第05章 幕間 - 佐々木のFX顛末記
白いジャケットのセミナーから生還した翌週、拓真はその顛末を社員食堂で佐々木さんに報告した。佐々木さんは唐揚げを箸で持ち上げたまま、しばらく静止し、やがて言った。
「白石ちゃん、今夜、空いてるか。おれの話を聞け。安くない話だ。時価百八十万の話だからな」
その夜、駅裏の大衆酒場。
店は「もつ焼き 大番」といった。赤提灯、擦り切れた縄のれん、壁一面に手書きの短冊メニュー。「ホッピー 白・黒」「煮込み(名物)」「たたきゅうり」。カウンターの奥では大鍋の煮込みが湯気を上げ、焼き台の煙が換気扇に吸い込まれきれず、店内の空気そのものに味がついている。佐々木さんはこの店の常連らしく、座ると同時に「いつもの、二人前ね」と言った。いつもの、を持っている人生。拓真は少しだけ、それを羨ましいと思った。もっとも佐々木さんの「いつもの」は、この後の話を聞く限り、居酒屋以外では碌なことになっていないのだが。ホッピーを二つ頼むと、佐々木さんは語り始めた。営業部・佐々木伸也、三十六歳の、資産運用一代記である。
「始まりは二〇一三年よ。おれが入社二年目んとき、経理の先輩に言われたの。『アベノミクスだぞ、株やらないやつはアホだぞ』って。で、なけなしの五十万で証券口座作った。……白石ちゃん、当時の相場、知ってるか。何を買っても上がったの。おれが適当に選んだ株が三割上がった。隣の課の先輩が犬の名前で選んだ株も三割上がった」
「犬の名前で?」
「飼い犬がポチだから、名前の似た銘柄を買ったんだと。それでも儲かった。……今ならわかるよ。あれは上げ相場。潮が満ちてるときは、どんなボロ船も浮く。でも当時のおれは、こう思った。『おれ、才能あるわ』ってな」
佐々木さんはホッピーをあおった。
「上げ相場では、猿がダーツで選んでも儲かる。儲かった人間は全員、自分の実力だと思う。これが第一の罠よ。ビギナーズラックってのはな、幸運の顔をした借金取りなんだ。あとで利子つけて取り立てに来る」
取り立ては二〇一五年に来た。チャイナショック。佐々木の含み益は数日で溶け、元本も二割欠けた。普通ならここで学ぶ。だが佐々木さんは違う結論を出した。
「『株は遅い』と思ったんだな、おれは。取り返すには、もっと速くて、もっとレバレッジの効くやつがいる、と。……それがFXとの出会いよ」
「あの、それ、学ぶ方向が真逆じゃ」
「真逆よ! 見事に真逆! 火傷したから今度はもっとデカい火に近づこうっていう発想な! でも当時のおれには論理的に思えたんだ。負けを取り返したい人間の脳ってのはな、アクセルとブレーキの配線が逆になる」
それからの佐々木さんの遍歴は、FX市場の失敗カタログそのものだった。レバレッジ二十五倍で「一晩で月給ぶん」を経験し、同じ倍率で「一晩で月給二か月ぶんの損」も経験した。米雇用統計の発表がある夜は、午後九時半にトイレへ立ち、個室でスマホの為替チャートを睨んだ(会社の飲み会の最中でも、である)。高金利通貨のスワップポイントで不労所得生活を夢見て、トルコリラに全力を注ぎ、リラの十年チャートというものを、買った後で初めて見た。きれいな右肩下がりだった。
「言うとくけどな、負けた話ばっかりやないぞ。一番勝った夜の話もしたる」と、佐々木さんはジョッキを置いた。酔って熱が入ると、抑えていた地の関西弁が、ところどころ顔を出すらしい。「三年前や。米の指標発表で、おれの読みがドンピシャに当たった。四十分で、二十八万。画面の数字が増えてくの見ながら、手ぇが震えてな。……白石ちゃん、あんな気持ちよさは、他にないで。脳のどっかから、直接なんか出とる。ほんで、その夜のおれは天才で、翌週のおれは、その二十八万を倍にしようとして、四十一万溶かした」
「……差し引き、マイナス十三万ですね」
「そういう計算すな。……いや、せなあかんのや、その計算を。でもな、脳は覚えとるんは二十八万の夜だけなんや。パチンコ屋がなんで音と光を派手にしとるか、わかるやろ。勝ちの記憶だけデカく焼き付けたら、人間は通い続ける。おれの脳内にもな、あの夜が、ネオンつけて営業しとるんや」
「白石ちゃん、聞いて驚け。おれの通算成績、マイナス百八十万。……嫁には言ってない。嫁にはあの口座、『会社の積立』って説明してある。もはや粉飾決算よ。おれは一人東芝よ」
「一回だけな、バレかけたことがある」と、佐々木さんは声を落とした。「二年前の正月、嫁の親父さん──義父さんが、酒の席で急に『伸也くん、為替はいかんぞ』て言うたんや。おれ、日本酒を鼻から出しかけたわ。なんでバレた思うやろ? ……おれの寝言らしいわ。帰省した晩、隣で寝とった嫁が聞いたんやと。『ロスカット、ロスカットだけは』て、寝ながら唸っとったらしい」
「それ、バレてるじゃないですか」
「いや、嫁は為替用語を知らんから、『ロスカットて何? 新しい髪型?』で済んだ。義父さんだけが察したんや。元銀行員やからな。……そのあと義父さんと二人で焼酎飲んでな、説教されるか思たら、一言だけやった。『金の失敗は取り返せる。隠し事は利子がつく』て。……ええこと言うやろ。おれはその晩もポジション持っとったけどな」
名言を浴びても行動の変わらない男、佐々木。だが拓真は後に知ることになる。人が変わるのは、いい言葉を聞いた日ではなく、聞いた言葉に現実が追いついた日なのだと。
「なんで、やめないんですか」
拓真の素朴な問いに、佐々木さんは初めて、箸を置いた。
「……やめられん理由はな、自分でもわかってるんだ。人間の脳ってのは、一万円得する喜びより、一万円損する痛みのほうが、倍以上デカく感じるようにできてるらしい。だから損切りができん。損切りボタンを押すってことは、『損の確定』だろ。押さなきゃ、まだ負けてない。ただの含み損。夢の途中。……そうやってお祈りしてる間に、含み損は育つんだな。これがまた、すくすく育つ」
そして、と佐々木さんは続けた。
「もう百八十万も入れちまった、って気持ちがある。ここでやめたら、あの百八十万が全部無駄になる気がする。……でもな、冷静に考えりゃ、その百八十万はもう戻らんのよ。過去に払った金は、これからの判断の材料にしちゃいけない。サンクコスト──沈んだ費用ってやつだ。頭ではわかってる。わかってるのに、心が『取り返してからやめよう』って言う。取り返してからやめる、は、ギャンブラーの国歌斉唱みたいなもんでな。全員歌うが、歌い終わったやつを見たことがない」
店の喧騒の中、佐々木さんはホッピーの「中」を追加した。
「だからな、白石ちゃん。おれはお前の副業、地味やなーと思うけど、正しいと思うわ。お前のやってることはプラスサムだ。書けば書くほど、腕と実績が積み上がる。誰かから奪った金じゃない、生み出した価値の対価だ。おれのやってきたのは、短期の為替の取り合い。誰かの勝ちは誰かの負け。手数料の分だけ、参加者全員で少しずつ沈む船よ」
「佐々木さんは、これからどうするんですか」
「おれか? おれはあれよ、今のポジションを取り返したら、きっぱり──」
「国歌斉唱、始まってますよ」
「…………ホッピー、もう一杯いくか」
その夜、佐々木さんは最後にこう言った。
「白石ちゃん。おれのことは反面教師にせえ。授業料百八十万の生きた教材が、唐揚げ一皿で読み放題なんや。世の中にこんな割のええ勉強はないぞ」
割のいい話を警戒しろと学んだばかりの拓真だったが、この割のいい話だけは、ありがたく頂戴することにした。




