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第16章 七か月目・値札の付け替え

   一


 十二月。世間が年の瀬と福袋の予約に沸くころ、白石拓真の副業は、静かな満席問題に直面していた。


 案件の依頼は、途切れなくなった。丸山運送からの紹介で同業の運送会社が二社、コミュニティ経由でマニュアル案件が随時、ライティングの継続が二本。ありがたい悲鳴、というやつである。ただし悲鳴は悲鳴だ。朝の一時間と平日夜の一時間半、週末の半日という拓真の営業時間は、二か月先まで予約で埋まり、月の売上は八万五千円前後で、美しい水平線を描いていた。


 これ以上時間は増やせない。増やせば、料理と散歩と睡眠の席を潰すことになる。それだけは、しないと決めている。


「白石さん、答えはもう出てますよ」と、定例になった月イチ通話で、ふみこさんは言った。「時間を増やせないなら、時間の値段を上げる。単価です」


「単価アップは、考えてはいるんです。新規のお客さんには、少し高めの見積もりを出し始めていて」


「新規だけ?」


「はい。既存のお客さんは、その、今の値段でお受けしてきた手前……」


 画面の向こうで、ふみこさんは、経理十八年の顔になった。


「白石さん。値上げをね、新規から始める人は多いんです。既存客に言い出しにくいから。でも順番が逆。まず既存です。理由は三つ。一つ、既存のお客さんは白石さんの仕事の中身をもう知っているから、値段ではなく仕事で判断してくれる。新規は中身を知らないから、値段でしか判断できない。二つ、既存の単価を据え置いたまま新規だけ上げると、社内に二重価格ができて、いつか必ず自分の首を絞める。三つ──これが一番大事。今の白石さんの値段は、実績ゼロの半年前の白石さんの値段なんです。商品が別物になったのに、値札だけ古い。それは謙虚じゃなくて、ただの表示ミスですよ」


 表示ミス。総務の人間に、これほど効く言葉もなかった。


   二


 とはいえ、値段をどう決めるのか。拓真は例によって本を三冊借り、値決めには大きく二つの流儀があることを知った。


 一つは、コスト積み上げ式。かかる時間に時給を掛けて出す方式。わかりやすいが、腕が上がって作業が速くなるほど請求額が下がるという、職人殺しの逆説を抱えている。


 もう一つは、価値基準。相手が得る価値から逆算する方式。たとえば拓真が四時間で作る慶弔見舞金規程は、社労士事務所に頼めば十万円前後かかる。丸山運送がそれを二万円で手に入れたなら、拓真の四時間の価値は、拓真の時給ではなく「浮いた八万円と、社長が余計な心配をしなくてよくなった夜」で測られるべきなのだ。


 拓真はノートに書いた。『値段は、おれの汗の量ではなく、相手の困りごとの深さにつける』。


 この「困りごとの深さ」について、ふみこさんが付け加えた話が、忘れがたい。


『白石さん、水道の蛇口が壊れて、水が噴き出してる家を想像してください。そこに来た水道屋さんが、十五分で直して八千円請求したら、高いですか?』


「いえ、安いと思います。放っておいたら床が水浸しなので」


『そう。でも請求書に「作業時間十五分」って書いてあったら、時給三万二千円!? って思う人がいる。その人が買ったのは十五分の労働じゃなくて、「水浸しにならなかった我が家」なのにね。プロの値段っていうのは、作業時間じゃなくて、①それを十五分で直せるようになるまでの修業年数と、②直らなかった場合の被害額に対してつくんです。白石さんのマニュアルも同じ。十時間の作業に見えて、実際に売ってるのは、総務十二年と、時田さんが辞めた後も回る会社。堂々と、値札を付け替えなさい』


 そして、値上げの通知文の作成に取りかかった。ゼンリョク・クリエイト事変の交渉文は十四回書き直したが、今回は九回で済んだ。成長である。文面の骨子はこうだ。四月請け分から、マニュアル作成の基本料金を三万五千円から五万円に改定すること。理由は品質維持と、ヒアリング工程の拡充。既存のお客様には移行期間として三月まで現行価格を適用すること。そして最後に、これまでの感謝。


 送信ボタンの前で、心拍数は、上がらなかった。上がらないことに、拓真は自分で驚いた。値上げは相手への攻撃ではない。自分の仕事の現在地の、正確な表示。そう腹に落ちてからは、通知文はただの事務連絡だった。


 通知を送ってからの三日間について、正直に書いておく。


 拓真は、待った。メールの返信を待つ三日間というのは、書いた文面を脳内で百回再生する三日間である。「品質維持」は言い訳がましくなかったか。五万円は強気すぎたか。一晩目、拓真は夢の中で三社全部に断られ、夢の中の矢口氏に「家族だと思ってたのに」と言われて目が覚めた。あの男、夢にまで営業に来る。二晩目には開き直りが訪れた。考えてみれば、断られて失うのは「安すぎる仕事」であり、通れば得るのは「適正な仕事」である。この賭けは、負けの目が最初から小さい。値上げが怖いのは、金の問題ではなく、自分の値打ちに他人の判定が下る、その一点なのだった。


 結果は、三社に通知して、一社が離脱、二社が「妥当だと思います」と即答だった。離脱した一社は、もともと修正依頼が多く、支払いの遅い会社だった。ふみこさんの予言どおりだった。安さで来た客は、安さと一緒に去る。仕事ぶりで来た客は、値札が変わっても、仕事ぶりのほうを見ている。


 ついでに後日談を一つ。値上げを機に離れていった一社から、三か月後、連絡が来た。『その後、別の方に依頼したのですが、どうも勝手が違いまして。白石さんの新価格で、改めてお願いできますか』。拓真は受けた。ただし今度は、修正二回まで・検収五営業日以内の条件を、最初の見積書に明記して。出戻りの客というのは、実は最良の客になる。よそと比べた上で戻ってきた人は、もう値段の話をしないからだ。安さで繋がった縁は安さで切れるが、比較で戻った縁は、なかなか切れない。


 単価が上がって、拓真は一つの逆説に気づいた。高い仕事ほど、手を抜けなくなるのである。三万五千円の頃より、五万円の今のほうが、ヒアリングは深くなり、見直しは増えた。値札は、客への表示であると同時に、自分への号令でもあった。安い値段は「このくらいでいいか」を呼び、適正な値段は「この値段の仕事をする」を呼ぶ。安売りの本当の損は、儲けの減少ではなく、仕事の質に言い訳が生まれることだった。値上げとは、逃げ道の値上げでもある。


 翌月、売上は一時的に七万円台へ沈み、その翌月、紹介の新規一件を加えて十万一千円になった。稼働時間は、変わっていない。初案件の時給二百円から数えて、拓真の一時間の値札は、七か月で二十五倍になった計算だった。


「値上げぇ!? 白石ちゃん、攻めるやん」と、報告を聞いた佐々木さんは唐揚げを掲げた。「ええか、おれの唐揚げ理論を教えたる。この唐揚げ、一個百五十円や。もしこれが一個八十円やったら、おれは逆に頼まん。『この店、鶏に何があった?』て思うからな。安すぎる値段は、それ自体が悪い噂なんや」


 佐々木さんの理論は、たまに、本の三冊分くらい正しい。


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