第07章 二か月目・初案件
一
応募十七件、返信三件、採用一件。
これが拓真の初陣の成績だった。打率〇割五分九厘。野球なら二軍落ちだが、実績ゼロの新人ライターとしては上出来の部類である。
ところで「応募十七件」の実態を、もう少し正直に書いておく。
一件目の提案文は、書くのに一時間かかった。時給二百円どころではない、時給未満の世界である。二件目からは初回の文面を流用したが、三件目で早くも「コピペ提案お断り」の文言を募集文の中に発見し、背筋が冷えた。読まれている。当たり前だが、提案文にも読者がいるのだ。
不採用の通知は、二種類あった。「今回はご縁がなかった」という定型文と、無言。圧倒的に無言が多い。無言の不採用というのは、じわじわ効く。断られたのか、読まれてすらいないのか、それすら分からない。拓真は会社員として、応募してくる取引先に無言を返す側の気楽さを知っていたので、初めて反対側の席に座って、あの無言の冷たさに驚いた。世の中の窓口の反対側には、必ず、返事を待つ側の椅子がある。この椅子の座り心地を知っている人間の書く文章は、たぶん、少しだけ優しくなる。そう思うことにして、拓真は十七件目を送信した。
記念すべき初案件は『ウォーターサーバー比較記事・三千字・文字単価〇・五円』。報酬千五百円。
拓真はこの三千字に、のべ七時間半かけた。調べて、書いて、直して、調べ直して、また直した。
のべ七時間半の内訳を、正直に開示しておく。
まず、調査に三時間。ウォーターサーバーというものが世に三十二機種以上あることを、拓真はこの夜知った。水はRO水と天然水に分かれ、ボトルは回収式とワンウェイ式に分かれ、電気代は月三百円台から千円超まで開きがあり、そして各社の公式サイトは、自社が一位になる項目だけを大きな字で書いている。比較記事を書くとは、大きな字の裏の小さな字を、三十二機種ぶん読む仕事だった。
次に、執筆に二時間。ここで拓真は、調べたことを全部書きたくなる病、通称「初心者の全部盛り」を発症した。ノルウェーの水源の話も、逆浸透膜の仕組みも、全部読者に教えたい。書き上がった初稿は五千八百字あった。指定は三千字である。
最後に、削るのに二時間半。書くより削るほうが時間がかかった。自分の書いた文章は、どの一文もわが子のようで、削るたびに小さく痛い。だが読者は、わが子の運動会を見に来たのではない。三分で機種を決めたいだけなのだ。拓真は歯を食いしばって二千八百字を削除し、送信した。後にふみこさんから聞いた言葉を借りれば、「書く力の半分は、消す力」である。納品ボタンを押した夜、彼は達成感に包まれ、そして翌朝、冷静に割り算をして凍りついた。
千五百円÷七・五時間=時給二百円。
二百円。都道府県別最低賃金の五分の一。江戸時代の丁稚のほうがいい飯を食っていた可能性がある。
落ち込む拓真に、しかし週末に電話した熊沢さんは、豪快に笑った。
「時給二百円? 上等じゃないか。おれの蕎麦なんて、道具代と教室代を考えたら、一杯打つたびにマイナス三千円だぞ」
「それは趣味だからいいじゃないですか」
「じゃあ聞くが、お前のその七時間半、案件をやらなかったら何に使ってた?」
「……動画を、見てたと思います」
「その動画の時給は?」
「ゼロ円です」
「違うな。マイナスだ。目は疲れる、姿勢は悪くなる、何も残らん。いいか白石、経済学に機会費用って考え方がある。何かを選ぶってことは、選ばなかった選択肢の価値を支払うってことだ。お前の七時間半の機会費用は、寝転がって動画を見る時間。それと比べてどうだ? 千五百円と、書く力と、初実績と、自信が手に入った。ぼろ儲けだろうが」
それに、と熊沢さんは続けた。
「時給二百円は今日の値段であって、お前の値段じゃない。会社員は毎月同じ給料をもらうから、自分の時給が固定だと思い込む。でも市場の時給は変動制だ。実績と腕で、来月は四百円、半年後は二千円になる。……逆に言えばな、何も学ばん人間の市場時給は、歳とともに下がる。会社の中にいると、それが見えんだけだ」
電話を切った後、拓真は納品した案件の評価画面を開いた。クライアントからコメントが付いていた。
『構成が分かりやすく、修正がほぼ不要でした。またお願いしたいです。★5』
拓真は、その一行を三回読んだ。
会社で「白石は断らないから好き」と言われたときの、あの薄甘い満足とは、何かが決定的に違った。あれは「都合の良さ」への評価で、これは「仕事の中身」への評価だった。同じ承認でも、味がまるで違う。前者は砂糖水で、後者は、ちゃんと出汁の味がした。
二
二件目、三件目と案件は続き、二か月目の終わり、拓真の副業収入は合計九千八百円になった。
二件目は「引っ越し見積もりの注意点・二千五百字」、三件目は「ふるさと納税の始め方・三千字」だった。どちらも単価〇・六円。だが拓真は、初案件で発症した「全部盛り病」の治療に、この二件を使った。書く前に、読者を一人だけ決める。引っ越し記事なら「初めて一人暮らしする二十二歳」、ふるさと納税なら「気になってるけど面倒くさがってる三十五歳」(つまり先月の自分である)。読者が一人に決まると、書くべきことと削るべきことが、勝手に列を作って並び始めた。三件目の執筆時間は四時間半。時給は倍以上になっていた。腕が上がったというより、迷いが減ったのだ。仕事の速さの正体は、手の速さではなく、迷いの少なさだった。
初報酬の入金日のことも書いておく。クラウドソーシングの報酬は、システム手数料が引かれ、さらに銀行への振込手数料が引かれて着金する。千五百円の案件の手取りは、千円と少しだった。手数料の存在自体は知っていたが、自分の千五百円から引かれると、知識は痛みに変わる。だがこの痛みが、拓真に大事なことを教えた。会社の給料では、社会保険も税も天引きされた「手取り」しか見てこなかった。個人の仕事は、売上と手数料と手取りの間の水路が、全部むき出しで見える。金の流れがむき出しの場所で働くと、金の解像度が上がる。天引きは楽だが、楽の代金として、解像度を持っていくのだった。目標の月八万円には遠い。だが拓真はこの月、もう一つの初体験をする。
稼いだ金で、自分のために、金を使ったのである。
会社近くの、前から気になっていた古い喫茶店。入ったことはなかった。一杯六百五十円のコーヒーは、拓真の従来の金銭感覚では「狂気の沙汰」だったからだ。
店の名は「珈琲 木馬」といった。木の扉は建て付けが渋く、押すと上のほうでカランとベルが鳴る。ベルが鳴っても、カウンターの中の白髪のマスターは顔を上げない。「いらっしゃい」とだけ言って、豆を挽く手を止めない。店内は四人掛けが二つとカウンターが六席。飴色の柱時計が振り子を揺らし、窓際の席では常連らしき老人が、夕刊を、たぶん三十分は同じ面のまま広げている。
拓真はカウンターの端に座り、メニューを開いた。ブレンド六百五十円。キリマンジャロ七百五十円。名前しか知らない産地の名前が並ぶ。マスターがようやくこちらを見た。
「初めて?」
「あ、はい。……いえ」拓真は言い直した。「初めてです。ブレンドをください」
マスターは頷いて、サイフォンに火を入れた。アルコールランプの青い炎。フラスコの中で湯が沸き、やがて上の器へと、重力に逆らって昇っていく。理科の実験のような、手品のような時間。店内には、豆の挽ける音と、柱時計と、湯の立ち昇る音しかない。誰も拓真に話しかけず、何も頼んでこない。スマートフォンを見ようとして、拓真はやめた。この時間ごと、六百五十円で買ったのだ。画面に逃げたら、もったいない。
やがて運ばれてきた一杯を、拓真はゆっくりと口に運んだ。深煎りの香り。厚手のカップ。窓の外を眺めながら飲む、平日夜の一杯。
「……うまい」
コンビニのコーヒーの六倍の値段で、六倍うまいわけではない。たぶん一・五倍くらいだ。でも、その一・五倍と、「自分の稼ぎで、自分の好きに使っている」という感覚を合わせると、体感は十倍だった。金の価値は金額だけでは決まらない。誰が、どう稼ぎ、何のために使うかで、同じ六百五十円の中身が変わる。
二杯目を頼んだとき、マスターが初めて、注文以外の言葉を発した。
「お客さん、何かいいことありました?」
「え。わかりますか」
「一杯目を、そんなに大事に飲む人は、久しぶりだったので」
拓真は少し迷って、正直に言った。初めて自分で稼いだお金で飲む一杯であること。金額は千五百円で、時給に直すと二百円だったこと。マスターは笑わなかった。サイフォンを磨きながら、「私も最初の月の売上、覚えてますよ。三十九年前。八千二百円」とだけ言った。三十九年前の八千二百円を、この人は昨日のことのように言う。金額の記憶ではない。あれはたぶん、始まりの記憶なのだ。以来、拓真はこの店の、月に二度の客になった。マスターとの会話は毎回二言か三言だが、グエンさんとの四種類二千回より、なぜか濃かった。
帰り道、拓真はふと思った。おれは今、ちょっとだけ、楽しいかもしれない。
産業医の宿題に、初めて答えられそうな気がした。
三
初案件の★5評価に浮かれた拓真を、二か月目の後半、静かなスランプが待っていた。
二件目、三件目の単発案件を納めた後、応募がぱたりと通らなくなったのである。八連敗、十連敗、十二連敗。理由もわからない。提案文を送った先からは、採用通知も不採用通知も来ない。ただ、既読のような沈黙だけが積み上がっていく。
追い打ちをかけたのが、「検索圏外事件」だった。ある夜、拓真はふと思い立ち、自分が納品したウォーターサーバー記事を検索してみた。あれだけ調べて、七時間半かけて書いた記事だ。さぞ多くの人に……見つからなかった。一ページ目にも、二ページ目にも、五ページ目にもない。十三ページ目で、ようやく発見した。検索結果の十三ページ目を見る人類は、おそらく執筆者本人だけである。
おれの文章は、世界の誰にも読まれていないのではないか。
一度そう思うと、朝五時半のアラームが急に重くなった。何のために早起きしている? 時給二百円で、読まれもしない文章のためか? 拓真は三日間、朝の勉強をサボり、夜は動画に逃げた。かつての生活が、口を開けて待っていた。古い生活習慣というのは執念深い元恋人のようなもので、こちらが弱った瞬間だけ、優しい顔で戻ってくる。三日で体重が一キロ増えた。動画の内容は、例によって何も覚えていない。
四日目の夜、月例より早く、拓真のほうから熊沢さんに電話をかけた。弱音を吐くために自分から電話をする。これも人生初だった。
「──というわけで、心が折れかけてまして」
「ふむ。白石、お前、積立投資は続けてるか」
「え? はい、毎月自動で」
「今月、含み益出てるか?」
「いえ、ちょっとマイナスです。相場が下がってるので」
「じゃあやめるか? 積立」
「やめませんよ。積立は十年二十年の話で、最初の数か月の上下は誤差だって、熊沢さんが」
言いながら、拓真は気づいた。電話の向こうで、熊沢さんがにやりと笑う気配がした。
「わかったか。スキルも同じだ。努力ってのはな、遅行指標なんだよ。今日の筋トレは今日筋肉にならん。今月の勉強は今月の採用にならん。成果は必ず、努力から数か月遅れてやってくる。積立の含み損期間と一緒だ。一番もったいないのは、芽が出る直前に畑を掘り返すやつでな」
「……モチベーションが、続かないんです」
「モチベーションなんぞ天気だ。晴れの日もありゃ土砂降りもある。天気に頼るな、屋根を建てろ。屋根ってのは仕組みのことだ。気分がゼロでも回る仕組み。……たとえば、やる気が出ないときは五分だけやれ。五分でやめていい。ただし五分は絶対やる」
五分ルール。半信半疑で翌朝試すと、種も仕掛けもわかった。作業の最大の敵は作業ではなく、開始なのだ。五分だけと自分を騙して机に着けば、六分目からは勝手に手が動く。エンジンは、かかりさえすれば回る。
もう一つ、拓真は総務仕込みの対策を打った。提案文の「勝率管理表」である。応募日、案件種別、単価、提案文の型、結果をExcelに記録していくと、沈黙の連敗に、初めて模様が見えた。単価一円以上の案件は勝率が低く、〇・八円台のマニュアル系は三割通っている。提案文は、冒頭で実績を語る型より、冒頭で相手の記事を読んだ感想を書く型のほうが、返信率が二倍以上高い。
感情で見れば「十二連敗の負け犬」だが、データで見れば「勝ち筋の見え始めた検証中の男」だった。同じ現実でも、記録があるかないかで、見える景色がまるで違う。落ち込みの正体の半分は、事実ではなく、記録の不在なのだ。
そして復活を決定づける一通が、週末に届いた。初案件のクライアントからだった。
『白石様 先日の記事経由の問い合わせが先月比で増えています。読者アンケートでも「わかりやすかった」との回答がありました。継続でお願いできますか?』
十三ページ目の記事は、読まれていた。検索順位という物差しの外で、必要な誰かには、届いていた。
拓真はその夜、勝率管理表の隅に小さくメモを書いた。『成果は遅れて届く。届かない日の仕事が、届く日を作る』。我ながら名言だと思った。名言を自分でメモする男の気持ちが、初めてわかった。佐々木さん、すみませんでした。




