第27話 落ち着かない
実家への旅から帰ってきて、何かがまた変わった。
「旦那様」
ギルバートの声で我に返った。いつの間にか、アレクシスは同じ行を三度読み返していた。
以前なら、必要なことだけを考えていればよかった。余計な感情など邪魔だったのに、最近は違う。
馬車での出来事が、頭から離れない。エレノアを抱きしめて眠った感覚が、ずっと醒めない。
——僕は夢をみていた
エレノアを抱きしめている夢だった。けれど起きたら、本当に抱きしめていて。エレノアも抱きしめられていて。
近い距離で、見つめあったこと…。
その記憶を何度も反芻しているうちに、ふと窓の外に目が留まった。
エレノアが屋敷の警備の男と笑いあっている。その様子をアレクシスは執務室の窓から、腕を組んでじっと見ていた。
警備の男は二階からの刺さるような主の視線に気づいた。見ると氷のような冷徹な顔をした主が、目を細めてこちらを見ている。彼は血相を変えて逃げていった。
エレノアが不思議そうにこちらを見た。首を傾げながら控えめに手を振っている。アレクシスは笑顔で手を振り返しながら考えた。
(彼女がいない時間が、最近やけに長く感じる)
落ち着かない。なんか息が、しづらい。
——変だ。
彼女がいる時は息ができて、いない時は息苦しい。
逆ではないのか?
そう思っても、答えは変わらなかった。
****
今日は早朝から王都で貴族が集まる重大な会議がある。
ギリギリまで執務室で仕事を片付けていると、ギルバートが「馬車の準備ができました」と言いに来た。
朝日が入る階段を、早足でアレクシスは下りていく。すると、後ろからパタパタと軽い足音がする。
「アレクシス様、いってらっしゃい…!」
エレノアが走って見送りに来てくれた。
眠そうだ。
必死に起きたのが伝わってきて、アレクシスは無意識に笑っていた。
玄関まで来たとき、彼女を手を伸ばしかけて。
指先がエレノアの肩に届きそうになって。
そこでようやく、自分が何をしようとしているのか理解した。
アレクシスは固まった。
——僕は…何を…!
差し出しそうになった手の行き場がなくなる。しかしエレノアは「は!」という顔をして、アレクシスの手をガシ!と取る。
腕相撲をとるみたいな格好になった。
「…ん?」
困惑するアレクシスに、エレノアは力強く言った。
「頑張ってください!」
その目は、今から全員倒すぞ、みたいな闘志に燃えていて。
——なんか違うんだが。
アレクシスは吹き出しそうになるのを我慢して、「いってきます」と言って出て行った。
(あ、危なかった…)
馬車の中で、アレクシスは手の熱を思い出していた。
エレノアのひんやりとした手。実家から帰るとき、抱きしめていた満たされた感覚。 人生で初めての感覚だった。石鹸の香り。細くて柔らかい体。またそれが欲しくて、触れようとしていた。
——リィ。
ノアがつけた不思議な名前。新しい名前をもらってから、自分のことを考える時間が増えた。何が好きなのか。何を心地良いと思うのか。
『このお茶、私も好きなんです』
あの紅茶を、僕は好きだっただろうか。
好きだと思う前に、いつも「公爵家に許されるか」を考えてしまう。でも、自分一人で「好きだ」と言い切るのは、いつまでも怖かった。
(ノアなら、どう言うだろう)
ふと浮かんだ考えに、自分で驚く。
本名も顔も知らないのに、不思議と自分を肯定してくれる存在。
ノアなら――
そこで思考が止まる。浮かんだのは、エレノアの顔だった。最近、ノアを思い出そうとすると、いつもエレノアが邪魔をする。
(……邪魔、なのか?)
苛立ちではなかった。むしろ、安心に近い何かだった。
——リィ。夜に差す光、みたいな感じで。
ノアが名付けたのは、ただの愛称じゃない。
剥き出しの「僕」の居場所だった。
それを、エレノアの前でも、少しずつ使えるようになっている。
気づけば、ノアと出会ってから、誰かの前で「正解」を探さずにいられる時間が増えていた。
馬車から下りて、議事堂へと向かう。
王都の庭木が風に揺れている。
祖母が好きだった木とは違う。でも、ふと思い出す。
——「あなたはそのままで美しいのよ」
あの言葉を、最近また思い出すようになった。 理由は、まだわからない。
****
会議が長引いた。
屋敷に戻ったのは、夜も遅い時間だった。
「お疲れ様でした」
玄関に立っていたのはエレノアだった。
もう休んでいるはずの時間なのに。
アレクシスは足を止めた。
「起きていたんですか」
「なんとなく、眠れなくて」
そう言いながら、彼女は少し目を逸らした。
嘘だ。と思った。胸の奥に張りついていた疲労が、ふっと軽くなる。会議の内容も、貴族たちの顔も、どうでもよくなるくらいには。
「おかえりなさい」
エレノアは微笑んだ。
「頑張りましたね」
――その瞬間、アレクシスの脳裏に、あの紫のランタンが揺れる夜会の記憶が、パッと火花のように弾けた。
『……ここまでだ』 そう言って、僕の唇の輪郭を指先でなぞった、ノアの色気のある指先。あの時の、理性をじりじりと削り取られるような理不尽な熱。なぜ、いま、目の前の彼女に「頑張りましたね」と言われただけで、あの夜の、あの毒に溺れるような感覚が蘇るんだ――?
「…はい…少し」
脳内を駆け巡る激しい警告に突き動かされるように、気づけば彼女の手を取っていた。
本日もお読みいただきありがとうございました!
次回は7/6(月)予定です。




