第04章 副業リサーチ迷子
一
セミナー会場は、駅直結のきれいな貸し会議室だった。受付のお姉さんは女神のような笑顔で、席に着くと隣の参加者が「もう三回目なんです、講師の桜庭さん、本当にすごいですよ」と話しかけてきた(後から思えば、この「参加者」が本当に参加者だったのかは怪しい)。
講師の桜庭は、白いジャケットに白いパンツ、白い歯で登場した。全身から「成功」がにじみ出ている。というより、にじみ出るように設計されている。
後から思い返すと、あの会場は、実によくできていた。
まず、窓がなかった。地下ではないのに窓がなく、壁の時計も外されていて、部屋の中に「外界の時間」が存在しない。空調はやや暖かめで、開演前のBGMはやたらとテンポの速い洋楽。着席すると、スタッフが「本日は熱気がすごいので!」と言いながら水を配って回る。熱気がすごいのは、空調の設定温度のせいである。
開演五分前には「拍手の練習」があった。「桜庭が登場しましたら、皆さん、全力の拍手でお迎えください! 練習しまーす! はいっ!」。六十人が、まだ誰も登場していない空間に向かって拍手をする。不思議なもので、二回も練習すると、拍手は自前の感情のような顔をして手に馴染む。続いて「お隣の方と握手して、今日の目標を宣言し合ってください!」。初対面の中年男性と握手し、「へ、変わりたいです」と宣言させられた時点で、拓真の心はすでに三割ほど、会場の空気に貸し出されていた。
人を動かす古典的な道具立ては、だいたい三点セットだと、後日、図書館で借りた本に書いてあった。今だけ(限定性)、すごい人が言っている(権威)、みんなやっている(社会的証明)。桜庭のセミナーは、この三点を教科書どおりに、残り四席と、白いジャケットと、練習済みの拍手で実装していた。道具立て自体に善悪はない。デパートの試食も、選挙演説も、同じ道具を使う。ただ、道具の使い手が売っているものの中身だけは、自分の頭で検品しなければならなかった。
「みなさん! 会社の給料だけで、この先四十年、生きていけると思いますか!?」
思いません、と会場が答える。
「そう! でもご安心ください。私が発見した『ネオ物販メソッド』なら、スキルゼロ、一日三十分、スマホだけで月三十万円が可能なんです!」
スクリーンに、受講生の実績が次々と映される。「主婦Aさん、三か月で月収四十二万!」「会社員Bさん、半年で脱サラ!」。会場がどよめく。拓真もどよめいた。どよめきながら、頭の隅で何かが引っかかっていた。
セミナー終盤、案の定、本題が来た。
「このメソッドのすべてを詰め込んだ講座を、今日この場でお申し込みの方に限り、通常四十九万八千円のところ──二十九万八千円でご提供します! 定員はあと五名!」
会場の後方で、スタッフが「残り四席です!」と叫ぶ。隣の三回目氏が「私、申し込みます」と立ち上がる。焦燥感が会場に充満する。拓真の心拍数が上がる。二十九万八千円。持株会を減額した今なら、払えなくはない。ここで動かなければ、また元の人生に戻るだけなのではないか。今しかないのではないか──。
申込書のペンを持ったとき、拓真の頭の中で、三つの声が同時に再生された。
産業医の声。『人生の一点賭けって言うの』。
熊沢さんの声。『うまい話ってのはな、うまさの理由を説明できないやつが持ってくる』。
そして佐々木の声。『投資は種銭を増やす場所で、種銭を作る場所じゃない。……あ、いいこと言ったな今』。
拓真はペンを置き、深呼吸して、考えた。生まれて初めてくらい、真剣に、自分の頭で考えた。
──月三十万円、一日三十分で稼げる方法を知っている人は、なぜそれを二十九万八千円で売るのだろう?
答えは単純だった。「その方法を売ること」こそが、桜庭さんの月三十万円の正体だからだ。今日の会場は約六十人。五人が申し込めば約百五十万円。週二回開催なら月千二百万円。ネオ物販メソッドの中身が何であれ、最強の物販は「メソッド自体を売ること」である。実績として映された主婦Aさんの月収四十二万も、もしかしたら同じ講座を別の誰かに売った金額かもしれない。
構造が見えた瞬間、白いジャケットは急にただの白い服に見えた。
拓真は静かに席を立った。出口でスタッフに「ご決断は今日だけですよ!」と声をかけられ、人生で初めて、はっきりと言った。
「けっこうです」
あ、はい、ではなく。けっこうです。
会議室のドアを閉めたとき、拓真は二十九万八千円を稼いだような気分だった。実際、支出を防ぐことは稼ぐことと同じ価値がある。しかも税金がかからないぶん、稼ぐより効率がいい。
セミナー会場を出た足で、拓真は駅前のファミレスに入った。興奮と安堵で、まっすぐ帰る気になれなかったのだ。ドリンクバーだけを注文し(二百九十九円。今夜のおれは二十九万八千円守った男なので、実質二十九万七千七百一円の黒字である)、ノートを開いて、たった今見てきたものを図にしてみた。
中央に「桜庭」と書き、矢印を引く。無料セミナー→高額講座→受講生→その一部が「講師」側へ→また無料セミナー。金の流れを線でなぞると、それは商品の流通図ではなく、人の流れの循環図になった。売っているものの中身が最後まで出てこない図。つまり、中身は要らない構造なのだ。
図の余白に、拓真は今夜の学びを箇条書きにした。一、「誰でも・すぐ・簡単に」の三拍子が揃ったら財布を閉じる。二、稼ぎ方を売る人の稼ぎは、たいてい「稼ぎ方を売ること」。三、決断を急かされたら、急かされていること自体を判断材料にする。本当にいい話は、明日も残っている。四、それでも揺れた自分を責めない。あの空間は、揺れるように作られていた。責めるべきは感情ではなく、感情の防犯設備を持っていなかったことだ。
ドリンクバーのメロンソーダを三杯飲んで、拓真は店を出た。二十九万八千円の授業を、二百九十九円で受け直した夜だった。
二
とはいえ、詐欺を回避しただけでは一円にもならない。帰り道、拓真は書店に寄り、副業関連の棚の前に立った。
夜八時の書店は、いい匂いがした。紙とインクの匂いに、レジ横のブックカバーの匂いが混ざる。副業コーナーの棚の前には先客が二人いた。一人はスーツの若い男で、「不労所得」と背表紙にある本を、鬼気迫る速度で立ち読みしている。もう一人は拓真と同年代で、手に取っては戻し、取っては戻し、結局スマホを出して価格比較を始めた。棚の前の人間模様だけで、副業という言葉の周りに渦巻く、期待と焦りと疑いの配合比が見える気がした。
拓真は、背表紙を端から眺めていった。『秒で稼ぐ』『寝てても月収』系の金ピカの背表紙と、『複業の教科書』『小さく始める』系の落ち着いた背表紙が、同じ棚に同居している。手に取ってみると、金ピカ系は行間が広く、文字が大きく、三十分で読み終わる構造をしていた。落ち着いた系は、図表と注釈が多く、読むのに体力が要る構造をしていた。読みやすさと役立ちやすさは、どうやら反比例することがある。楽に飲み込めるものは、楽に消化されて、何も残らないのだ。
玉石混交の棚だった。「秒で稼ぐ」系の石もあれば、地に足のついた玉もある。拓真は三十分かけて立ち読みし、共通して書かれている堅実な結論を抽出した。
スキルゼロの会社員が現実的に始められる副業は、大きく三つ。①時間を売る(バイト・配達)、②物を売る(せどり・ハンドメイド)、③スキルを売る(ライティング・デザイン・プログラミング・事務代行)。
①は即金になるが、時間の切り売りで終わり、積み上がらない。体力的にも本業に響く。②は在庫と目利きが必要。③は最初は稼げないが、やればやるほど単価が上がる「複利型」──。
複利。その言葉に、拓真は反応した。投資信託を調べたときに覚えたばかりの概念。利息が利息を生む仕組み。スキルも同じだというのか。今日書いた文章の経験が、明日の文章を少し速く、少し上手くする。雪だるまは、最初は手が冷たいだけだが、転がし続ければ勝手に大きくなる。
中でもWebライティングは、初期費用ほぼゼロ、パソコン一台、納期さえ守れば深夜でも早朝でも作業できる。文字単価という明快な価格があり、実績が積める。会社員の副業入門として繰り返し推されていた。
拓真は考えた。おれに文章など書けるのか。……いや、待て。おれは十二年間、総務部で議事録を書き、通達文を書き、マニュアルを書き、部長の挨拶文の代筆までしてきた。読んだ人から「わかりやすい」と言われたことも、実は何度かある。あれは、スキルではないのか?
気づいていなかっただけで、雪だるまの芯は、もう手の中にあるのかもしれなかった。
レジで拓真は、ライティング入門書と、文章術の定番書の二冊を買った。合計三千三百円。二十九万八千円の講座の、およそ百分の一である。学びの世界には奇妙な逆転があって、高い情報ほど中身が薄く、本と図書館とネットの無料情報ほど中身が濃いことが珍しくない。値段は品質ではなく、売り手の狙いを反映するのだ。
翌週の土曜、拓真は生まれて初めて、市立図書館の貸出カードを作った。八年住んだ町の、家から徒歩十一分の場所に、それはあった。
図書館というところは、静かな衝撃に満ちていた。ビジネス書の棚には、書店で三千三百円で買ったのと同じ本が並んでいる。無料である。隣には統計の入門書、簿記のテキスト、文章術の名著、決算書の読み方。ぜんぶ無料である。二十九万八千円の講座の三百倍の情報量が、貸出カード一枚、つまりゼロ円で開放されている。世の中の情報の値段は、価値に比例していない。むしろ、切実に金を欲しがっている売り手の情報ほど高く、公共と先人の蓄積は、ほとんどタダなのだった。
閲覧席では、受験生がシャーペンを走らせ、老人が新聞を読み、拓真と同年代の男がノートパソコンで何かを打ち込んでいた。金のかからない場所には、金のかからない努力が、静かに集まっていた。拓真は文章術の本を二冊と、初心者向けの経済の本を一冊借りた。経済の本を選んだのは、桜庭の一件で痛感したからだ。金の仕組みを知らない人間は、金の仕組みを知っている人間の、餌になる。
余談だが、あのセミナーで隣に座っていた「三回目」氏を、拓真は後日、SNSで見かけることになる。プロフィールに「ネオ物販実践中/師匠と繋がれたことに感謝/次はあなたの番」とあり、投稿は毎日、朝焼けの写真と「今日も学びに感謝」の言葉。売上の話は、どこにもなかった。数か月後、そのアカウントは「◯◯式メソッド認定講師(見習い)」を名乗り始めた。売る側の末端に、組み込まれたのだ。拓真は静かにそっ閉じし、二度と見なかった。あの日、隣の席とおれを分けたのは、才能でも人格でもない。ペンを置いた三十秒の、割り算だけだった。そう思うと、他人事の顔で笑う気には、なれなかった。
その夜、拓真はノートの新しいページにこう書いた。
『目標:六か月後、副業で月八万円』
なぜ八万円か。月三万の余白を、月十万超の余白にしたかったから。十万あれば、趣味も、旅行も、たまの贅沢も、老後の積立増額も、ぜんぶ視野に入る。人生の選択肢が、金額として目に見える形になる最初のラインが、拓真にとっての八万円だった。
目標を書いた男は満足して眠りについた。翌日から始まる勉強が、想像の三倍地味で、五倍眠いことを、まだ知らずに。




