第28話 これは、誰にも渡したくない
秋も終わりに近づいた頃、エレノアは屋敷の中を歩くことが増えた。北の公爵邸から帰ってきてから、何かしなければ、という気持ちが、じわじわと大きくなっていたからだ。
数日後、フィオナを呼んだ。
「アレクシス様のことで、少し相談があって」
なんでしょうか、とフィオナは意気込んでいる。
「忙しいアレクシス様が、快適に過ごせるようにしてあげたくて。気づいたことをまとめるから、見てもらえる?」
紙を広げ、ペンを手に取る。
仕事が立て込んでいるときは食事を忘れがちになること。深夜にキッチンへ来ることがあること。疲れが出ると寝れていないこと。すらすらと書けた。最後にもう一つ、と思って、ペン先を紙に下ろす。
”甘いものが好き”
そこで、手が止まった。
馬車の中で、彼が差し出したクッキーにかぶりついたときの顔。サロンで頬を赤くしながら、ケーキの皿を空にしたときの、あの照れた横顔。あの瞬間は、すべて、自分だけが見たものだった気がする。
…不思議だった。
どの一瞬もすごく大切な思い出な気がして。
誰にも知られたくなかった。
彼の「好き」を、紙に書いて誰かに渡すことが、なぜだかとても惜しい気がした。まるで、自分の手の中にあるものを、他人に触れさせたくないような。
なんだか…私たちだけの、秘密な気がする。
「エレノア様?」
フィオナの声に、エレノアは我に返った。
「…あ、ごめんなさい。考え込んでしまったわ」
ペンを置く。結局、書いたのは三項だけだった。
「これ、旦那様のことですか?」
フィオナが紙を覗き込みながら言う。
「ええ。気づいたことを書いただけだけど」
フィオナはじっと紙を見つめてから、不思議そうな顔をした。
「……旦那様が疲れているところなんて、私は見たことがありません。いつも完璧にされていますので」
それだけ言って、メモを大事そうに両手で持つ。
「エレノア様って、よく見てらっしゃるんですね」
「……そう、かしら」
エレノアは曖昧に笑った。
——私がたまたま、見てしまっただけ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥で小さな疑問が燻っていた。
たまたま、で片付けられるほど、自分は彼を見ていただろうか。
朝食を残しがちなこと。深夜にキッチンへ来ること。疲れているときに見せる、ほんの一瞬の表情の変化。どれも、注意して見ていなければ気づかないようなことばかりだった。
——いつから、こんなに見ていたんだろう。
答えは、すぐには出なかった。ただ、紙に書かなかった一行のことだけが、いつまでも頭から離れなかった。
****
その日の午後、エレノアはキッチンへ向かい、料理長のヴィクトルに今後の朝食の変更を打診した。
ヴィクトルは、大柄な体で厨房の中心に立っていた。簡単には人を立ち入らせない、職人らしい空気をまとっている。
形式ばったフォークとナイフを使う朝食ではなく、サンドイッチのような、手を止めずに食べられるもの。夜中でも軽くつまめる、甘いものを。ここぞとばかりに自分の権限を行使する。
「私が食べたいの。アレクシス様の分もお願いできるかしら?あなたの腕なら、簡単な形でも絶対においしいはず」
ヴィクトルは少し渋ったが、最後には引き受けてくれた。
「……でしたら、スープの素も一緒に置いておきましょう。夜中は冷えますから。湯を入れたら、温かいものを食べられます」
思いがけない申し出だった。エレノアが少し驚くと、ヴィクトルは少しだけ得意げな顔をした。
夕方、ギルバートには、夕食の準備のタイミングと、灯りの補充について、簡単な提案を渡した。
ひとつは、帰宅時間が不規則なアレクシスのために、夕食の準備を「帰宅の気配があったら始める」仕組みに変えること。
もうひとつは、執務室と廊下の灯りの補充を仕組み化することだった。夜遅く戻るアレクシスの足元が、少しでも明るくあって欲しいという願いだった。
「……検討いたします」
と、ギルバートは静かに言った。
****
翌朝、早朝。
執務室へ向かうと、テーブルの前でアレクシスは足を止めた。見慣れない籠が置かれている。焼きたてのパン、燻製肉、手に取りやすいよう包まれたサンドイッチ。
——何だ?これは。
手を伸ばせば届く場所に、ただ置かれているそれ。その置き方が妙に気になった。
(エレノアか)
なんとなく、そう思った。
一口食べる。
(……これは、あの旅で彼女が美味しいと笑っていた、アイゼンドルフの肉)
食欲がなくても、時間がなくても、片手間で食べられる。
噛み締めた瞬間、口に広がったのは、どこか懐かしい温かさだった。
気づけば少し笑っていた。
最近、彼女のことばかり考えている。それが当たり前になりつつあることに、アレクシス自身はまだ気づいていなかった。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回の更新は7/10(金)予定です。




