第18章 二月の通過儀礼・確定申告
一
世の副業初心者が二月に直面する最大の敵は、確定申告だと言われている。靴箱いっぱいのレシート、記憶にない入金、締切前夜の絶叫。コミュニティの掲示板も、二月に入ると阿鼻叫喚の様相を呈した。
その阿鼻叫喚を横目に、白石拓真は、静かに紅茶を飲んでいた。
帳簿が、あるからである。それも、開業初月からの。売上台帳、経費台帳、案件別の収支、すべてExcelで月次締め済み。もとはといえば提案文の勝率管理から始まった記録癖が、いつのまにか完全な帳簿に育っていた。世をあげての阿鼻叫喚の中、帳簿の男は無風だった。強いて言えば、集計の瞬間が楽しみですらあった。総務と経理の間で十二年生きてきた男にとって、確定申告とは、要するに大きめの月次決算である。
とはいえ、初めて知ることも多かった。拓真がノートにまとめた要点は、こうだ。
一、税金は「収入」ではなく「所得」にかかる。所得とは、収入から経費を引いた儲けの部分。年間の副業収入約三十四万円から経費を引いた残りが、拓真の課税対象になる。
二、経費とは、その収入を得るために使った費用のこと。書籍代、コミュニティの月額千円、案件用に買ったヘッドセット。自宅の通信費や電気代は、仕事に使った割合だけ按分して入れられる。そして──ここで拓真はにやりとした──打ち合わせを兼ねてふみこさんの添削会前に資料を読み込んだ、珈琲木馬のブレンド六百五十円。あの一杯も、要件を満たせば経費である。人生初の自分への一杯が、めぐりめぐって帳簿に載る。六百五十円が、こんなに誇らしい勘定科目になるとは。
三、有名な「二十万円ルール」には、罠がある。給与所得者は、副業の所得が年二十万円以下なら所得税の確定申告が不要──ここまでは正しい。だが、それは所得税の話であって、住民税の申告は別途必要になる。「二十万以下なら何もしなくていい」と信じている人が、コミュニティにも毎年一定数いた。拓真の所得は二十万円を超えているので、いずれにせよ堂々の確定申告である。
四、会社に「副業がバレる」経路として有名なのが住民税(副業分の所得で住民税が増え、会社の給与天引き額に反映されて経理が気づく)だが、拓真の場合、この心配は要らなかった。第三十六条を正面突破し、社内承認第一号を取ってあるからだ。隠す必要のない人生は、申告書の書き方まで簡単にする。
二
二月の最後の日曜、拓真は佐々木さんに頼まれて、確定申告の相談に乗っていた。場所は例の大衆酒場。帳面の相談を酒場でするな、とは思ったが、佐々木さんの機密書類(FXの年間損益報告書)は、酒の力なしには直視できない種類のものだった。
「白石ちゃん、おれ、去年は途中でやめたから、損は出たけど、申告なんかせんでええよな? 儲かってへんのやから」
「佐々木さん、それ、逆です」
「逆?」
「FXの利益って、給料とは別枠で、税率一律の約二十パーセントで課税される仕組みなんですけど、損が出た年に申告しておくと、その損失を翌年から三年間、繰り越せるんです。来年もし利益が出たら、去年の損とぶつけて、税金を減らせる」
「…………ちょい待て。ほな、おれが過去に溶かした百八十万は」
「申告していれば、繰越控除の対象にできた可能性があります。していなければ──」
「しとらんわ! 一回も! 損した年に税務署行くやつがどこにおんねん!」
「ここに、行くべきだった人が」
佐々木さんは、ホッピーのジョッキを抱えて、しばらく天井を見ていた。「……なあ白石ちゃん。損してもな、記録して、申告して、直視したやつだけが、損を将来の割引券に変えられるっちゅうことか。おれは損から目ぇそらしとったから、損は、ただの損のまま終わったんやな」
「その言い方、名言っぽいですね」
「メモらんでええ。今日のは、高うついた本物や」
なお、すでに口座を閉じた佐々木さんに繰り越すべき未来の利益はないため、この知識は完全に手遅れである。手遅れの知識ほど、深く刺さるものはない。
三
提出の前週、拓真は一度だけ、税務署の無料相談会に足を運んでいる。二月の税務署というのは、独特の場所だった。番号札を握った人々が長椅子に並び、自営業らしき人がレシートの詰まった紙袋を抱え、隣では年金暮らしらしき老夫婦が医療費の束を几帳面に輪ゴムで留めている。皆、一年分の人生を紙にして持ってきているのだ。
拓真の番号が呼ばれ、相談員の初老の男性に帳簿のExcelを見せると、相談員は老眼鏡を上げ下げして、しみじみと言った。「……あなた、これ、初めての申告? 月次で締めてある。科目も割れてる。按分の根拠メモまである。……うちに来る必要、ありました?」「確認したくて」「満点です。帰ってよし」。人生で「満点」と言われたのは、たぶん小学校の漢字テスト以来だった。税務署で満点を取っても内申点には入らないが、拓真の中の何かの点数には、確かに入った。
三月上旬、拓真は申告書を提出した。画面上の手続きは、途中でマイナンバーカードの読み取りに三回失敗し、スマホを頭上にかざして祈りを捧げる儀式(通信のためである)を要したものの、無事に完了した。
完了までの夜の記録も、供養のために残しておく。二十一時十分、作成開始。二十一時四十分、順調。数字を打ち込むたび、自動で税額が再計算されるのが小気味よい。二十二時五分、第一の壁。「カードを読み取れません」。スマホの位置を、カードの上、五ミリ浮かせ、角度十五度──という記事の通りにやっても読めない。二十二時十八分、スマホケースを外したら一発で読めた。犯人はケースだった。二十二時四十分、第二の壁。源泉徴収票のどの欄の数字をどこに写すのか問題。画面の記入例と手元の様式の名称が微妙に違う、あの伝統芸。二十三時二分、送信完了。受付番号が表示された画面を、拓真は記念に保存した。人類が月に行けてカードが読めない夜もある。それでも、二時間弱で国への申告が家から終わる時代に、文句を言うほど拓真は若くなかった。総務の人間は知っている。紙と判子と郵送の時代の、あの果てしなさを。副業所得に対する納税額、数万円。
振込手続きを終えた夜、月例電話で熊沢さんに報告すると、電話の向こうで、うまそうに茶をすする音がした。
「初納税か。おめでとう」
「おめでとう、なんですか? 払ったんですけど」
「当たり前だ。いいか白石、税金ってのはな、儲けにしかかからん。納税額ってのは、お前がこの一年で世の中に生み出した価値の、領収書の控えだ。ゼロ円の年より、数万円の年のほうが、いい年に決まってる。……それにな、自分で計算して自分で納めてみると、給料から天引きされてた税金の見え方も変わったろう」
変わった。源泉徴収という仕組みの中にいる間、税金は「気づいたら減っている何か」だった。自分で申告してみて初めて、税は「参加している何か」になった。道路と、図書館と、あの税務署の相談窓口のおじさんの人件費に、拓真の三十四万円の一部が流れていく。文句を言う権利と、使い道に関心を持つ動機は、たぶん、この手触りから生まれるのだ。
ノートの隅に、拓真は来期の宿題を書きつけた。『開業届と青色申告を検討。帳簿は既にある。六十五万円の控除は、たぶん、おれのためにある制度』。帳簿の男の目が、少し、輝いていた。
青色申告の宿題について、ふみこさんに話すと、経理十八年の即答が返ってきた。『やりなさい。白石さんの帳簿なら、移行コストはほぼゼロ。六十五万円の控除は、真面目に帳簿をつける人への、国からのご褒美です。世の中、真面目が報われる制度は貴重なんだから、あるうちに受け取っておくの』。真面目が報われる制度は貴重。十八年分の重みと、少しの毒がある言い方だった。




