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第02章 趣味はなんですか

   一


 幹事というのは、世界で最も報われない役職である。


 店を予約すれば「もうちょっといい店なかった?」と言われ、会費を集めれば「五千円は高くない?」と言われ、開始時刻に人が集まらなければ、なぜか幹事が謝る。うまくいって当たり前、失敗すればすべての責任。まるで総務部の仕事を濃縮還元したような役割であり、だからこそ拓真は幹事に向いていた。悲しい適性である。


 なお、送別会に至るまでの一週間、拓真は幹事業務を粛々と遂行していた。参加可否の回収(未回答者への三段階リマインド。一段階目は全体連絡、二段階目は個別連絡、三段階目は廊下での偶然を装った待ち伏せ)。店選び(熊沢さんの好み=和食、部長の好み=個室、若手の好み=安い、川本さんの条件=禁煙、を全部満たす店は、駅前に一軒しかない。毎回その店になる理由を、幹事だけが知っている)。アレルギー確認(甲殻類一名、そば一名)。花束の手配(川本さんに相談すると三分で最適解が出る。川本さんは情報だけでなく花にも強い)。余興の調整。会計の準備。座席表の作成──主賓の近くに話したい人を、部長の近くに酒の強い人を配置する、あの静かな人事。


 これら二十数項目のタスクを、拓真は手帳のチェックリストで管理し、期日前に全部終えた。誰にも褒められない完璧な仕事、というものが世の中にはあって、幹事業はその代表格である。だがこのチェックリストの技術が、半年後、まったく別の場所で金に換わることを、このときの拓真はまだ知らない。人生に無駄な経験はない、という言葉は半分嘘だが、「無駄になるかどうかは置き場所で決まる」なら、本当だった。


 金曜十九時、駅前の居酒屋「炙り屋 まんてん」の座敷に、総務部を中心とした二十三名が集まった。主賓は熊沢誠一、五十五歳。勤続三十三年、早期退職。拓真を持株会に引きずり込んだ張本人である。


「えー、それでは、熊沢さんの新たな門出を祝しまして……かんぱーい!」


 乾杯の音頭すら部長に取られ(幹事は音頭を取らせてもらえない。準備だけして美味しいところは上司のもの。これも総務の縮図である)、宴会は始まった。


 座敷は、掘りごたつ式の三十畳間で、既に温気と醤油の焦げる匂いが充満していた。長机の上には、お通しの枝豆と、刺し盛りの大皿。大皿の上では大葉の陰からエビが二本、宴の行方を見守っている。二十三人に対してエビ二本。この配分をめぐる終盤の攻防を、幹事の拓真はすでに予見していた。


 部長の挨拶は、定型どおりに進んだ。「熊沢くんとは、かれこれ三十年」「時代は変わりましたが」「第二の人生」。要素はこの三点で、順番だけが年によって入れ替わる。拓真は聞きながら、瓶ビールのラベルを上にして注ぎ回り、空いた皿を重ね、取り皿の在庫を数えていた。幹事の視点から見る宴会というのは、舞台袖から見る芝居に似ている。客席からは見えない配線と、段取りと、汗が見える。そして舞台袖の人間は、芝居そのものを、一度も正面から観たことがない。


 乾杯のあと、熊沢さんの席には若手の行列ができた。ビール瓶を捧げ持ち、一言ずつ言葉を交わして注いでいく。「お世話になりました」「熊沢さんの伝票チェック、厳しかったっす」「第二の人生、楽しんでください」。熊沢さんは一人ひとりに、ちゃんと違う返事をしていた。あの人は、注がれながら、注ぎ返す人だった。拓真はそれを、厨房への追加注文を通しながら、少し離れた場所から見ていた。いつもの場所だった。少し離れた場所というのが、白石拓真の、この会社での定位置だった。


 宴の中盤には、余興があった。若手三人による「熊沢さんの三十三年クイズ」である。「第一問! 熊沢さんが伝票の不備を見つけたときに言う決め台詞は?」「『これ、数字が泣いてるぞ』!」「正解ー!」。座敷が沸く。熊沢さんは「言ってない、そこまでは言ってない」と手を振りながら、まんざらでもない。


 続いて有志のスピーチ。経理の大場さんが「熊沢さんに三回怒られ、三回助けられました」と言い、川本さんが「熊沢さんの奥様は本当にお美しくて」と本人より奥さんを褒め、最後に部長が二度目の挨拶をした(部長は宴会で二回喋る生き物である)。


 拓真は座敷の後方で、進行表と時計を見比べながら、その全部を眺めていた。三十三年働くと、こういう夜に、こんなにたくさんの言葉が集まるのか。ふと、意地の悪い想像が頭をかすめた。おれの送別会には、どんなクイズが出るのだろう。「白石さんの口癖は?」「『あ、はい』!」「正解ー!」。……想像の中の正解発表が、笑えなかった。


 拓真の仕事は多岐にわたった。遅れてくる人のための道案内、料理の取り分け、飲み物のオーダー集約、部長のグラスが空く三十秒前を予知する能力の行使。彼はこの日も完璧だった。完璧な、宴会の自動販売機だった。


 事件は、開始から一時間ほど経ったころに起きた。


 席替えの流れで、拓真は主賓の熊沢さんの隣に座ることになった。熊沢さんは頬を赤くしながら、若手たちの質問攻めにあっていた。


「熊沢さん、辞めた後って何するんですか?」


「ん? まずは女房と九州一周。それから蕎麦打ちの教室に通う。あとは家庭菜園を本格的にやって、冬は写真を撮りに行く。忙しいぞお、これから」


「うわ、充実してますね!」


「そりゃお前、三十年かけて仕込んできたからな。退職は突然やってくるもんじゃない。準備するもんだ」


 熊沢さんは上機嫌で、隣の拓真の肩をバンと叩いた。


「その点、白石は大丈夫か? お前、趣味なんだっけ?」


 来た。


 産業医に続いて二度目の、あの質問。しかも今回は、酒の入った二十三人の前である。拓真の脳内で、先週と同じ検索エンジンが回り始めた。検索ワード:「白石拓真 趣味」。検索結果:〇件。もしかして:「仕事」。


「……えっと」


「おいおい、考えるなよ、趣味だぞ? 好きなもんパッと言うだけだろ」


 座敷が、なんとなく拓真に注目し始めた。二十三対の目。拓真の額に汗がにじむ。何か言わねば。何でもいい。人間らしい何かを。


「さ……」


「さ?」


「散歩、ですかね」


「ほう、散歩! いいねえ。どの辺歩くの?」


「……駅から、家までです」


 それは散歩ではない。帰宅である。


 座敷に、微妙な空気が流れた。笑っていいのか気の毒がるべきなのか判断のつかない、あの湿った沈黙。若手の宮下が気を利かせて「白石さんは仕事が趣味みたいなもんですから!」とフォローを入れ、数人が「わかる〜」と笑い、話題は流れていった。


 流れていったのだが。


 拓真の中では、何も流れていかなかった。「駅から家まで」と口にした瞬間の、あの内臓が冷えるような感覚。二十三人の前で、自分の人生の空白を、証明書付きで開示してしまった感覚。


 帰宅は、散歩ではない。


 生活は、人生ではない。


 誰に言われたわけでもないその二行が、頭の中で点滅し続けていた。


   二


 宴もたけなわ、二次会に流れる者と帰る者が分かれる時間帯になった。


 会計は、幹事にとっての最終決戦である。


 レジ前で拓真は、集金袋と伝票を突き合わせた。会費五千円×二十三名=十一万五千円。会計は十一万三千八百四十円。差額千百六十円の黒字──に見えるが、ここから乾杯用に追加した瓶ビール二本(伝票に載り忘れていて、店員さんが申し訳なさそうに後から持ってきた)を精算すると、残金は百六十円になる。この百六十円をどうするか。次回に繰り越すのか、募金箱に入れるのか、幹事が飲むのか。誰も決めてくれないことを決めるのが、幹事である。拓真は百六十円を封筒に入れ、「部会計・雑収入」とメモを書いた。書きながら、おれはたぶん、日本で一番百六十円を丁寧に扱っている男だと思った。


 なお、会計中に三人が「あ、おれ千円札なくて」と一万円札を出し、二人が「ごめん、来週払う」と言い、一人がいつの間にか帰っていた。来週払う、の回収率が歴史的に六割であることを、拓真は経験で知っている。幹事とは、四百円の貸し倒れ引当金を心に積む仕事である。拓真が会計を済ませて(幹事は飲み会の最後に、酔えない頭で割り勘の端数と戦う)店の外に出ると、熊沢さんが一人、夜風に当たっていた。


「おう、白石。幹事ご苦労さん」


「いえ。……熊沢さん、今日はおめでとうございます」


「おめでとう、か。まあな」


 熊沢さんは、ふっと真顔になった。酔いが一段引いたような顔だった。


「白石、ちょっとだけ説教していいか。最後だから」


「あ、はい」


「その『あ、はい』だよ、まず」


「え?」


「お前の『あ、はい』、おれは三十三年の会社人生で一万回は聞いたぞ。便利だよなあ、あの返事。考えなくていい。責任も取らなくていい。相手も気持ちいい。……でもな、白石。『あ、はい』で作った人生ってのは、他人の設計図で建てた家なんだ。住んでるのは自分なのに、間取りは全部他人が決めてる」


 拓真は何も言えなかった。「あ、はい」と言いそうになって、慌てて飲み込んだ。


「おれがお前を持株会に誘ったの、覚えてるか」


「はい。入社一年目のときです」


「あれな、悪かったと思ってる」


「……え?」


「いや、持株会自体は悪くないんだ。奨励金は美味いし、天引きの強制力もある。おれも世話になった。問題は量だよ、量。お前、今いくら入れてる?」


 拓真は正直に答えた。月十八万、手取りの七割。評価額約六百万、金融資産のほぼ全部。


 熊沢さんは、夜空を仰いで長い息を吐いた。


「……白石。卵の話、知ってるか」


「卵?」


「『卵を一つのカゴに盛るな』。投資の世界で一番古い格言だ。カゴを落としたら、全部割れるからな。……でもお前のは、もっとひどい。卵を全部一つのカゴに盛って、しかもそのカゴを、自分の勤め先に預けてるんだ」


 熊沢さんは指を折りながら続けた。


「考えてみろ。会社の業績が傾くと、何が起きる? まず株価が下がる。お前の六百万が縮む。次にボーナスが減る。給料も上がらなくなる。最悪、リストラだ。つまりな、会社がコケた瞬間、お前は資産と収入を同時に失う。普通の株式投資なら『株は下がったけど給料はある』で済む。お前の場合は全部連動だ。これを世間では、集中リスクって言う」


「でも、うちの会社、潰れるようには……」


「山一證券の社員も、そう思ってた。JALの社員も、東芝の、シャープの社員もな。潰れなくたっていい、業績不振だけで両方削られる。……いいか白石、おれは会社を疑えと言ってるんじゃない。『疑わなくていい状態』に自分を置いとけと言ってるんだ。分散ってのは、会社への裏切りじゃない。会社を信じ続けるための、心の保険なんだよ」


 夜風が、酔いの残りをさらっていった。拓真は、引き出しの中の残高通知を思い出していた。六百万円。あれは資産ではなく、一点賭けのチップの山だったのか。


「あの、熊沢さんは、どうやって……その、九州一周とか蕎麦とか、お金と時間、どうしてるんですか」


 我ながら不器用な質問だったが、熊沢さんは嬉しそうに笑った。


「お、初めてお前から質問されたな。十二年で初めてじゃないか?」


 言われてみれば、そうかもしれなかった。拓真は頼まれる側の人間であり、尋ねる側に回ったことがほとんどなかった。


「種明かしすると、四十五のときに一回、病気してな。大したことなかったが、ベッドの上で暇だったから、人生の計算をした。定年まで十五年、そこから八十まで二十年。合わせて三十五年。……このとき気づいたんだ。おれ、定年後の二十年分の『やること』を何も持ってないって。金の計画はあった。でも、時間の計画がなかった」


「時間の、計画」


「そうだ。人生設計って言うとみんな金の話だと思うだろ。違うんだな。人生の資産は四つある。金、健康、時間、人間関係。四つの通帳があると思え。で、大抵のサラリーマンは、金の通帳だけ見て、あとの三つが残高不足で破産する。……お前、今、四つのうちいくつ黒字だ?」


 拓真は指を折った。


 金──通帳は黒字。ただし一点賭け。


 健康──γ-GTP八十九。赤字。


 時間──仕事と睡眠で完売。赤字。


 人間関係──会社の連絡先のみ。プライベートの友人、直近三年の遊んだ記録なし。赤字。


「……一つです。しかも条件付きで」


「だろうな。見りゃわかる」


 熊沢さんは、コートのポケットから小さく折った紙を出した。広げると、手書きの表だった。縦軸に年齢、横軸に「金・健康・時間・人間関係」の四列。五十五歳から八十歳まで、細かい字でびっしり計画が書き込まれている。蕎麦打ち教室、市民農園の契約更新、孫の入学、家のリフォーム、女房の還暦旅行。


「十年前から書き直し続けてる、おれのライフプラン表だ。汚い字だろ。でもな、この紙切れ一枚のおかげで、おれは今日、笑って辞められる」


 熊沢さんは紙をしまい、拓真の目を見た。


「白石。お前は優しい。頼まれたら断らない。それは美点だ。でもな、他人の頼みを全部引き受けるってことは、自分の人生を後回しにするってことと同じなんだ。断らない優しさは、三十年後、誰も責任を取ってくれない。頼んだ側は、覚えてすらいない」


「……」


「宿題を二つやる。一つ、持株会の拠出額を見直せ。全部やめろとは言わん、量を考えろ。二つ、金を使え。少しでいい、自分の『好き』を探すことに使え。好きってのはな、宝探しと違って、掘れば出てくるもんじゃない。金と時間を撒いて、育てるもんだ。……三十四なら、まだ間に合う。おれの十年前より、十一年も若い」


 タクシーが来た。熊沢さんは乗り込む間際、振り返った。


「あと白石、これは経験者として言っとくが──」


「はい」


「趣味を聞かれて『散歩』って答えるやつの九割は、散歩すらしてない」


「……すみません」


「ははは。じゃあな。半年後くらいに、飯でも食おう。そのとき、趣味の話を聞かせろよ。『あ、はい』以外の返事でな」


 タクシーのテールランプが遠ざかっていく。拓真は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 二次会に向かう一団が、駅の反対側へぞろぞろと歩いていく。宮下が振り返って「白石さん、二次会は?」と声をかけてきた。


「幹事の残務があるから、今日は帰るよ」


「えー、白石さんがいないと、精算とか……あ、いや、なんでもないです! お疲れさまでした!」


 宮下は自分の発言の失礼さに途中で気づき、慌てて頭を下げて、走って一団を追いかけていった。悪気はないのだ。悪気なく、おれは精算の人なのだ。夜風の中、拓真は苦笑した。だが不思議と、腹は立たなかった。熊沢さんの言葉の直後だったからかもしれない。精算の人、という配役は、断らなかった一万回の「あ、はい」で、おれが自分に割り振ってきた役だった。配役に文句を言う前に、まず脚本を書き換えなければならない。


   三


 終電一本前の電車は空いていた。拓真はドア横に立ち、暗い窓に映る自分の顔を眺めた。


 三十四歳。人生の資産、四分の一。趣味、帰宅。


 電車の揺れに合わせて、熊沢さんの言葉が反芻される。他人の設計図で建てた家。卵とカゴ。時間の計画。金と時間を撒いて、育てる。


 ──金を使え、か。


 だが、と拓真は思う。現実問題、使える金がない。手取りから持株会と家賃を引いた、月一万八千円。趣味を育てる肥料としては、あまりに痩せた土壌である。


 持株会の拠出を減らせば、すぐに月々の現金は増える。それは分かる。分かるのだが──長年の染みついた感覚が邪魔をする。天引きをやめたら、自分は貯められない人間なんじゃないか。熊沢さんに「増やしとく?」と聞かれて「あ、はい」と積み上げてきた十二年を、否定するようで怖い。人は、損することよりも、これまでの自分を変えることのほうを恐れる生き物なのだ。


 それに、と拓真は思った。仮に金と時間ができたとして、おれは何をしたいんだ?


 好きなことが、わからない。


 これが一番の問題だった。金がないから趣味がないのか、趣味がないから金を使わないのか。鶏と卵。いや、卵は全部会社のカゴの中か。


 スマートフォンを取り出し、なんとなく検索窓に打ち込んだ。


「趣味 見つけ方 30代」


 検索結果は八百万件。上から順に開いていく。「おすすめ趣味50選!」──キャンプ、筋トレ、サウナ、ゴルフ、カメラ。どれもピンとこない。というより、どれも「お金がかかりそう」という感想が先に立つ。キャンプ道具一式十万円。カメラ二十万円。ゴルフに至っては考えたくもない。


 月一万八千円の男に、五十の趣味は遠かった。


 指を滑らせていると、ふと、一つの記事が目に留まった。


『「趣味がない」は「余白がない」。人生を変えたいなら、趣味より先に“月3万円の余白”を作れ』


 釣り記事っぽいタイトルだと思いつつ、開いた。内容は意外にまともだった。曰く──趣味が続かない最大の理由は意志ではなく家計である。可処分所得に余白のない人間は、無意識に「お金のかかる楽しみ」を選択肢から消す。脳が勝手に検閲する。だから何を見てもピンとこない。ピンとこないのは感性の問題ではなく、財布の問題である。まず余白を作れ。方法は二つ。支出を削るか、収入を増やすか──。


 収入を、増やす。


 拓真はその四文字を、しばらく見つめた。


 昇給は年三千円の世界だ。転職は考えたこともないし、考えたくもない。残るは。


「……副業?」


 声に出してみると、ずいぶん現実味のない響きだった。副業。それは意識の高い人たちの世界の言葉であり、SNSでキラキラした人たちが「月収七桁達成しました」と踊っている、あの胡散臭い世界の話ではないのか。スキルもない、時間もない、γ-GTP八十九の三十四歳に、何ができるというのか。


 電車が最寄り駅に着いた。改札を出て、いつもの道を歩く。駅から家まで。趣味と偽った、ただの帰宅路。


 ふと、拓真は足を止めた。


 いつもは素通りする小さな公園。その入り口の街灯の下で、立ち止まって夜空を見上げてみた。特に意味はない。ただ、いつもと違うことを一つしてみたかった。


 星は、二つしか見えなかった。都会の空はそんなものだ。だが拓真は、自分がこの町に住んで八年、夜空を見上げたのが初めてだということに気づいて、少し笑った。


 八年間、下ばかり見て歩いてきた。


「……やってみるか、副業」


 誰に頼まれたわけでもない言葉が、口から出た。


 思えばこれが、白石拓真が十数年ぶりに発した、「あ、はい」ではない意思表示だった。聞いていたのは、街灯と、二つの星だけだったが。


 部屋に戻ると、拓真は洗面所の鏡の前に立った。普段、鏡は髭剃りの道具であって、自分を見る道具ではない。まじまじと見ると、そこには、疲れの色が肌に定着し始めた三十四歳がいた。悪くない顔だと思ったことはないが、ひどい顔だと思ったこともなかった。ただ今夜は、一つだけ気づいたことがある。この顔は、何かを我慢している顔ではない。我慢なら、いつか限界が来る。この顔は、何も期待していない顔だった。期待には、限界が来ない。来ないまま、静かに三十年でも続いてしまう。拓真は洗面台の縁に手をつき、鏡の男に向かって、小さく言った。「……副業、やるからな」。鏡の男は、まんざらでもない顔をした。ように、見えた。


 もっとも、このときの拓真はまだ知らない。


 副業の世界の入り口には、善意の顔をした案内人と、悪意の顔をしていない詐欺師が、ほぼ同数で立っているということを。そして自分が翌週、そのうちの一人に、見事に捕まりかけるということを。


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