
「俺の腕ならおいしくできるはずだと」
「それで承諾したのか」
「……はい」
ギルバートは紙を見た。本来なら、屋敷の仕入れはまだギルバートの管轄だ。 エレノアが直接料理長に話を通したことは、手順として正しくない。
——だが。
アレクシスが朝食を断ることは、ギルバートも気になっていた。 何度か改善を試みたが、アレクシスは「構うな」と言うだけだった。 確かに、エレノアの案ならいいかもしれない。
「仕入れは承認します」
ギルバートは紙をヴィクトルに返した。
「ただし、次から屋敷の仕入れに関わる変更は、先に私に話を通すように。エレノア様にもそう伝えてください」
「わかりました」
ヴィクトルが頷いた。 それから、「……いつもなら断るんですが」とヴィクトルはばつが悪そうに頭をかく。
「最初に入ってこられたとき、令嬢らしく柔らかい感じで。だから正直、軽くあしらえると思ってたんです。
でも話しているうちに気づいたら、俺のペースじゃなくなっていて。いつ変わったのかわからなくて。
去り際に振り返ったとき、笑っておられるのに、目が全然笑っていなくて。怖いわけじゃないんですが……全部お見通しな感じがして」
ヴィクトルが少し間を置いた。
「良い意味でぞっとしました」
ギルバートは何も言わなかった。
****
「エレノア様」
エレノアは廊下で声をかけられた。ギルバートだった。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
珍しいことだった。これまで、ギルバートが個人的に話を持ちかけてきたことはなかった。いつも用件は短く、必要なことだけを伝えて去っていく人だった。
「もちろん。何かありましたか?」
「いえ、特別なことではございません。ただ……」
ギルバートは一瞬だけ迷うような顔をした。それから、静かに続けた。
「最近の屋敷の変化について、少しお話ししておきたく思いまして」
応接室に通され、向かい合って座る。ギルバートが紅茶を一口飲んで、それから話し始めた。
「朝食の件、ヴィクトルから聞きました」
「……ご気分を害されましたか?手順を踏まずに」
「いいえ」
ギルバートは静かに首を振った。
「正直に申し上げれば、私が何度試しても変わらなかったことが、エレノア様の一言で変わりました。それだけのことです」
灰色の瞳が、わずかに和らいだ。
「アレクシス様が、あれほど自然に何かを召し上がる姿を見たのは、初めてでした」
エレノアは少し驚いた。ギルバートがこんなふうに、感情を込めて何かを言うのを初めて聞いた気がした。
「灯りの件も。夕食の準備のことも」
「差し出がましかったでしょうか」
「いいえ」
きっぱりとした答えだった。
「この家は、長く同じ形を保つことを良しとしてきました。私もその一部です。だから、変化に気づくのに、少し時間がかかりました」
ギルバートはカップを置いた。
「ですが、悪い変化ではないと、今は思っております」
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しばらく、二人とも黙っていた。窓の外では、庭木が静かに揺れている。
「ギルバート」
エレノアが、ふと口を開いた。
「あなたは、この家にどれくらい?」
「アレクシス様がお生まれになる前から、お仕えしております」
「では、アレクシス様のことを、一番よく知っているのは、あなたなのかもしれませんね」
ギルバートは少しの間、何も言わなかった。
「……そうかもしれません」
それだけ言って、窓の外へ視線を移した。
「あの方は、昔から、人に頼ることが苦手な方でした。誰かに弱さを見せることを、ご自身に許していらっしゃらないようで」
「そう見えますね」
エレノアが静かに答えた。ギルバートは、その答えに少しだけ目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。
「エレノア様がいらしてから、あの方は、以前より、ご自分を許せるようになってきている気がします」
「……それは、私の影響でしょうか」
「さあ」
ギルバートは初めて、口元をわずかに緩めた。
「それは、エレノア様にしかわからないことかもしれません」
****
部屋を出る前、エレノアはもう一度庭を眺めた。庭の奥に、一本だけ他の木と種類の違う木が立っている。
「先代の奥様が植えられたものです。春になると花が咲きます」
エレノアの視線に気づいて言ったギルバートの声が、ほんのわずか、柔らかくなった。
「……変わった方でした」
それ以上は語らなかった。エレノアも何も聞かなかった。
この屋敷には、まだ知らないことがたくさんある。
それでも、少しずつ、知っていけている気がした。
「あ、え?…お二人…珍しいですね…」
応接室の前で、鉢合わせたアレクシスが目を白黒させた。
ギルバートとエレノアは目を見合わせ、お互い少し口角を上げた。
エレノアはコホン!とわざと咳をする。はちみつ色の瞳を輝かせ、人差し指を自身の口元へあてた。
「作戦会議を、少しね」
それを見たアレクシスの顔色が、ギュン!と変わった。
「な、何の話をしていたんですか……?」
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次回は7/12(日)予定です。




