踏歌(とうか)
弘徽殿視点
源氏三十六歳
二万字ほどあります
「お返しになられました琴の琴は当分使う予定がないので、ぜひお傍に置いてくださいとのことです」
黙って顔を見つめる私に、彼女はうやうやしく頭を下げた。
あたりまえだが態度が違う。すでに働き出して長いので、礼儀も様子も申し分ない。仕事も手慣れている。思った以上に有能だ。
何もかもが違うのだ。なのに、その顔は私の記憶を過去に飛ばす。
ーーーー同じ年頃のあやつは、もっと手抜かりが多かった
動きが粗雑なのでけつまずいて文机を派手にひっくり返し、硯が宙を飛んで中の墨が辺りにふりまかれ周りの者に降り注いで恨まれるなんてことも普通にあった。
もちろん私はカンタンに避けることもできたのだが、姫君がそのように素早く動くのもなんだと思って空飛ぶ硯に目を見張っていると、ひっくり返した本人が瞬間移動して私の前に立ちはだかって硯の直撃を受けた。
実に間抜けだった。その上自業自得である。何の罪もないこの私が気の毒と思ってやる必要など全くない。
なのに墨だらけになって血相を変え「おケガはありませんかっ」と叫ぶあやつを見ていると、心優しい私は憐憫の情を抑えきれなかった。そしてすぐに、あまりに滑稽な姿なので吹き出しそうになって叱るタイミングを失った。
後に出てきた彼女の巨大なタンコブのせいで、理性的でクールな私さえ口元を緩めざるを得なかった。
だが過去の女とほぼ同じ顔を持つこの女房にはそのようなそこつさは見あたらない。
「……そうか」
再度運ばせるのもわずらわしい。どうせかってに思いやった娘が今度は現れて「この琴はお母さまに弾かれたがっているのですわ」などと、わかったようなことを言うのだ。
----否定することさえ面倒だ
もう聞かせる相手さえいない女が受け取っても、どうすればいいのだ。
そのまま言葉を発さない私を見て乳母子の娘は、軽く頭を下げるとそれをそのまま部屋の隅に寄せた。
以前この琴を奏して間もなく、彼女は病を再発させ里へ戻って死んだ。琴の琴は中途半端な腕の者が弾くと不幸を呼ぶと言われている。誰もが否定するが、私があやつを死に追いやった気がしてならない。
----こんな迷信に縛られるとは、大后も落ちたものだ
苦い笑いが口元を歪ませる。この様を見せずにすんだことだけは幸いかもしれない。
「冷えてまいりました。もう一枚袿をお重ねください」
乳母子の娘はてきぱきと動き、いったん小袿を脱がすとその下に衣を重ねさせて、また上を戻した。
私はなされるがままだ。もはや気概の欠片もない。ただの美しすぎる老女だ。
着せかけてくれるのがあやつであったら、どうせバカげたことを口にするから、こちらも顔をしかめて文句の一つも言えるものを。この手抜かりのない女ではしょうがない。なぜタカを産んだ、トンビでいいではないかとあやつに文句をつけてやりたい。
だが彼女は、最後の贈り物だ。
不調のため里に戻った彼女の代わりに、わが娘女三の宮のもとに仕えていたこの女が現れた。問いかける間もなく深々と頭を下げ「母に勘当されました」と告げた。
「何事だ」
「この前病に伏した時に申しつかっております。次に倒れたら勘当するので看病不要、女三の宮さまの許可は取ってあるので、代わりに大后さまにお仕えするようにと」
驚いて見返したが彼女は淡々と「先刻まで親だった者の言葉です。従わせてください」と顔色も変えずに続けた。
「バカな。帰って見守ってやりなさい」
「いえ。穢れに触れることとなるでしょう。ここに戻ることができません」
そうすることを彼女は拒んだ。なだめてもすかしても聞かない。気が気ではなかった。
「愚か者ッ、実の母が危篤なのであろうっ、すぐ戻れッ!!」
あやつ以外に私の叫びを無視できる女房はいない。だがその血を直に引く彼女は、同じくらいに頑固だった。
「その母のたっての願いです…………ご容赦ください」
決意に満ちた彼女を見て私は手法を変えた。年を重ねてもこのように柔軟で、驚嘆すべき知性に富んでおるのだ。
「いったん主を定めながら、それを変えようなどとは不敬千万、この私がそんな女を身近に置くなどと思うのか」
「思います」
彼女はまっすぐに見返した。
「なぜだっ」
「母の最後の願いだからです」
ぐっと私は息を呑み、それでもさらに悪あがきした。
「ここでは薄い草紙は作れぬぞっ!!」
「それは元より休みの日か空き時間にしてますから」
小器用に時間を使いおって。だいたい年も近く趣味も合ううちの娘の方が仕えやすいであろうに。
私は唸り、しばらく考えて妥協点を見出した。
「わかった。お前の身を預かろう。ただし、一年だ」
同じ形の知性ある瞳が私を見つめる。
「一年たったらおまえはあやつの娘に戻り、私の娘の元へ勤めなおすようにっ」
その間にあやつが回復したら、ただの笑い話になる。そう考えて許容したが、やはり長くはもたなかった。
あの気の抜けた人柄にも似合わず、あやつは用意周到だった。
正月など祝う気もない柏殿は、あやつの意向で例年のように飾り付けられた。
「従者の欠落ごときを忌みごとにせぬように言われております」
女房たちは結託して私の意思を阻んだ。殿舎はいままで以上に磨きたてられ、ぼんやりと暮らしていた女たちはきびきびと動き、毎日日替わりの楽器がこれ見よがしに私の手元に置かれた。
もちろん私は弾くつもりはない。他の時代は知らぬが平安は身近な者が病んだ時や死んだ時に楽器など奏でるものではないのだ。
女房は別だと言う者はいるだろうが、あやつは私の乳母子なのだぞっ。身分だけはある親戚なんかより、よほど近い存在だ。
「ですがあの者も望んでいました」
長く仕える女房が諭すようにつぶやく。彼女は気が遠くなるほど古いことを持ち出した。
「かつて大后さまはあの更衣のためにさえ音を賜ったことがございました。女御にもその栄誉を与えられた者がおりました」
「あの女は迷惑の極みだったが音に生きていたっ。女御もその覚悟があった」
乳母子は並みの者だから静かに送ってやりたい。他の者もこぞって否定するが聞く耳など持たぬっ。
私は意固地になってそっぽを向き、女房の言葉など意に介さなかった。
「弾いてあげた方がいいと思うけど」
「私もそう思うわお姉さま。というより私が聞きたい」
娘の言葉にも耳を貸さなかったら妹たちが押しかけてきた。四の君と六の君が特にうるさかったが、じろりとにらんで黙らせると、控えめな五の君がおずおずと口をはさんだ。
「私もお聞きしたいのですけれど」
「そなたは夫君に奏してもらえ」
彼女の夫の八の宮はなかなかの名手だ。あの頼りない性格でなかったら、もう少し上のレベルまで行けると思うと残念だ。
しょんぼりとした別腹の妹を見ると気の毒になったが、同情心より物の方がありがたかろう、たくさんの品を持たせて帰した。
「お弾きになることをその女房も望んでいると思いますが」
ついには心友まで文をよこしてきたがいらぬ世話だ。むっとした私は角盥いっぱいの蘇を届けさせて彼女をビビらせた。
誰もかれもがかってなことを言う。だが私は誰の言葉も聞かず、孫にも会わなかった。
みなが心配する中、息子だけはマイペースだった。彼は来たいときにやってきたが、琴を弾けとは言わなかった。
「これをお見せしようと思って」
上品な蒔絵の文箱を抱えた女房が従っている。中身を尋ねると彼は少し頬を緩めた。
「噂に名高い源氏の須磨の絵です」
さすがに少し驚いたが、乳母子のことで私を慰めようと院をわずらわせるのもなんだ。いや、反応を楽しみに来たのかもしれない。顔をしかめると彼はますます面白そうに私を見る。
「まさか借りるために頭を下げたのではないでしょうね」
「ご心配は無用です。東宮の気を惹きたい彼が自分で持ってきたものをちょっと借用しただけです」
どうせ東宮を自在に扱って要求させたのだろう。しかし私のためにあやつの絵を借りさせるとは何事だ。
「いえ、母上のためではありませんよ」
「ではなぜ」
「私も見たかったですし、それと一番の目的は三の宮です」
最愛の娘に見せたかったらしい。しかし普通の者は皆見たがるだろうが、あの人形のような姫宮が興味を示すだろうか。嫌いではないだろうが、その辺の者の描いたものとの違いがわかるのだろうか。どうも感受性に乏しいように見えるが。
首をかしげていると、女房が箱を置きその場を去った。息子が手ずから出した絵に、さすがの私も息をのんだ。
恐ろしいほどの高い波の上に漁夫の舟。空には浜千鳥が飛び交っている。
構図といい描写といい確かに非凡な腕だ。だがその絵の核はそれではなく、勢いのある線でも墨つきでもない。
ーーーーこれは
漁夫も千鳥も複数いるのに心の臓が張り裂けそうな寂しさを感じる。容赦なく圧倒的な孤独。
仲間はいるのだ。互いに相手を思いやり傍にいる。にも関わらずそれすら慰めにならぬのだ。荒れ狂い全てを呑み込もうとする海の中でなすすべもない自分。
いやそれだけではない。千鳥も漁夫もどん欲に呑み込もうとする波もおのれ自身ではないのか。
全てを喰らい尽くしてもいまだ飢えきっている海自体が自分ではないのだろうか。
「いかがですか」
息子が尋ねるが声も出ない。だが彼の目を見てふと思った。
――――同じ感覚を抱いたのではなかろうか
けれど彼は語ろうとはせず、ただ限りなく優しい瞳を絵に向けた。
「三宮の反応は?」
「特に。何も言いませんでした」
絵合の場でみなを泣かせたこの絵の価値を、少しでも理解したのだろうか。
「東宮は?」
「波が大きくて恐いですね。私は漁人にはなれそうもないです。そう言っていました」
フツーだ。そして健全だ。ありきたりの感想で実によろしい。この孤独をわからぬことは真の幸いだ。
「ならいい。だがこの絵は本来子どもに見せるべきではない」
「なぜですか」
「この絵は……魂を喰い尽くす」
いやわからぬ者はそんなことにはならない。だがそれが多少ともわかる者には毒だ。精神の固まった大人はともかく、まだ定まらぬやわやわとした幼い心の持ち主が下手に共感したら洗脳されかねない。
息子は口元を優雅に緩め「まるであなたの音楽みたいですね」などと甘い声を出した。
「は? 絢爛豪華でも究極の華麗さでも愛らしさの骨頂でもあろうが、魂を喰われるものはいなかろう」
それほどの耳と感銘力を持った者は今はいない。大昔の更衣や、すでに死んだ名人の音なしの滝あたりにはその可能性があったかもしれぬが、あやつらは同時に自分自身の刃を持っていた。くわれるだけのか弱い存在ではない。
「おりますよ。例えば私ですね。あなたの糧となることを幸いとしておりますが」
鼻で笑った。ものやわらかな彼も鋭い刃を内に秘める。
「ならマッチポンプだな。くわれたあなたがこの絵を描かせた。そう思っておきなさい」
「これは一本取られましたね」
にこにこと彼は微笑み「もう少し早く手に入ったなら、彼女にも見せてやりたかったですね」と乳母子の里の方向を見た。
「……どうせけちょんけちょんにけなしておったわ」
「でしょうね。あなたに害をなすとみなした者には大層辛らつでしたから。私のこともお話しになったらよかったのに。きっと怒ってくれたでしょう」
「院を否定するわけがなかろう」
彼は首を横に振った。
「いいえ、家も帝もありませんよ。彼女はシステムに仕えたのではなく、あなたに仕えたのですから」
あふれだしそうなものを抑えた。息子はそんな私の顔をのぞきこんだ。
「人払いはしてあります。たまには感情をお出しになった方がいい」
息を吸い込みぐっとこぶしを握ってそれを断る。
「不要です」
「人がなぜ、やたらに琴を勧めるかおわかりですか。あなたはなかなかアウトプットできない。ですからせめて楽を奏すべきだと思うのです。あなたにとって音が言葉であり感情であり生き方なのですから」
「大きなお世話ですっ。あなたもそう思うのですかっ」
「いえ、私はあなたの涙を見たいだけです」
「そんなわけにはいかぬっ」
「なぜですか。それほど私は頼りないのでしょうか」
「違うっ」
もう意地を張ることさえどうでもいい。だが許せぬ壁が存在する。
息子はしばらく私を眺め、さらりとそれを言い当てた。
「…………桐壺院に対する配慮ですね」
昔から根幹を見抜くことが上手い子だったが、今も変わらぬ。私は黙ってうなずいた。
「四十九日を過ぎてからだと聞いています」
院の死後、茫然自失ながらも雑事をこなし続けた。涙をこぼしたのは仙洞御所(上皇御所)を出てからだ。
「それ以前に泣くわけにもいかぬ」
「身近に使える親しい者と、心をささげる相手は違いますよ。もっと気軽にお泣きになればいい」
今更かどかどしい性格を変えようとは思わない。首を横に振り息子の言葉を拒む。
「…………意地っ張り」
息子の腕が私の体を抱きしめる。それは優しく温かい。だけどあの方とは違う温度。けれどそれは、あの方と私が与えたものなのだ。
そのことに満足している。罪と悲しみだけでつながっているのではない。今はそう思える。
息子はまだ離さずに顔を傾けて耳元に囁いた。
「乳母子の最後の言葉は私が預かっています」
「そうか。何と言っていた」
「……露払いをしておきます。そこつ者なので時間がかかると思いますから、何十年も後においでくださいと」
おまえはそのつもりなのだろう。だが此岸より彼岸に知人が多くなった。そう待たせることもないだろう。
私は薄く笑み身を離した。息子がわずかに手を伸ばし引き留めようとしたが避けた。
もどかしそうに彼は私を見つめる。その顔はずっと若いのに、仙洞御所に移った後のあの方に酷似して見えた。
――――愛しいと思っておられたと上書きしてしまいそうだな
時の流れが都合のいい薄絹をかぶせてくれる。理性的な私はだまされないが、それでも夢ぐらいは見てもいい。忘却の霞で嘘も真実も全てをかすませるのは老人の特権だ。そうは見えないほど若々しくとも私にはその資格がある。
だがもうそれも、冥途の土産だ。
「……あちらでも寂しくはなさそうだな」
「逝かせませんよ」
「そうにらむな。急ぐつもりはない」
私は息子の頬を一撫でした。彼は驚きで目を丸くした。
彼は帝となる尊い存在であったし、私は誇り高く育てられている。このような市井の親子のようなふれあいはなかった。その頬が丸かった時代でさえ、ぬぐう必要のある時は乳母か女房を呼んだ。
「だがいつかは先に逝く。身をいたわることを心得よ。私が存命のうちにあなたの命が危うい時は、この言葉を強引に守るからな」
「…………ひどい脅しですね」
「世の中には順序があるのだ。わが価値を知っているならその万分の一でも自分の子に返してやれ」
「どうでしょうか。なにせ私ですよ」
私は答えずくすりと笑った。息子がどう生きるかは彼にまかせる。彼は彼であり私ではない。
「絵は堪能した。礼を言おう。実に素晴らしかった」
「それはよかったです」
「見ているうちに急に琴が弾きたくなってきた。お帰り願おう」
「……お傍で聞いていてよろしいでしょうか」
「いや。一人で弾きたい。席を外してくれ」
「わかりました」
どうせ目につかない程度の位置で聞くのだろうが、それはかまわない。私は一人になりたかった。
指を止めると、声なく大泣きしていた鬼神の姿が薄らいでいった。私はちっ、と舌を鳴らした。
わが心を覆う憂いの影は晴れず、音にはどうしても悲哀の色がにじむ。
特に亡くなった人、院や乳母子や父母、元麗景殿の女御などの同期の者、音なしの滝や右大弁他のことなどを想うと、音にあてられたものがあちこちで身を折って涙ぐむため、その間音の届く範囲は仕事にならぬ。
かといっていったん堰を切ったわが心は楽器を手放すこともできなかった。
辺りに迷惑なので実際に触れるのは一日一回と決め、後はエア琵琶とかエア琴などで練習している。指先の鍛錬も怠らない。
そのためスキルは上がった。当然だ。この私が努力して停滞するわけがないではないか。いついかなる時も前進しておる。もちろん池を眺め続けたときも、枯淡の境地を模索していただけだ。
だが鬱屈した気分はどの楽器を奏でても翳りをはらみ、弾くたびに鬼神が現れて泣きわめく。しかも技術の向上と同時に数が増えてきて、本日は五体もの鬼神が泣いておった。
いい加減うっとうしい。だいたい生身の男など亡き院ぐらいしか知らぬこの私の前に腰布一枚で現れるとは破廉恥ではないか。
そのうえ自分の限界を告げられたような気分になる。ここまでなのか。鬼神以上の者を呼ぶことはできないのか。天地を揺るがすほどの音は出せないのか。
いや。私はあきらめない。この命が燃え尽きるまであがいてやる。
もっと音を磨け。悲しみや苦しみは昇華させろ。もっと自分を研ぎ澄ませ。喜びは増幅させろ。景色は現実よりも壮大に描け。季節は過去を超えろ。
或いはあの源氏の絵に触発されていたのかもしれない。私は貪欲に音に向かい、弾いていない時さえ心で奏でた。
「ぜいたくすぎるのよお母さまは」
娘の女一の宮は肩をすくめる。
「世の人は生涯に一度でも見ることができたら、それだけで人生の甲斐があったと感激するようなことが日常なのですもの」
もっともな意見だが聞いてもいられぬ。私は毎日あがきながら邁進し、それでも至純の境地まではたどり着けずに絶望のうめきをあげた。
そうこうするうちに正月も終わり十日も過ぎた。さすがに指先を休め甘ずらを溶いた湯を口にしていると、使いだてる女房が入ってきた。
「院の女三の宮さまの使いの者が参りました」
「ほう、珍しい。用件はなんだ」
「十四日に行われる男踏歌を、こちらの方で見せていただきたいとのことです」
毎年はない男踏歌の行事が今年は開催される。そこそこ育ちのよい若い男たちが歌って踊るわけだから、女たちはみな楽しみにしている。浮世離れしたうちの女房達さえ、その日の衣装をあれかこれかと今から選び抜いている。
「正殿の方で見ればよかろう」
「当日は大変混みあうことが予想されますので、幼い宮さまは気が引けるのでしょう」
確かにその夜、あちらは人が多い。うちの娘二人もそこで眺める予定だし、内裏か自宅で見る四の君は別だが他の妹たちも集まる。息子の妃たちも楽しみにしている。女房達も浮ついているから、院の愛娘をかまうどころではないだろう。
「こちらに回ってくるとは限らぬぞ」
どんなに能力が高く美しくとも、もはや私は世に忘れられた身だ。政治的には何の力もない。
「いえ大丈夫です。内裏からの使いの者に院が『母も楽しみにしていることでしょう』とおっしゃいましたから確実です」
何かと息子は細かい。人の心を平気で傷つけるくせに同時に細やかに気をつかう。
「ならかまわぬ。ああ、けだものは好まぬゆえ猫は連れてくるな。早くに来て眠っておくがよい」
十歳の子供を夜通し起きさせておくわけにもいかぬ。女房達は準備にいそしむであろうが、こちら近くで寝かせておこう。
「承知いたしました。そう伝えておきます」
女房はすぐに使いの元に向かった。私は、あの無感動な孫娘にも人並みの心があったのだなとほっとした。
「本日は格別のお許しをいただきまして、誠にありがとうございます」
場に合わせた装束の女三の宮の乳母が頭を下げた。
まだ日が傾きだした頃合いで一月の空は晴れ渡っている。日差しは真冬よりかは力強い。開き始めた梅の香も漂う。
乳母に遅れて女三の宮も礼を示す。小柄なせいか年よりもずっと幼く見えるが、確かに美しかった。
容姿はどちらかといえば亡き母の源氏の宮に似ている。可憐で愛らしく品がいい。わが孫の中で一番と言ってもかまわないだろう。
けれども何の面白みもない。無口でおとなしく行儀もいい。いわれたことに逆らうこともなくわがままを言うでもない。
同じ孫でも意志が強く知性にあふれた女一の宮にも、地味だが芯の強そうな女二宮にも、健全の見本のような東宮にも似ていない。
この子においては他者の噂話の方がよほど面白い。格別な扱いを受ける院の鍾愛の娘。女一の宮もメロメロになって甘やかしている。張り合うように東宮も可愛がっている。
だけどこうして目の当たりにすると、見ていることさえ忘れそうだ。
まったく感情の見えない黒い瞳。笑うことさえ少ない口元。まるで大きな人形のようだ。
説教さえする気にならぬ。きっと大人しく聞くだろうし素直に従うだろう。反発一つしないに違いない。実につまらぬ。
だが嫌いなわけではない。わが子のお気に入りの娘だ。少々反応が薄いからと言って粗末にしようとは思っていない。
私は黙ってうなずき正面から、あらかじめ用意しておいた横の茵(平安座布団)に移させた。
真ん前に長く置くと身内はともかく、その従者がたいていわが威に打たれて倒れる。人は感激しすぎると失神するものらしい。もはや慣れたがわずらわしいので防御策を取っておく。
三の宮が連れてきたのは、年かさの中納言の乳母と女房が一人、それと彼女より少し年上の女童だ。これも大人しく、少しおどおどしていてしゃべろうとはしない。
私の女房達は「なんとお可愛らしい」と感嘆ししきりとかまっていたが、反応がないのでそのうち乳母や女房と語りだした。
それでも食事の世話などはかいがいしくしていたが、夜のとばりが下りてくると「男踏歌がこちらに回ってくるのは明け方近くになりますから」と言って早々に寝かしつけた。
三の宮は素直に私の隣で眠った。並の者ならわが傍らでは気品とオーラに圧倒されて眠れないであろうが平気ですやすや寝た。豪胆だからとは思えぬのでやはり鈍いのではなかろうか。
「大后さまもお体に障ります。訪れがあるまでしばしお休みください」
女房達はそう勧めたがその気にはなれず、眠る孫娘の傍らで脇息に肘をついていた。
寒い夜だった。一つを残して格子を下ろさせていたが、その開いた箇所から御簾越しに、闇の中に雪が舞うのが見える。庭のかがり火だけはごうごうと焚かれているので、こちらの様子は外には見えない。
――――心も体も凍り付きそうだ
火桶も寄せてあるのに震えそうに寒かった。心配になって三の宮を見たが、真綿をふんだんに詰めた大袿は、ダウンパワー440以上の羽毛布団より暖かそうだった。
女房たちにもしばしの休息を与えたので大抵の者は眠っているし、起きているものも黙って控えている。三の宮の足元に横になった女童が不安そうに身をよじっているが、連れてきた他の女たちはすでに眠っている。
月は曇りなく澄んでいる。雪より白く冷たいその輝きは、私の視線をとらえて離さない。
――――ムダではなかったのか、全てが
月の光が私にものを思わせる。心にある翳りがくっきりと浮き立つ。
ーーーーなりふりかまわず与えた帝位は本当に息子のためになったのか。源氏のせいではなくそのためにああなったのではなかろうか
ぽたり、と墨のしずくのようなものが私の心に落ちると、純白で清らかなそれは鈍色に染まっていく。
――――女院にも中宮にもなれなかった。唯一愛した方も私を愛さなかった。心も事実もどちらも負けたのだ
ネガティブな悩みは私にさえ巣くう。空にもいつしか雲が出て、月の影を隠す。
――――息子も手を離れた今、私には何もない
もはや彼は一人で歩いて行ける。子どもの行く末も自分で決めるだろう。手伝えることなど一つもない。
――――そもそも私に存在の意味などあったのだろうか
私が存在しなければ息子は世になく、あの方は他になんと言われようがあの更衣の息子を帝位につけただろう。
だとしたら源氏は源氏ではなく、物語は始まらない。
――――いやあやつなどが帝につけば、絶対に世が乱れる
それどころかそれ以前のあの方の時代に、臣下の不満で破綻する可能性がある。
――――つまり私がこの世の屋台骨を支えていたということだっ
その点においては納得がいったが、虚無のほら穴は相変わらず私を呑み込もうとする。
――――それでは役割以外の私の意義は? 帝の愛だけを目標に生きてきて、愛情を得られなかった女に存在意義などあるのだろうか
必死に無から逃れようと、あがいたあげくにすがったものは私自身の美貌でも論理性でもなく、目下精進中の音楽だった。けれど卓越した私の知性は、それにすら疑問を投げかける。
――――果たして音楽に意味などあるのだろうか
ただの楽しみではないのか。どんなに力を尽くしても空に消えていく虚しい遊びごとに過ぎなくはないか。人に規律を与え生き方に指向性を与える政と全く真逆の、ただの飾りではないのか。
理に対する情がいく分私に不足していたとして、それを補完するために私自身には必要であっても、他者にとっては不要な玩具ではないのか。
苦い思いをかみしめていると、またいつしか雲は流れ去り、冴えた月の白い影がひざ元に届いた。その清明な光をただ見ていると、笛の音が微かに流れてきた。
「あちらにたどりついたようですね」
女房たちがきびきびと動き出した。格子が全て開かれ、三の宮も起き上がった。
訪れる若者たちには朱雀院正殿の方で食事は充分にふるまわれるので、こちらでは出す必要がない。だが体を温めるために多少の酒と肴を出し、ごほうびの真綿を与えることになっている。
もちろんどのように対応するかは過去の経験を踏まえてあらかじめミーティングを行い、役目は決めてある。
「承香殿の女御の兄(髭黒)には酒肴だけはしっかりと出しておけ。だが接待のための人員は割かなくともよい」
彼が非公式についてくる話はあらかじめ聞いていた。若い者は急に決まった話だと思っているが、前回の踏歌の報告を受けて決定していたのでそう命じてある。
もともと髭黒は女たちには人気がないし、彼の北の方の扱い方ついて不満を持つ者も多かったので、みなこの取り決めには素直に従うはずだ。
やがて男踏歌の一行が現れた。かがり火の火影が揺れ、庭先にたたずむ年若な男たちの影が、簀子(広めの縁側)から廂(外側に位置する部屋)、更に奥へと滑りこむ。
この場は普段は大きなイベントとは無縁になっていたので、女たちは意気込んでいる。
まずは彼らが私にあいさつし髭黒も続いた。うなずくだけでかまわなかったので、すぐに若者たちは定められた場についた。
髭黒だけは簀子の端に置かれた円座の元に案内される。内側の廂とそこは御簾で隔てられている。
すぐに酒肴が運ばれ、一杯だけは女房が酌をしたが彼女は何やら忙しそうに中に入っていった。その後は放置された。
御簾の間際に女房たちが鈴なりになっている。それを見て私の女房の一人が注意した。
「姫宮さまのために真中を空けてください」
「…………いいえ」
愛らしい声がおっとりと響く。珍しく三の宮自身が主張した。
「端の方でいいの。そのほうが落ちつくわ」
「あら、遠慮なさらないでください。大后さまに許しはいただいております」
三の宮が首を横に振った。
「本当にその方がいいの。だけどもっと前に行っていい?」
あどけない声が尋ねる。女房がどうするべきかと私の方を見て判断をゆだねる。
普通なら十歳にもなれば大人のとば口に立つ。高貴な姫宮としてはあまり端近に寄ることは感心できない。
だが三の宮は年よりひどく幼く見える。そしてこの男踏歌はめったにない見物だ。
――――かといって万が一にでも踏歌の若い男たちの目に触れることはまずい
この孫はまだ子どもにすぎぬが、顔立ちは整って美しい。ちらとでも見えてしまったら、今はともかく先行きどれほど美しくなろうかと、男たちの心に火を点けかねない。
「よかろう。右の端に行きなさい」
賢明な私は彼女を髭黒の後ろに行かせ几帳も運ばせた。
こやつの人間性はともかくロリという噂は聞かぬ。同じ年頃の娘も持っている。それにわが息子の話だと、こやつは三の宮と言葉を交わすことがある。マズイことにはならぬだろう。あまりわがままを言わぬ彼女の希望はかなえてやりたい。
三の宮は礼を言ってその場にいざり寄り、几帳の陰に大人しく座った。女童もぴったりとついて行く。
他の女たちはいったんは寄り添ったが、笛の音が鳴り響くと少しずつ中央に移動していった。
若々しい歌声が辺りに満ちると、女たちはアイドルに群がるように御簾近くに寄って全身の感覚を彼らに向けている。まあ確かに、前回の男踏歌の時よりも声がいい。
――――源氏の息子とうちの甥っ子が参加しているからな
みなしんなりとした麴塵(カーキっぽい色。禁色)の袍(男性上衣)に白い下襲を着けている。これは帝の日常着を模したものを特別のお許しにより着用している。大変に格が高いが、温かみのない色合いなので寒々しい。石帯さえ白だ。
それでも、育ちのいい若人たちが地味な色の衣装で舞うと、本人の資質が隠されずに表れてなかなか魅力がある。寒さと緊張で上気した頬は生き生きと赤い。
舞に添えられる楽はそこそこの技術はあるがそれほどは大したものではない。奏する者も今宵は何度も同じ曲を繰り返しているので、危なげないが鮮度に欠ける。
けれど女たちは熱狂的な視線を踏歌の一行に注いでいた。
私の口元に苦笑とも言えぬ歪みが出ている。理由はわかる。敗北感だ。
――――結局は何もかも負けるのだな、あの男に
さんざん研鑽を積み重ねても、若い男の声と姿ほどは人の心を動かさないのだ。視覚と情報で補っているとはいえ、あの男の息子に私は完敗したのだ
――――やはり個としての私の存在の意味などないのだな
極めて意識高く打ちのめされていると「そいつはどうかな」と誰かが言った。
「おまえが今、張り合って何か楽器を奏したら、人はみなお前の音の方に耳を傾けると思うよ」
私はふんと鼻を鳴らした。
「それは理を知らぬ愚か者の行動を嘲笑するためだろう」
「わかってないな―本人が」
非常にくだけた言葉遣いだが女の声だ。国母であるこの私に対等な口をきく女などこの世にはいない。だからこの声は現実のものではないのだろう。きっとセンシティヴなわが心の生み出した幻影であろう。
「いや違う。おまえに産み出されてたまるか。こっちを見ろ、何か思い出すだろ」
女房たちはみないるし男踏歌の者たちも欠けてはいない。だがそれぞれが先ほどの姿勢のまま人形のように動かず、音も消えている。
時のはざまに一瞬だけ留められたかのような光景が目前に広がっていた。
驚きで目を見張り、ゆっくりと振り返った。
髪の長い女がいた。扇も使わずに顔をさらしている。
「よう、弘徽殿。久しぶりだな」
えらく懐かしいことを言われる。誰だこの、情報の古すぎる女は。
「私は今柏殿に住み大后と……」
「知ってる。だが私にとっちゃあんたは弘徽殿の女御なんだ」
とっさに思い出せないが誰かに似ている。そして不愉快だが割に美しい。
女はにやにやと笑い「記憶にねえか?」と尋ねた。
過去の裳裾が翻る。時の御簾越しに遠く揺れるうずくような記憶。過去の傷。いまだ生々しい疼痛。
確かに、私はこの女を知っている。驚きながらその女を言い当てた。
「おまえは…………そうじ係りの女!」
藤壺女御が中宮に決まりあの方にそう告げられた時、私の心は血を流した。それを清めに天界かどこかから派遣されたのがこの女だ。
女はなぜだか盛大にずっこけた。
「……まあ、そうだけどよ」
わが殿舎の床に手をついて立ち上がる。この騒ぎでも周りの者は止まったままだ。
「いや、それ以前に会ってんだけど覚えてねえか?」
この顔を直接見た記憶はないが、似ている者は知っている。まず、過去の右大弁。そして…………
「おのれ、血迷うたか桐壺の更衣ッ。わが力が衰える老後を待って祟るとはなんと卑怯千万なっ。だが侮ったな、たとえこの身が朽ち果てようともわが末裔のために全力で立ち向かい必ず調伏してくれるから覚悟せよっ。怨敵退散ッ!!」
「…………元気そうで何より」
更衣は胸元につかみかかる私を軽くいなし「まあまあ」となだめた。
「いや別に恨んじゃねえし、祟るつもりはないから」
「欺くつもりか」
「そんな気はねえよ……変わんねえな」
意外なことに更衣の笑顔には邪気がなく、果実を割ったようにさわやかな香気を感じさせた。
「では何のために現れた。この不甲斐ない様を嘲笑うためかっ。自分の裔の繁栄を誇るためかっ。あの方のお気持ちを捉えて離さない自分を自慢に来たのかッ」
そう叫ぶと彼女はきっ、とこちらをにらんだ。
「るせえなっ。それならこっちだって言いたいことがあらあっ。おまえがあいつといられた時間はこっちよりずっと長いんだぜっ。しかも生きてるからってポイント稼ぎやがって。私が生きてたら絶対に他のやつのことなど思わせなかったからなっ」
思わぬ反論にどなり返そうと思ったが、急にやめた。
「……ポイント、稼いでいたのか私は」
「そうだよっ。それがどんだけ辛いかわかるかっ。こっちは断ち切られた時間のまま瞬時も揺らいじゃいねえってのに、時がどんどん隔てて行ってあいつの心も動いて行ったんだ。死んでるけど死にそうになったわ!」
「藤壺中宮と取り違えてはいないか?」
「んなわきゃねえよっ。彼女のことは大事に思ってはいたが、最終的には娘のように愛してたよっ」
すとんと腑に落ちた。考えてみればあたりまえの話だ。一時は悪食に走ったとしても、この私を愛さないわけがないではないか。
「急に得意そうになるなよっ。あいつが一番愛したのはこの私だぞっ」
「……過去はそうかもしれぬな」
「腹立つから余裕見せるな」
「で、いつお会いできるのだ」
「当分無理。あいつは罪を清めに行ってる」
相当に長い時間が必要らしい。私はすっかり気落ちしたが、それでも寛大な心で用件を聞いてやった。
「その件を報告に来たのか。そうではあるまい」
「ああ確かに。ええと、まだ音楽は好きか?」
先ほどの笛の音が心の中によみがえる。最上とは言えぬほどほどの響き。私に苦い想いをさせた音。それでも…………私は音が好きだ。
「……嫌いとは言えぬな」
「おまえのことだからそうだろうな。さっきはだいぶ滅入ったようだが」
女たちの心をああも弾ませることはできぬ。それは男たちの役割だ。
そう言うと更衣はあきれたように私を見た。
「まったく。謙虚なようでいてずうずうしいな」
「なんだと」
そういえばこの女はなぜこんなに俗な口調なのだ。死後は言葉が乱れるのか。
「男女の性差は天界の決めた最も大きな基本の一つだ。例外ももちろん認めるが、大半の人間は異性に惹かれるようになっている。じゃないと種が滅びるからな。その枠組みにのっとってはしゃぐのはアタリマエだ」
だが、ここのところ私は女たちを泣かせてばかりいた。
「聞いたさ。身が震えるようだった。あの音を出せるやつが音楽に疑問を持つのかい」
「どんなに素晴らしいことであろうとも、疑問をもって一から考えてみるのは大事であろう」
「で、どうなんだ。意味は見つけたか」
「人によって違うとしか言えぬな。同じ音を聞いても別のことを思い出したり違うものが見えたりする。だがそれがいい。絵も素晴らしい芸術だと思うが、私には見えているものが全てだ。けれど音は、別の世界に連れて行く」
他者の音も好きだ。多少粗のある音もそれはそれで楽しい。だけど自分の音はやはり磨きぬきたい。
更衣はニヤニヤと、帝の妃であった者とも思えぬ笑いを浮かべた。
「わかってるじゃないか。いやまあ正解なんてないけど。他に不満はあるか?」
「多いにある」
私においてはともかく、あの方は息子をいつも”公”の存在として扱った。”私”としての愛情はこの女の息子にあった。
「おまえの息子が生まれた時点でうちの子は敗者の刻印が押されたのだ」
「おい、逆だろ。おまえの息子は皇統に血を残すが、うちの子にそれはできない」
「それが勝利だとは限らぬ。その上、残すかもしれぬ」
更衣はなぜか息をのんで固まった。
甘やかされて伸び伸びと育った源氏と、帝になるために制限の多い生き方をし、なおかつ性格までまっすぐには伸びられなかったわが息子。
「今の帝は後見であるおまえの息子の思うがままだ。若くして太政大臣にまでたどりついたが、望むなら帝位さえ与えそうなほどだ」
彼女はすごい勢いで首を横に振った。
「ないない。絶対にない。未来は若い者のがんばりでけっこう変わるんだが、うちの息子がこの後の皇統に血を残せないことは天界の決定事項だ。絶対に変わらねえよ」
そう断言されても心は晴れない。苦い思いをかみしめていると、更衣は少し怒ったように詰め寄った。
「だいたい敗者とか勝者とかいつの時点で決まるんだ。私にはおまえは覇王にしか見えなかったぞ」
「あの人の心を私から奪った」
「その後ずっと傍にいれたくせに」
「だが息子には愛情の欠片さえもらえなかった。ずっと特別だったおまえの息子とは違う」
帝は頂点ではあるが旗印で、権力はそれを保持する者にあるのだ。だから現帝をあやつる源氏が勝利者であることは変わらない。
「ええい。じゃ、その後の予告を見せてやるから干渉するなよ」
更衣が妙なことを言うので首をかしげると、ふいに時が動き出した。
足を踏み鳴らす音が重低音で響く。のびやかな歌声が心地よい。
そちらに気を取られていると、姿を消した桐壺の更衣が私だけに聞こえるように囁いた。
「そっちじゃねえ。孫の方を見ろよ」
三の宮は几帳の裾に乗るほど廂の端に寄っている。その視線は男踏歌にはない。
「音、調整するから待ってろ」
一瞬の違和感の後、踏歌の音はわずかに響くだけとなり、女三の宮の可憐な声がはっきりと聞こえた。
「髭黒のおじさま」
「おや、三の宮のお姫さん、こちらで見物だったのか」
割にフランクな話し方だが、身分が上でも子どもに対してはよくある。さすがに親の前ではせぬが、親しみやすく声をかけその子が一定以上の年齢になったら敬意を持った言葉遣いに変える。大人扱いをすることで成長の自覚が持てるのだ。
無口だと思っていた彼女は思ったよりも声を出した。
「このあと六条の院に行かれるの?」
「そのつもりだよ。大人はいろいろ忙しい」
「うらやましいわ。私も噂の女君にお会いしてみたい」
「紫の上のことかな」
「違うわ、もっと若い方。新しくいらした姫君のこと」
「どんな人かな」
「すごく綺麗な方ですって」
少女は熱に浮かされたように見知らぬ年上の女へのあこがれを語る。たわいもないものだ。だがわずかに舌足らずなあどけない声が描くその女はひどく魅力的で、この私でさえ興味を覚えたほどだ。
「美しいだけではなく優しくて知性的なんですって。知性的ってなあに?」
「賢いってことだよ」
「そうなの? 和歌とか上手なのかしら」
髭黒の言葉が少し減ってきた。興味が失せたのではない。逆だ。何かギラギラしたものを感じる。
まずい、と思った。この男は北の方と不仲だ。年上の彼女のことを嘲笑している。そこに、若く魅力のある姫のことをそう熱心に語ったら…………
「どういった顔立ちか聞いたことはあるかね」
「あるわ。晴れやかな美貌で、形のいい目元が特にいいって」
「ほう、それは。お会いしてみたいものだな」
「そうでしょう。みんなそう言っているわ」
「みんなとは女房たちかね」
「女の人もだけど、男の方もそうなのですって。今日来ている人たちだって」
髭黒の目がすうっと細められた。声はなくとも欲望に火が点いたことがわかった。
慌てた私に、後ろ姿しか見えないはずの三の宮の顔が別の視点からはっきりと見えた。
その小さな愛らしい口の端が、にぃ、と持ち上がる。
三の宮は皇女らしからぬ笑みを一瞬だけ浮かべると、すぐに無邪気な顔に戻った。
ーーーーなんなのだ、あれは
彼女も乳母も女房も、私の女房たちと同じで男踏歌に夢中になっていて、誰一人髭黒と話していることにさえ気づいていない。
――――もしかして、北の方と不仲なことを知ってその上でわざと煽っているのか
おとなを翻弄する恐るべき子どもってやつだろうか。身近な大人を陥れて遊んでいるのか。
いや。あの子は私の血を引く孫だ。そんな非論理的な行動をとるわけがない。
私の脳裏に亡き乳母子の言葉がよみがえる。
あの、玉鬘なる姫が源氏と血のつながりがなかったとしたら。乳母子の言うように彼本人が懸想していたとしたら――――女三の宮の狙いは、髭黒ではなく源氏だ。
「おまえとはだいぶ戦闘様式が違うな」
「止めなくていいのか」
更衣はまた時を止め、薄い笑いを浮かべた。
「干渉しちゃいけないんだ」
「私にはいいのか」
「正式なオファーだから許可が出ている」
なんのことだ。尋ねる目を向けると彼女が説明を始めた。
「こっちの話なんだが最近お役目の一つが終わってね、少しだけ暇ができたんだ。そこへ右大弁だの音なしの滝だのかつての達人たちがこちらへ来たから、バンド組もうって話になって」
だが全員口をそろえて言う。あの方が来なければチームにならないと。
「もう一人、源典侍もまだ来てないんだけどさ、彼女は飽きるまでこっちにいてもらうことに話が決まってる。で、おまえなんだがちょっくら手を貸してくれねえか」
なんと源典侍はまだ存命なのか。お達者なことだ。そして私は…………
「いくつか聞きたいことがある。まず楽器は現世と同じなのか」
「当分同じものを使う。いや、エレキとかあるけどそれはおいおい覚えればいい」
違う種類の物もあるのか。興味を惹かれる。
「今後あの方にお会いできるのか」
「ずいぶん先だが罪を清めたら私は会いに行ってくどく。別におまえも止められちゃないから会えるけど、たぶん私に夢中になるな」
「最期に思っていたのは絶対私だ。だから私の方が有利だ」
しばらく言い争ったが決着はつかないので、これは先送りした。
「あと一つ。私の乳母子はどこにいる?」
「あー、それなんだがよ」
困ったような顔で頬に手を当て、ぽりぽりと掻いた。悪い予感で鼓動が早くなる。
「彼女のことはすげーもめた。別に今更いいって言ったんだけど、私に対する過去の行為がネックになっちまって地獄行きにするべきだと主張するやつも多かった。主に対する忠誠心が原因なのだから配慮してやれってやつもいて、結局当事者の私が彼女の人柄を試すことになった」
あののんきな女に地獄暮らしなど耐えられるわけがない。
「で、実際地獄に行ったんだ」
全身に鳥肌が立った。にらみつけると彼女は手を平たくして上下に振った。
「私が血の池に入って、あの女にその縁を歩かせて反応を見た。あいつさ、私に気がついて大爆笑しやがった」
頭を抱えた。かばおうにもかばいきれぬわ。だが更衣は表情も変えずに話を続けた。
「あちゃー、これはどうしようもないかと思って、とりあえず苦しんでいるふりをしてたら『いい様だな、桐壺の更衣。わが主人への不敬の罪、思い知ったか』と高笑いされた。いよいよだめだと思ってうなっていたら、あいつふいに笑うのをやめてさ『だがおまえは、たとえひと時でもわが主と音を合わせ、ほんの一瞬でも協力しあった女。極めて心外だがほっておくのも従者の名折れ。助けに行くから待っておけっ!』と叫ぶやいなやためらいもせずに血の海にざぶん。クレージーな女だぜ」
私は青ざめたまま言葉も出ない。だが黙ったままだと乳母子が血の海に沈んだままのような気がして震える声で尋ねた。
「で、どうだったのだ」
「どうもこうもない。仕方ないだろ。合格だよ」
全身の力が抜けた。少し呼吸が苦しい。まったくあやつは心配かけおって。
「それで今、どこにおるのだ」
「来るべき日に備えて私が預かっている。ちょっとだけ映像を見せてやる」
更衣が両手を丸いものを抱えるような形にすると、そこに小さな月のような発光体が生まれた。彼女がそれを宙に投げると、人の身長を二つ重ねたぐらいに位置にとどまり、人の影を映し出した。
顔はぼやけて見えない。白い衣を重ねて着た女の姿だが、そのフォルムは確かに乳母子だ。だが……
「あやつ、自分の娘より若くなってるぞ」
「年齢は任意で選べるんだ」
「髪だって今までより長い」
「自己申告だから盛ったんだろ」
だいぶ違いがあるが涙腺が緩む。乳母子らしい影はしきりと手を振っている。振りながらだんだん薄れていく。私はあわてて大きく手を振り返し、大声で叫んだ。
「必ず行くから待っておれ!」
聞こえたのか彼女は大きくうなずいた。映像が完全に消えるまで、私は食いつきそうな顔で発光体を見つめ続けた。
「すぐじゃなくていいんだ」
ぼそぼそと更衣が続ける。
「準備もあるだろうから、パート練習でもして何年でも待つ」
私は背筋をしゃんと伸ばした。これから忙しくなる。
「こちらでも練習は続けておく。そちらですぐに弾けるようにな。どうせ参加するチーム以外にもチームはあるのだろう」
「そりゃもちろん」
「やはり弁財天と勝負するからには鍛えておかねば」
更衣は噴き出すと、身を折って笑い出した。私は憤然としたままおさまるまで待たなければならなかった。
彼女は目尻の涙を小指で弾きながら、まっすぐに私を見た。
「さすがに弘徽殿、意識が高い。いきなりラスボス相手にする気か」
「違うのか」
「無茶言うない。こっちはもともと人間だぞ。競い合うならまず下っぱの天人だが、そいつらだって人の一生よりずっと長い期間、音楽のことだけ考えてきたやつらだぞ」
それは少々やっかいだなと考えていると彼女は、にやりと口元を緩めた。
「だが勝算はある」
黙って見返すと彼女の瞳は派手にきらめく。
「あいつらは優雅に楽器を弾いていただけだが、私たちはそれだけじゃない。恋に苦しみ時代に悩み、血反吐を吐くほど辛い思いと、不幸を知らないやつらにはわからないほどの幸せを感じてきたんだ。絶対に上にのし上がってやる」
私もわずかに口の端を上げる。
「宿命なのかも知れぬな」
「ん?」
「おまえのいた場所は桐壺。琴の材料の桐だ。私のいた場所は弘徽殿。琴の琴を弾く時の目印の”徽”が入っている。後宮の七殿五舎のうち、この二つだけが音楽に関連している」
唐国ではもともと七弦琴は梧桐で作ったらしいが、いつしかわが国では桐が主流だ。
「ああ。そして私の息子は琴を得意とし、おまえの娘は琴をもらった」
まるで何かわからない流れが、私たちを対にすることをたくらんだようだ。
更衣も遠くを見据えるような顔をしたが、また何かを思いついたらしく目を輝かせた。
「そういや弁財天はもともと天竺のサラスバティだ。農業の他は学問や音楽、財宝、戦闘の神だ。なんだかおまえに似てるな」
どう応えるべきかわからなかったので「光栄だな」と流した。彼女はまた果実を割いたような笑いを見せると「じゃあ時期を決めたら言えよ。手続きするから」と言ってしゅうと消えた。注意事項の説明も一切なかった。
月のせいか雪のせいか夜空がうっすら白く見えてきた。若者たちは「竹河」を歌い終えてごほうびの綿を授けられている。大役を終えてほっとした様子だがまだ「我家」が残っている。それでも区切りがよかったので、階のもとに勢ぞろいしてあいさつをする。
「ご苦労」
ただ一言与えると素直に嬉しそうにしている。その様子を見ていると、時代は変わったなと思わぬでもない。昔なら帝クラスでなければ持ちえなかった無邪気さを平気で露出している。
だがそれが悪いこととも思えない。彼らが無防備に生きられるのだとしたら、われわれ大人はそう間違っていなかったということなのだろう。
だが女たちはどうなのだろう。私は視線を孫娘に向けた。いつの間にか彼女は話すことをやめ、おとなしく青年たちを眺めている。
――――昔より、一筋縄ではいかないのではないか
口元がほころびそうになる。その恋模様を知りたい気もするが、老兵はもう撤退の時間だ。未来は若者たちに任せ引っ込むことにする。
――――おまえたちは自由だ。恋愛するも強敵に立ち向かうも、好きにするがいい
三の宮は口を閉ざしたままだ。私はその静かなたたずまいを眺めた。
そういえば彼女の姉の女一の宮は「面白い」と言っていた。気づいていたのかもしれない。
だが、人の世のことは新世代が担当しろ。私にはするべきことがある。
男踏歌の一行が去り夜は明けていく。藍の色を薄れさせる空を見て、私は今日やることを考えた。
とりあえず少し休んで、起きたら楽の練習をしよう。それから身近な女房たちの行く末を考えてやり、孫や娘たちや妹たちの形見の品の準備も始めよう。
――――息子の心理的フォローが一番大変だな
それでも私は前に進む。けして後ろは振り返らない。たぶん仲間は待っていてくれる。
だから私はこういうのだ-----私たちの戦いはこれからだっ!
ありがとうございました