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第08章 三か月目・炎上と交渉

   一


 順調は、長く続かないから物語になる。


 三か月目、拓真は文字単価一円の継続案件を獲得した。月に八本、一本五千字、報酬は月四万円の計算。ついに月八万円の折り返し地点が見える──はずだった。


 クライアントの「株式会社ゼンリョク・クリエイト」の担当者・矢口氏は、初回の打ち合わせチャットでこう言った。『うちはチームなんで! 白石さんも家族だと思ってます!』。家族。この単語が出る取引先には気をつけろと、どの本にも書いていなかったのが悔やまれる。


 一本目の納品後、矢口氏から修正依頼が来た。十二か所。まあ、初回はそんなものだろう。直して再納品。すると新たに修正依頼が九か所。うち四か所は、最初の修正指示と真逆の内容だった。直す。再々納品。『やっぱり全体のトーンを、もっとエモくしてほしいんですよね〜』。


 エモく。五千字のウォーターサーバー記事を、エモく。


 ちなみに「エモく」の定義を確認しようと試みた記録が、チャット履歴に残っている。


『恐れ入ります。「エモく」とは、具体的にはどのような方向性でしょうか。①感動的なエピソードを加える ②語りかける口調にする ③情景描写を増やす、などが考えられますが』


『そういうのじゃなくて、もっとこう、グッとくる感じです!』


『承知しました。読者がグッとくるポイントとして、たとえば「水を替えた朝の体調の変化」のような体験談の追加はいかがでしょうか』


『うーん、近いけど違うんだよなあ。伝わります? この、なんていうか、揺れ?』


 揺れ。ウォーターサーバーの記事に、揺れ。拓真は画面の前で三分間瞑目し、悟った。定義できない発注は、検収できない。検収できない仕事は、終わらない。「エモく」とは方向の指示ではなく、「私の機嫌が良くなるまで」という無限の座標なのだった。


 修正は五往復に及び、拓真の作業時間は一本あたり十五時間を超えた。


 五往復の中でも、三往復目の指示は殿堂入りだった。曰く『全体的にもっと寄り添う感じで。ただし馴れ馴れしくなく。プロっぽく、でも上から目線にならず、フランクに、けど軽くなく』。寄り添い、馴れ馴れしくなく、プロっぽく、上からでなく、フランクに、軽くなく。六つの形容の重なる領域を、拓真はベン図に描いてみた。中心に残った面積は、限りなくゼロだった。存在しない領域への案内を求められたとき、書き手にできるのは、書き直すことではない。「どの記事のどの一文が、その理想に近いですか」と、実在する見本を出してもらうことだ──と気づいたのは、例によって、すべてが終わった後だった。時給に換算すると、また二百円台に逆戻りである。しかも矢口氏は検収ボタンを押さない。検収されなければ報酬は支払われない。『家族なんで、細かい話は後で!』。家族は報酬を払え。


 深夜、五往復目の修正をしながら、拓真は気づいた。おれはまた、やっている。断れず、期待に応えようとして、際限なく差し出している。会社でやってきたことを、副業でまで繰り返している。場所を変えても、自分を変えなければ、同じ穴に落ちるのだ。


 拓真はキーボードから手を離し、契約画面の利用規約を、初めて隅々まで読んだ。修正回数の上限は事前合意が推奨されていること。検収の放置には運営への申請手続きがあること。武器は、最初から装備画面にあった。読んでいなかっただけで。


 翌朝、拓真は生涯で最も勇気の要るメッセージを書いた。十四回書き直した。


『矢口様 いつもお世話になっております。今後のご依頼について、二点ご相談です。①修正は二回までとし、三回目以降は追加料金(一回三千円)とさせてください。②検収は納品後五営業日以内にお願いいたします。難しい場合は、今月分をもって契約終了とさせていただければと存じます』


 送信ボタンの上で、指が三十秒止まった。断ったら、切られるかもしれない。せっかくの継続案件が。実績が。──いや。時給二百円の実績を積み上げても、時給二百円の人間になるだけだ。


 送信。


 返信は翌日に来た。『了解でーす! じゃあ今月で! 家族だと思ってたのに残念です!』


 家族、解散。


 呆気なかった。切られた。切られたのに、拓真の胸にあったのは喪失感ではなく、奇妙な清々しさだった。初めて自分で引いた線を、初めて自分で守った。失った四万円の向こうに、値札のつかない何かを得ていた。


 なお、未払いになりかけた検収済み前の報酬については、運営への申請手続きが機能した。規約に基づき、納品から一定期間クライアントが検収も差し戻しもしない場合、自動で検収扱いになる仕組みがあったのだ。ゼンリョク・クリエイトからの最後の入金は、その自動検収によって、粛々と実行された。矢口氏から届いた最後のメッセージは『事務的ですね!』だった。事務的。総務十二年の男への、これ以上ない餞別である。拓真はその二文字を、褒め言葉として受領した。感情の通じない相手から身を守るのは、感情ではなく、手続きだ。ルールを読む者は、ルールに守られる。


   二


 そしてこの騒動は、思わぬ副産物を生む。


 拓真が愚痴半分で参加していたライター向けのオンラインコミュニティ(月額千円。余白予算から捻出した、初めての自己投資らしい自己投資である)で、修正地獄の顛末を投稿したところ、思いのほか反響があったのだ。


『わかる。「家族」は地雷ワード』『検収放置は運営に申請でいけますよ』『白石さんの交渉文、テンプレとして保存しました』


 コミュニティというところには、独特の生態系があった。


 深夜一時に必ず現れて助言を残していく「ペンギン先生」(本業はトラック運転手で、休憩時間に書いているらしい)。育児の合間に月十万円を書く二児の母「まめこ」さん。定年後にライターを始めた七十一歳の「悠々自適ではない」さん(ハンドルネームがすでに文才である)。月初になると、皆が先月の売上と反省を投稿する文化があり、金額は三千円から三十万円までばらばらで、そして誰も、他人の金額を笑わなかった。三千円の報告に「初売上おめでとう!」のスタンプが三十個つく世界。会社の評価面談では見たことのない光景だった。


 拓真は最初、この温かさを少し疑っていた。世の中にそんなうまい話があるか、と。桜庭事変の後遺症である。だが三か月いてわかった。ここが温かいのは、全員がライバルではないからだ。ライターの仕事は椅子取りゲームではない。世の中の「書いてほしい文章」は、書き手の総数より、常に多い。パイの奪い合いではなく、パイがそもそも余っている市場では、他人の成功は自分の脅威にならず、ただの朗報になる。温かさにも、経済構造があった。


 中でも、ハンドルネーム「ふみこ」というベテランライターが、丁寧なコメントをくれた。曰く、単価一円以下の市場は疲弊しやすい。実績が三か月分あるなら、直接契約や単価一・五円以上の案件に応募すべき。プロフィールの書き方はこう直すといい──。


 見ず知らずの他人が、見返りもなく、知恵を分けてくれる。拓真は会社の外に、初めて「同業の知り合い」ができた。四つの通帳の四番目、人間関係の口座に、初めての入金があった夜だった。


 ふみこさんの助言どおりプロフィールを磨き、単価一・五円の案件に応募すると、二件が通った。三か月目の収入、二万三千円。金額はまだ小さい。だが拓真は確信していた。雪だるまは、転がり始めている。


   三


「白石さん、一度、通話で話しませんか。文字だと伝わらないことがあるので」


 ゼンリョク・クリエイト事変の顛末をコミュニティに投稿してから数日後、ふみこさんからそんな連絡が来た。日曜の夜八時、拓真は緊張しながらヘッドセットを着けた。会社の外の人と、仕事の話で、一対一で通話する。考えてみれば、これも初めてだった。


『あ、聞こえてます? はじめまして、ふみこです』


 画面越しに現れたのは、想像より柔らかい雰囲気の女性だった。本名は結城(ゆうき)文乃(ふみの)、四十七歳。ライター歴八年。その前は、地方の食品卸で経理を十八年やっていたという。


『十八年やって、親の介護で辞めたんです。四十を過ぎた元経理の再就職って、想像以上に狭き門でね。それで在宅でできる仕事を探して、ライティングに流れ着いて。当時の私の単価、聞きます? 文字〇・三円。五千字書いて千五百円。介護の合間に深夜二時まで書いて、月一万八千円』


 月一万八千円。拓真のかつての生活費と同じ数字に、妙な縁を感じた。


『だからね、白石さんの時給二百円の話、笑えなかったんです。昔の私だから。……でも白石さん、私が一番後悔してるのは、安く働いたことじゃないんですよ。安く働き続けたことなんです』


 ふみこさんは言った。安値で受けることは、短期的には実績になる。だが安値の実績は安値の依頼しか呼ばない。しかも、と彼女は続けた。


『安売りって、自分一人の問題じゃないんです。私が〇・三円で書けば、発注者は「〇・三円で書く人がいる」と学習する。その相場が、次の新人の首を絞める。逆に、私たちが適正価格で良い仕事をすれば、市場全体の相場が守られる。単価交渉って、わがままじゃなくて、業界への投票なんですよ』


 一人の値付けが、市場の一票になる。経理十八年の人の言葉には、独特の重みがあった。


 通話の後半は、実技指導だった。ふみこさんは拓真のプロフィールを画面共有で開き、遠慮なく赤を入れていった。


『実績を「数」で語ってますね。マニュアル三十本、議事録数百本。数って、発注者には響かないんです。響くのは再現性。ビフォーアフターで書いてください。「経費精算システム導入時、マニュアル整備で問い合わせ件数を月四十件からほぼゼロにしました」──ほら、この人に頼めばうちの問い合わせも減る、って未来が見えるでしょう? 発注者が買ってるのは文章じゃなくて、自分の困りごとが消えた未来なんです』


 数ではなく、再現性。文章ではなく、未来。拓真はノートに書き殴った。総務で十二年、拓真は「やったこと」を数えてきたが、「変えたこと」を数えたことがなかった。棚卸しの仕方が、また一段変わった。


 通話の最後、拓真は聞いてみた。ふみこさんは、なぜ見返りもなく新人にここまで教えるのか。


『ん? 半分は恩送りです。私も昔、先輩に無料で助けられたので。もう半分は実利。教えると、自分の頭が整理されて、私の仕事の質が上がる。ギブって、実は一番利回りのいい自己投資なんですよ。……あとね』


 ふみこさんは少し笑って、言った。


『この仕事の一番の報酬は、お金じゃないんです。会社の名刺も夫の姓も親の介護者って肩書も全部抜きで、自分の名前一つで世の中に立てること。白石さんも、もうすぐわかります』


 通話を切った後、拓真はプロフィールを全面改稿した。そして翌週、コミュニティの初心者スレッドで提案文の書き方に悩む新人を見つけ、生まれて初めて、頼まれてもいないのに手を挙げた。自分の勝率管理表から見えた「返信率二倍の型」を、惜しまず書き込んだ。


『ありがとうございます! 初めて返信きました!』


 数日後に届いたその報告は、報酬ゼロ円で、体感三万円だった。ギブの利回り、恐るべしである。


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