第03章 家計の棚卸し
一
決意の翌朝は土曜日だった。拓真は人生で初めて、アラームより先に目が覚めた。決意というのは、目覚まし時計より性能がいいらしい。
カーテンを開けると、朝の光が部屋に入ってきて、拓真は八年住んだこの部屋を、初めてまじまじと「見た」気がした。
見れば見るほど、奇妙な部屋だった。カーテンは焦げ茶色。前の入居者の残置物で、不動産屋のお兄さんが「これ、使えるんで置いときますね」と言ったのをそのまま八年使っている。ローテーブルは会社の備品入れ替えで出た廃棄品。本棚は母が「勉強しなさい」と送ってきたもので、中身は入社時の研修資料のまま。壁には何も貼っていない。何も、である。ポスターの一枚、写真の一葉、カレンダーすらない。
他人の設計図で建てた家、と熊沢さんは言ったが、実物はもっとひどかった。これは家ですらない。他人の忘れ物の集積所だ。八年暮らして、この空間に「白石拓真の意思」は、一立方センチも存在していなかった。
拓真はインスタントコーヒーを淹れ(棚割り担当者選定の、例のやつだ)、湯気の向こうの部屋をもう一度眺めて、ノートの一ページ目にこう書いた。『この部屋に、自分で選んだものを一つずつ増やす』。人生の設計変更は、たぶん、カーテンの色くらいの大きさから始めていい。
まずやるべきことは決まっていた。熊沢さんの宿題その一、持株会の見直しである。
拓真は机に十二年分の残高通知を並べ、電卓とノートを用意した。休日の朝から自宅で電卓を叩く三十四歳独身男性。傍から見れば侘しい光景だが、本人の目は、修学旅行前夜の小学生のそれだった。なにしろ、自分の意思で自分の人生の数字を眺めるのは、これが初めてなのだ。
調べてわかったことを、拓真はノートに書き出した。
一、持株会の奨励金は拠出額の一〇パーセント。月十八万円入れると、一万八千円がタダでもらえる計算。これ自体は破格にうまい話である。
二、ただし奨励金がうまいのは「拠出した瞬間」だけで、その後の資産はまるごと自社株の値動きに晒される。うまみは入口の一〇パーセント、リスクは全体の一〇〇パーセント。
三、持株会の株は、単元(百株)にまとまれば自分の証券口座に振り替えて売却できる。つまり出口はちゃんとある。あるのに、拓真は出口の存在すら知らなかった。十二年間、入口しか見ていなかった。
四、そして最大の発見。拓真は「貯金が苦手だから天引きがいい」と思い込んでいたが、よく考えたら月一万八千円で生活できている時点で、支出管理能力は達人級だった。苦手なのは貯金ではなく、「自分で決めること」のほうだった。
「……おれ、けっこう、すごくないか?」
声に出してから、一人で照れた。手取り一万八千円生活を十二年続けた男。見方を変えれば、それは怠惰ではなく、鍛え抜かれた耐久力である。問題は、その耐久力の使い道を全部他人に決めさせていたことだけだ。
昼過ぎ、拓真は銀行の記帳機で、十二年分の通帳の続きを刷った。古い通帳も引っ張り出し、時系列に並べてみる。通帳というのは、読み方を覚えると、日記より正直な自叙伝である。
二十二歳、初任給。振込額の横に、その日のうちのATM出金三万円。何に使ったかは覚えていないが、たぶん飲み会と、スーツと、浮かれだろう。二十四歳、家賃の引き落としが始まり、持株会の天引きが一万円。二十七歳、天引きが五万円に増える(熊沢さんの「増やしとく?」第一回)。三十歳、十万円。三十二歳、十五万円。そして現在、十八万円。
一方で、通帳の「出金」の欄は、年を追うごとに痩せていった。三十歳を過ぎると、家賃と光熱費と携帯代以外の引き落としが、ほぼ消える。二年前の三月に至っては、生活費の出金が月に二回、計一万六千円しかない月があった。記帳された数字の羅列を眺めて、拓真は思った。これは家計簿ではない。心電図だ。そして三十歳以降のおれの波形は、限りなくフラットに近い。医療の世界でフラットな心電図を何と呼ぶかは、考えないことにした。
拓真は決めた。月曜、持株会の拠出額を十八万から五万に変更する。差額の十三万円のうち、十万円は証券会社の口座を作って積立投資信託へ(全世界株式。卵を世界中のカゴに分ける)。残り三万円が、熊沢さんの言う「余白」。趣味と、副業の勉強と、人生を育てるための肥料である。
月三万円。人によっては飲み会二回で消える額だ。だが月一万八千円で生きてきた男にとって、それは可処分所得二・六倍増、体感的には石油王だった。
変更届の用紙は、A5一枚の簡素なものだった。拠出額変更欄に「50,000」と書き込む。たった五桁の数字を書くのに、拓真はボールペンを二度、置いた。十八万を五万に。数字の上では単なる減額だが、拓真の中では、十二年続いた「あ、はい」体制に対する、初の内政改革だった。
書き終えた夜、拓真は熊沢さんに短いメッセージを送った。『宿題その一、着手しました。持株会、月五万に減額。差額は分散投資と、余白にします』。返信は五分で来た。『上出来。ただし一個だけ注意。減らした分の金は、口座に置いとくと三か月で「あってもなくても同じ金」になる。金には最初に名前をつけろ。「投資」「余白」「防衛」。名前のない金から順に、蒸発する』。金に名前をつける。妙な言い回しだが、総務の人間には腑に落ちた。予算とは、要するに金につけた名前のことである。会社では当たり前にやってきたことを、自分の人生にだけ、やってこなかった。
ついでに拓真は、家計簿アプリを入れて、銀行とカードを連携させた。設定は十五分で終わり、過去数か月の支出が自動で円グラフになった。グラフは、ほぼ一色だった。「住居費」の青が円の大半を占め、残りをわずかな「食費」が埋める。「趣味・娯楽」の項目は、色がなかった。ゼロ円にはグラフの面積が与えられないのである。アプリの設計者は、まさか娯楽費ゼロの人間が使うとは想定していなかったらしく、画面の下に「今月は娯楽費を上手に節約できました!」と、見当違いの褒め言葉が表示されていた。節約したのではない。人生ごと欠落していたのだ。拓真は「余白」というカテゴリを手動で新設し、予算三万円と入力した。空っぽの円グラフに、初めて、自分で選んだ色の面積を予約した。
数日後、熊沢さんから補足のメッセージが届いた。『言い忘れた。投資と余白の前に、もう一個、名前をつける金がある。「生活防衛資金」だ。生活費の半年分、何があっても触らない現金。これがあるとな、人生の選択の質が変わる。防衛資金のない人間は、嫌な仕事を断れない。会社に何かあったとき、慌てて悪い条件を飲む。金の余裕ってのは贅沢のためじゃない、「ノー」と言うためにあるんだ』。拓真は返信した。『わかりました。でも半年分貯まるまで、時間がかかりそうです』。返信は簡潔だった。『かかっていい。人生で一番いい買い物ってのは、たいてい、時間がかかる』。
二
月曜日。拓真は総務部の窓口で(つまり自分の隣の席の担当者に)持株会の変更届を出した。
「白石さん、拠出十八万から五万って……減額幅すごいですね。なんかあったんですか?」
「人生の設計図を、描き直そうと思って」
「……白石さんが? 大丈夫ですか? 変な壺とか買ってません?」
十二年間「あ、はい」しか言わなかった男が急に人生を語り出すと、周囲はまず宗教か詐欺を疑う。信用とはそういうものである。
その夜、拓真はもう一つの手続きに挑んでいた。ネット証券の口座開設である。
画面の案内に従って氏名と住所を打ち込み、本人確認の段になって、拓真はスマートフォンのカメラの前で、指示どおりに首をゆっくり右に振り、左に振り、まばたきを二回した。深夜のワンルームで、無言で首を振る三十四歳男性。防犯カメラに映ったら通報される絵面だが、これが二〇二〇年代の、資産形成の入り口の儀式である。
数日後、開設完了の通知が来て、拓真は初めての積立設定をした。全世界株式のインデックスファンド、毎月十万円、給料日の翌日に自動買付。設定ボタンを押す指は、少しだけ緊張していた。持株会のときは、熊沢さんの「入っときなよ」に「あ、はい」で始まった。今回は、誰にも勧められていない。目論見書という眠くなる書類を三十分かけて読み、手数料の意味を調べ、自分で銘柄を選んで、自分で金額を決めた。金額は同じような天引きでも、意思の込め方がまるで違う。人生で初めての、「あ、はい」ではない金の置き場所だった。
そしてこの日、拓真はもう一人の重要人物と接触する。営業部の佐々木、三十六歳。社内で唯一「副業」を公言している男だった。
昼休み、社員食堂。拓真は勇気を出して佐々木の向かいに座り、副業について聞きたいと切り出した。佐々木は箸を止め、ニヤリと笑った。
「白石ちゃんもついに目覚めたか。いいねえ。おれ? おれはFXよ。為替。昨夜もドル円で勝負よ」
「すごいですね。もうかってるんですか」
「聞いて驚け。先月はプラス十二万」
「十二万!」
「ただし今月はマイナス二十八万」
「……」
「トータル? トータルは聞くな。男には、合計を見ちゃいけない口座があるんだ」
佐々木は遠い目をして味噌汁をすすった。後に拓真が学ぶことだが、FXのような短期売買は、参加者同士でお金を奪い合うゼロサムゲームに近い(手数料の分だけ全員が少しずつ損をするので、正確にはマイナスサム)。世界経済の成長に乗る長期の株式投資とは、似て非なるものである。佐々木はその授業料を、身銭で払い続けている教材だった。
「白石ちゃん、FXやるか? 口座紹介するぞ」
「い、いえ、ぼくは、働いて稼ぐ系の副業を……」
「地味〜! でもまあ、正解かもな」佐々木は急に真顔になった。「投資は種銭を増やす場所で、種銭を作る場所じゃない。おれみたいに種銭を溶かすのは論外。……あ、いいこと言ったな今。メモしとこ」
自分の名言を自分でメモする男、佐々木。しかしこの言葉は正しかった。月三万の余白しかない人間が投資でそれを倍にしようとすれば、大抵は半分になる。まず稼ぐ力。増やすのはその後。順番を間違えてはいけない。
その夜、拓真はスマートフォンで「副業 未経験 始め方」と検索した。そして一件の広告が、彼の画面に滑り込んできた。
『【無料】スキルゼロ会社員が最速で月30万円! 今だけ無料セミナー開催!』
無料。月三十万。最速。
危険な単語が三つ並んでいることに、このときの拓真はまだ気づいていない。




