↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/19

第19章 春・一年目の決算

   一


 三月最後の金曜、拓真は一通の招待を受けて、静岡行きの在来線に乗っていた。丸山運送・時田さんの送別会である。


 在来線の窓の外を、三月の茶畑が流れていく。刈り揃えられた茶の畝が、丘の起伏に沿って等高線みたいに走り、ところどころに防霜ファンの柱が立っている。東海道線の各駅停車、四人掛けのボックス席。向かいには部活帰りらしい高校生が二人、単語帳を開いたまま眠っている。拓真は駅弁を膝に載せ、この移動が「出張」でも「帰省」でもなく、招かれて行く旅であることを、車窓に向かって静かに味わっていた。七年ぶりの、電車に乗って遠くへ行く用事。人生の行動範囲というのは、財布ではなく、呼ばれる場所の数で決まるのかもしれなかった。


「白石さんも、ぜひ来てほしいんですわ。時田がね、白石さんにおるうちに礼を言いたい言うもんで」と、丸山社長は電話で言った。取引先の、それも会ったのは画面越しが数回の人間を、社員の送別会に呼ぶ会社がどこにある。あるのだった。従業員二十名の、そういう会社が。


 会場は、営業所の車庫だった。四トントラックを外に出し、空いた床にブルーシートと長机を並べ、仕出しの寿司桶と、ドライバーたちの奥さんが作った唐揚げの山。宴の中央で、時田さんは花束を抱えて笑っていた。


 宴が温まってくると、ドライバーたちの余興が始まった。最年長の運転手・権田さん(六十二歳)による「時田さんに怒られた回数当てクイズ」である。「おれが日報を白紙で出して怒られた回数、さて何回でしょう!」「五十回!」「甘い! 百十二回! 時田さんが正の字で数えとった!」。時田さんが「百十三回よ。先月ので」と訂正を入れ、車庫が笑いで揺れた。


 丸山社長の挨拶は、短かった。「時田さんはうちの金庫番で、母ちゃんで、憲法でした。憲法が引退するんで、うちはこのたび、成文法になりました」と、拓真の作ったマニュアルの束を掲げてみせた。それから社長は、少しだけ声を落とした。「白石さんな。あんた、最初のヒアリングでワシに聞いたやろ。『時田さんが一週間休んだら、何が止まりますか』て。……ワシはあの晩、眠れんかった。二十五年、時田さんを便利に使うことと、大事にすることを、取り違えとったんやないかと思うてな。マニュアルはな、時田さんの代わりやない。時田さんに、ようやく持たせてやれる、引退の花道や」


 拍手の中で、時田さんが権田さんに「泣くの早い」と言い、権田さんが「泣いとらん、車庫が埃っぽいんや」と言った。四トントラックの定位置に、その夜だけ、宴と、二十五年ぶんの言葉が停まっていた。


「白石さん、来てくれたの」


「マニュアルの、その後の様子も気になっていたので」


「嘘おっしゃい」時田さんは笑って、それから、少しだけ声を落とした。「……新しい子ね、あのマニュアル見ながら、もう請求書、一人で出せるようになったのよ。私、先週、二十五年ぶりに、有休を二日続けて取ったの。温泉に行ったのよ。仕事のことを、一度も思い出さなかった。……ねえ白石さん、あなたの仕事はね、紙を作る仕事じゃないわよ。人を、自由にする仕事よ」


 帰りの電車で、拓真は窓の外の茶畑を眺めながら、その言葉を何度も転がした。人を自由にする仕事。一年前、頼まれごとの集積地で観葉植物をやっていた男には、望むことすら思いつかなかった種類の、仕事の名前だった。


   二


 四月の最初の昼休み、社員食堂で、宮下が興奮気味にスマホを差し出してきた。


「白石さん、見てください。初報酬です。一万二千円!」


 画面には、地域の商店会イベントの運営サポート業務、報酬振込のお知らせ。宮下は冬の間に「イベント運営代行」の世界を調べ、歓迎会の幹事で磨いた段取り力を武器に、週末の小さな案件から始めていた。


「三十件応募して、二件しか通らなかったんですけど」


「おれは十七件応募して一件だった。勝率はお前の勝ちだ」


「まじですか! おれ、白石さんに勝ってる!」


 はしゃぐ宮下に、拓真は言おうか言うまいか迷って、結局、言うことにした。熊沢さんから預かっている言葉だからだ。


「宮下。一個だけ。おれの半年が、そこそこうまくいったのはな、実力が半分、運が半分だ。始めた時期が良かった。ふみこさんに会えた。総務の十二年っていう、たまたま売り物になる在庫があった。……だからおれのやり方を、そのまま真理だと思うな。お前はお前の在庫で、お前のサイコロの目を見ながらやれ。詰まったら、いつでも棚卸しは手伝う」


「……なんか白石さん、たまに、いいこと言う先輩の顔しますよね」


「受け売りだ。うちの、いいこと言う先輩の」


   三


 その週末、拓真は熊沢さんの家に招かれた。「打つから、食いに来い」。約束の蕎麦である。


 熊沢家の台所で、熊沢さんは腕まくりをして蕎麦粉と水を合わせていた。水回し、菊練り、のし、そして包丁。ざっ、ざっ、と一定のリズムで蕎麦が刻まれていく。一年前、送別会の夜に「これから仕込む」と言っていた手つきは、もう素人のものではなかった。


「奥さん、いつもこれを?」


「週二回はね」と、恵子さんが茶を出しながら笑った。「最初のころは、うどんだか、きしめんだか、わからない太さでねえ。壁に貼ってある表、見ました? あの人、蕎麦の上達も、あの表に書き込むんですよ」


 居間の壁に、あのライフプラン表が貼ってあった。手書きの、汚い字の、しかし今や第七版。「恵子と九州(済)」に花丸がつき、「蕎麦・十割に挑戦」の欄には赤字で「失敗×3」と正直に書いてある。金と健康と時間と人間関係の四列の上を、夫婦の字が二種類、混ざりながら走っていた。


 茹でたての蕎麦は、うまかった。二八の、角の立った、少し不揃いの蕎麦。拓真がだしの引き方の話を始めると、熊沢さんが蕎麦つゆの返しの話で応じ、恵子さんが「二人とも、食べてから喋りなさい」と笑った。


 帰り際、玄関で熊沢さんが言った。


「白石。一年前、送別会の夜に宿題を二つ出したの、覚えてるか」


「持株会の見直しと、自分の好きに金を使うこと。……両方、やりました」


「ああ、聞かなくてもわかる。顔がもう、去年の顔じゃない」熊沢さんは、それから、いたずらっぽく付け足した。「で、三つ目の宿題だ。今度はお前が、誰かに宿題を出す番だ。もう出してるみたいだがな」


 玄関先まで見送りに出た恵子さんが、熊沢さんが靴を探しに引っ込んだ隙に、小さな声で言った。「白石さん。あの人ね、あなたからの月イチの電話、三日前から楽しみにしてるんですよ。『白石はな、おれの最後の後輩なんだ』って。……会社を辞めるとね、男の人は、後輩を失うの。教える相手がいるっていうのは、あの人の、いまの張り合いのひとつ。だから、遠慮なく、これからも頼ってあげてくださいね」。頼ってあげて、という日本語の優しい倒錯を、拓真は玄関先で受け取った。教わることが、贈り物になる関係というものが、世の中にはある。四つ目の通帳の利息は、どうやら、こういう形で振り込まれるらしかった。


   四


 帰り道、拓真は一年前の、あの公園の前で足を止めた。桜が、街灯の光の中で満開だった。八年間、この公園に桜の木があることすら、知らなかった。


 一年目の決算を、頭の中でめくる。


 副業の月商は十万円を超え、時間単価は初案件の二十五倍になった。だが稼働時間はこれ以上増やさないと決めた。金は人生の目的ではなく、人生の選択肢の別名だと、もう知っているからだ。持株会は資産の一割まで下がり、投資信託と生活防衛資金が残りを支えている。γ-GTPは三十八。体脂肪率二十パーセント。就業規則第三十六条は、今期中に改定される。確定申告は済み、青色の帳簿が待っている。


 そして、ノートの目標のページ。半年余り前、『趣味(仮):料理』と、照れの(仮)つきで書いたあの欄は、今はこうなっている。


『趣味:料理(茶碗蒸し、すが入らなくなった)、文章を書くこと、散歩(本物)』


 (仮)は、もう、ついていない。


 それから拓真は、電話を一本かけた。母である。


「もしもし? どうしたの、何かあった?」


 開口一番がこれである。息子からの発信は、母の中で緊急事態と同義になっていた。八年分の無沙汰とは、そういうことだ。


「いや、何もない。……桜が咲いてたから」


「桜? ……あんた、熱は?」


「ないよ。あのさ、今度の連休、そっち帰るよ。だしの取り方で聞きたいことがあって。ばあちゃんの、あの、煮干しのやつ」


 電話の向こうで、母が数秒、黙った。それから、少し湿った声で「昆布はうちの使いなさい、いいのがあるから」と言い、そこから先は母のターンだった。近所の桜の話、父の血圧の話、六枚切りのパンが値上がりした話。拓真は桜の下で、相槌を打ちながら、それを全部聞いた。通話時間、二十一分。八年間の着信履歴の中で、最長だった。


 スマートフォンが震えた。ふみこさんのコミュニティの通知。拓真が続けている連載『スキル棚卸しノート』に、また新しいコメントがついていた。


『記事を読んで、十五年やってきた経理の仕事を棚卸ししてみました。私にも、売り物がありました。来月、最初の一歩を踏み出します』


 拓真は桜の下で返信を打ち、それから、夜空を見上げた。星は──四つ、見えた。また一つ、増えていた。


 人生は、スヌーズを止めたところから始まる。そして止めた朝の数だけ、見える星は増えていく。


 明日の朝は、五時半に、一回で起きる。だしを引いて、卵を三つ割って、すの入らない茶碗蒸しの、その先の一皿を試すのだ。誰に頼まれたわけでもなく。


 それを世間では、人生と呼ぶ。


 (第二部 完)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。