第09章 幕間 - 熊沢の過去
ゼンリョク・クリエイト事変の顛末を月例電話で報告すると、熊沢さんは電話の向こうで、うん、うん、と静かに聞いていた。そして拓真が話し終えると、めずらしく、少しの間、黙った。
「……白石。今日は、おれの話をしていいか。説教じゃない。ただの昔話だ」
「はい」
「お前、おれが昔からこういう、偉そうに人生を語るジジイだったと思ってるだろう」
「え、いや、その」
「思ってるな。違うんだ。四十五までのおれはな──今のお前と、同じだった」
熊沢さんの昔話は、そこから始まった。
若手時代の熊沢誠一は、「断らない男」だった。頼まれれば全部引き受けた。係長になるころには「熊沢に投げれば何とかなる」が部の共通認識になり、本人もそれを誇りにしていた。休日出勤の常連。家族旅行の予定は三度立てて三度流れた。娘の運動会は、八年間で一度しか行っていない。
「女房はな、ある時期から何も言わなくなった。文句を言われてるうちが花だと、後で知ったよ。諦められると、家の中が静かになる。おれはその静けさを『円満』だと思ってた。大馬鹿だな」
転機は四十五歳。胆石で倒れ、手術と検査で二週間入院した。命に別状はなかった。だが、その二週間が熊沢さんの人生を割った。
「病室で暇でな、いろいろ計算したって話は前にしたな。でも本当のきっかけは、計算じゃない。……見舞いに来た同期の、大西の話をしてやる」
大西さんは営業のエースだった。社内の伝説を三つ持ち、社長賞を二回獲り、そして熊沢さん以上に、仕事しかない男だった。趣味を聞かれると「客と飲むこと」と答えた。定年後は釣り三昧だと、口癖のように言っていた。若いころに一度だけ行った釣りが、人生で一番楽しかったのだと。
「その大西がな、おれの病室で言ったんだ。『熊沢、お前はいいなあ、強制的に休めて』って。冗談めかしてたが、目が笑ってなかった。……その大西が倒れたのは、定年の一年前だ。今度は胆石なんて可愛いもんじゃなかった。なんとか定年までは勤め上げてな、退職の日、あいつは花束を持って、おれに言ったんだ。『やっと釣りに行ける』って」
電話の向こうで、熊沢さんが一度、息を整えるのがわかった。
「十か月後だ。逝ったのは。……釣りには、二回行けたそうだ。四十年働いて、二回だ。葬式でな、大西の奥さんがおれの手を握って言った。『熊沢さん、あの人ね、最後まで、これからだこれからだって言ってたのよ』と。……白石、おれはその帰り道、駅のホームで動けなくなった。大西とおれの、どこが違う? 何も違わん。順番が違うだけかもしれん」
「……あの日のホームの景色は、今でも言える。夕方の五時四十分。上りの快速が出たあとで、ホームには塾帰りの小学生の列と、缶コーヒーの自販機の灯り。おれは喪服のままベンチに座って、電車を三本、見送った。乗れなかったんじゃない。乗る理由が、急にわからなくなったんだ。この電車は会社と家の間を往復してる。おれの三十年も、往復してた。大西の三十年も。で、終点はどこだったんだ、と。……ベンチの隣にな、塾帰りの小学生が座って、堂々とゲームを始めた。画面の中で、小さい騎士が何度も死んで、何度もやり直してた。おれはそれをぼんやり見ててな、急に泣けてきた。やり直せるのが、うらやましかったんだな、たぶん。五十がらみの男が喪服でゲーム画面見て泣いてる。通報されなくてよかったよ。……でもな白石、あとで気づいた。人生にコンティニューはないが、方向転換なら、いつでもできる。おれはあのホームで、初めて時刻表を見たんだ。反対方向の」
その夜、熊沢さんは帰宅して、妻の恵子さんに「定年後の計画を立てたい」と切り出した。すると恵子さんは、結婚以来最大の喧嘩を、静かな声で開戦したという。
「女房はな、こう言ったんだ。『あなたの言う計画って、あなたの釣りと蕎麦の話でしょう。あなたの定年後の絵に、私は何行目に出てくるの』と。……ぐうの音も出なかった。おれは大西の死に震えて、それでもまだ、自分一人の人生設計をしようとしてた。人生の資産は四つある、なんて偉そうに言ってるがな、四つ目の人間関係ってやつを、おれは女房に教わったんだ。あの晩、ちゃぶ台の上でな。二人で紙に線を引いて、金の欄の横に、健康と、時間と、そしてお互いの名前を書いた。あれが、うちのライフプラン表の第一版だ」
「……その紙な、最初の晩は、線が三本しかなかったんだ。金と、健康と、時間。それを見た恵子が、黙って四本目の線を引いてな、列の名前のところに、自分の名前を書いた。『私は、資産ですか』と聞かれたよ。冗談の顔をしてたが、目は冗談じゃなかった。おれは三十秒くらい黙って、それから、書き直した。四列目の名前を『人間関係』にして、一行目に『恵子と話す時間を週に三時間』と書いた。……白石、人生の計画ってのはな、一人で立てると必ずどこかが欠ける。欠けてる場所は、自分では見えん場所と決まってる。だから誰かに、覗き込んでもらうんだ」
汚い字でびっしり埋まった、あの紙。送別会の夜に見せてもらった表の一行目に、そんな夜があったとは。
「……もう一つ、白状しとくことがある」熊沢さんの声が、少しだけ低くなった。「お前を持株会に誘ったときのことだ。おれはあのとき、何も考えてなかった。おれ自身、先輩に『入っとけ』と言われて入っただけでな。そしてたまたま、時代が良かった。株価は上がり、おれの持株は退職金の上乗せになった。……いいか白石、ここが恐ろしいところだ。おれは『たまたま報われた』だけなのに、後輩のお前に、まるで実証済みの真理みたいな顔で勧めた。うまくいった理由をろくに検証もせずに、実力や真理と呼んで、次の世代に同じサイコロを振らせる。世の中の『先輩のありがたい助言』の何割かは、そうやってできてる」
「でも、熊沢さんは、送別会の夜にちゃんと」
「ああ。だから最後に言ったんだ。遅すぎる訂正だがな。……白石、お前もいつか、宮下くんあたりに何か教える日が来る。そのときは、自分の成功のどこまでが実力で、どこからが運だったか、一度、割り算してから話せ。それが、教える側の礼儀ってもんだ」
電話を切ってから、拓真は長いこと、天井を見ていた。
断らない男が、二人いた。一人は四十五で引き返し、笑って会社を出ていった。もう一人は、引き返す場所を最後まで「これから」と呼び続けた。
三人目の断らない男は、今、三十四歳である。
引き返すには、たぶん、一番いい場所に立っていた。




