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第15章 再起動

   一


 それから、季節がひとつ進んだ。


 白石拓真、三十五歳の朝は、こう始まる。アラームが鳴る。一回で起きる。スヌーズの三回ルールは、十三年目にして廃止された。飯田、長い間ありがとう。おれはもう、お前の置き土産なしで起きられる。


 カーテンを開け、白湯を飲み、六時から一時間、書く。今書いているのは案件ではない。『スキルゼロだと思っていた総務マンの、スキル棚卸しノート』と題した、無料の連載記事である。頼まれていない文章は、頼まれた文章の三倍難しく、五倍楽しかった。


 書き始めの三十分は、たいてい、ろくなものが書けない。頼まれ仕事なら要件が道を作ってくれるが、頼まれていない文章には、地図がない。何を書いてもいい、は、何を書けばいいかわからない、と同じ顔をしている。それでも六時十五分を過ぎたあたりで、たいてい一行、指が勝手に書く一行が出てくる。今朝のそれは、『スキルの棚卸しは、押し入れの掃除に似ている。捨てるためではなく、持っていたことを思い出すためにやる』だった。書いた瞬間、ああ、今日はこの一行に会うために起きたのだ、と思う。誰にも頼まれていない朝の、これが給料だった。読者は少しずつ増え、先日、見知らぬ誰かからコメントが付いた。『自分にも売れるものがある気がしてきました。持株会、減額してきます』。拓真はその一行を、三回読んだ。


 机の壁には、一枚の紙が貼ってある。縦軸に年齢、横軸に「金・健康・時間・人間関係」。拓真版ライフプラン表、改訂第四版。熊沢さんのものより字はきれいだが、書き込みの熱量ではまだ負けている。


 三十六歳、圧力鍋を買う(もう悩まない)。三十七歳、副業の貯金で調理器具一新と、初の海外旅行(台湾。屋台の食い歩き)。四十歳、副業月十五万、労働時間は今のまま。四十五歳、金融資産二千万(全世界株式中心、自社株は全体の一割まで)。五十歳、週四日勤務を会社と交渉──書き込みは八十歳まで続き、余白もたっぷり残してある。計画とは予言ではなく、余白の設計図なのだと、今の拓真は知っている。


 この表を書いた夜のことも、記しておく。日曜の晩、拓真はA3のコピー用紙(会社の廃棄予定の裏紙ではない、自分で買った新品である)を机に広げ、定規で四本の線を引いた。金、健康、時間、人間関係。書き始めてすぐ、熊沢さんの言った「一人で立てると必ずどこかが欠ける」の意味を体感した。金と健康の列はすらすら埋まる。時間の列も書ける。だが人間関係の列で、ペンが止まるのだ。五年後、十年後、おれは誰と、何をしていたいのか。埋まらない列は、弱い列である。拓真は空欄を空欄のまま残し、欄外にこう書いた。『この列は、埋める列ではなく、育てる列』。計画表に空欄を許せるようになったことが、たぶん、この一年で一番の進歩だった。埋まった計画は他人にも書ける。空欄の意味は、本人にしか書けない。


 持株会は続けている。月三万円。奨励金の一割はやはりうまいし、何より、自分の会社を信じる気持ちまで売り払う必要はない。ただし、資産に占める自社株の比率は決めてある。カゴは複数。卵は分散。信じることと、賭けることは、別の行為である。


   二


 会社での拓真は、相変わらず総務部にいる。頼まれごとも、相変わらず来る。違うのは、選ぶようになったことだ。引き受けるときは全力で、断るときは代替案とセットで。「白石は断らないから好き」と言う者は、もういない。代わりに「白石さんの作る資料、外注品みたいっすね」と言われる。外注品である。市場価格三万五千円だ。もちろん、社内では言わない。


 ちなみに佐々木さんは、あの後、市場から強制的に卒業させられた。急な円高の夜、最後のポジションがロスカットという名の強制終了を食らったのである。「授業料、締めて二百十万。もう払い終わった。これ以上の補講はいらん」と、佐々木さんは口座を閉じ、今は給料天引きの積立投資だけをやっている。「刺激が足りん。値動きを見んでいい投資は投資やない」とぼやきながら、毎月きちんと増えていく残高画面を、たまにニヤニヤ眺めているのを、拓真は知っている。ついでに奥さんに粉飾決算を自首したところ、三日間口をきいてもらえなかったが、四日目に「積立は続けなさい」とだけ言われたらしい。名君である。


 昼休み、社員食堂。後輩の宮下が、思い詰めた顔で拓真の向かいに座った。


「白石さん、ちょっと相談が……ぼくも、副業とか、始めてみたくて。でも、何のスキルもないんです」


 拓真は箸を置いた。六か月前の自分が、目の前に座っていた。


「宮下、お前、毎年の新入社員歓迎会の幹事、完璧にやってるよな。会場選び、アレルギー確認、余興の仕切り」


「え? あれはただの雑用……」


「イベント運営代行って検索してみ。あと、お前がインスタに上げてる社食レビュー、写真うまいよな。あれ、続けて何枚ある?」


「三百枚くらいですけど……え、待ってください、あれがなんか関係あるんですか?」


「スキルってのはな」と拓真は言った。言いながら、これは熊沢さんの受け売りで、熊沢さんもたぶん誰かの受け売りで、こうやって回っていくものなのだろうと思った。「持ってないんじゃなくて、目録を作ってないだけなんだ。今度の土曜、棚卸し、手伝ってやるよ」


「え、いいんですか! ……あ、でも白石さん、土曜って料理教室じゃ」


「午前は空いてる。午後から、教室」


 土曜の午前、珈琲木馬のカウンターに、拓真と宮下は並んで座った。宮下は店の渋さに緊張し、メニューを三分眺めて「ぼ、ぼくもブレンドで」と言った。マスターは何も言わずに二人分のサイフォンに火を入れた。


 棚卸しは、拓真の質問リストで進めた。「入社からやった仕事を、小さいのも全部、口に出して」「その中で、人に礼を言われたことは」「頼まれてないのに、勝手に工夫したことは」。宮下は最初「何もないっすよ」を三回言ったが、三十分後、ノートには意外な在庫が並んでいた。歓迎会幹事四回(店選びの失敗ゼロ)、社食インスタ三百二十枚(構図の研究ノートあり)、部内の備品置き場を勝手にラベリングして探し物を撲滅した件、新人時代に作った「先輩に怒られないメールの書き方」私家版メモ──。


「宮下、最後のやつ、なんだそれ」


「え、いや、おれ、怒られるたびに原因をメモってて。件名の付け方とか、宛先の順番とか。後輩に配ったら、地味に感謝されて」


「それは『ビジネスメール研修資料』という売り物の原石だ」


「……マジすか」


 マジである。人の在庫は、本人の目には「怒られた記録」に見え、他人の目には「教材」に見える。棚卸しに他人が要るのは、このためだった。会計はもちろん、先輩の拓真が持った。ブレンド二杯、千三百円。人生で初めて後輩に奢った珈琲は、経費にはならないが、悪くない使途だった。


 そう、料理教室に通い始めたのである。月謝は副業の稼ぎから。先週は茶碗蒸しを習った。すが入った。悔しい。今週リベンジする。


 料理教室は、駅ビルの四階にあった。生徒は一クラス八人。拓真の班は、六十代の姉妹(毎回の試食が本番)、新婚の若い男性(妻を驚かせたいらしい)、そして拓真である。講師の柴田先生は元割烹の板前で、七十過ぎ、包丁を持つと手だけ四十代になる人だった。


 茶碗蒸しの回、拓真の蒸し上がりに、先生は一瞥をくれて言った。


「ん。すが入ったな。火ぃが強い。……兄さん、蒸し器の中、覗いたやろ」


「え、はい。三回ほど」


「せっかちやなあ。茶碗蒸しはな、疑たら負けや。卵とだしの割合さえ合うてたら、あとは火と時間が仕事してくれる。人間の仕事は、配合と、待つことだけ。覗くたびに温度が乱れて、卵が怒る」


 配合と、待つこと。どこかで聞いた話だと思った。積立投資と同じである。銘柄の配合を決めたら、あとは市場と時間に仕事をさせる。毎日口座を覗いて狼狽する者から、すが入っていく。拓真が思わず「積立投資と同じですね」と言うと、柴田先生は「兄さん、蒸し器の前で何の話をしとんのや」と真顔で言い、六十代の姉妹が声を揃えて笑った。教室の帰り道は、いつも少し、足が軽かった。月謝六千円。人生で最も利回りのいい六千円の一つだった。悔しさが楽しい趣味というものを、拓真は三十五年目にして手に入れた。


   三


 その週末の夜、拓真は例の公園の前で足を止めた。六か月と少し前、「やってみるか、副業」とつぶやいた、あの街灯の下である。


 見上げると、星は二つ──ではなく、三つ見えた。一つ増えている。目が慣れたのか、空気が澄む季節になったのか。たぶん、両方だろう。見えるものは、見ようとする者にだけ、少しずつ増えていく。


 月八万円は、拓真の人生を劇的には変えなかった。タワーマンションにも住んでいないし、会社も辞めていないし、白いジャケットも着ていない。


 変わったのは、もっと細かくて、もっと大きいものだった。朝、一回で起きられること。夜、だしの匂いのする部屋に帰ること。断れること。頼れる人と、頼ってくれる人がいること。健康診断が怖くないこと。財布の中の千円が「自分で稼ぎ、自分で使い道を決める千円」であること。そして、「趣味はなんですか」と聞かれたときに──。


 ポケットでスマートフォンが震えた。ふみこさん率いるコミュニティの新人歓迎スレッドに、新規参加者の自己紹介が投稿されていた。


『はじめまして。三十三歳の会社員です。趣味を聞かれて答えられなかったのがショックで、登録しました。何のスキルもないのですが、こんな自分でも変われますか?』


 拓真は街灯の下で立ち止まったまま、返信を打ち始めた。最初の一行は、迷わなかった。


『はじめまして。半年前のぼくは、趣味を聞かれて「散歩です」と答え、歩く範囲は駅から家まででした』


 打ちながら、拓真は少し笑った。


 人生は、スヌーズを止めたところから始まる。何歳からでも、何回目の朝からでも。


 そして今夜の帰り道は、駅から家までの、ただの帰宅路ではない。明日の茶碗蒸しの、卵とだしの比率を考えながら歩く、上等な散歩である。


 (第一部 完)


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