第14章 六か月目・月八万円
一
白状すると、月末の三日前、目標達成は一度、崖っぷちに立っている。
集計見込みは八万五千円。ただしそのうち三万五千円は、月内検収が条件だった。そして検収者である発注元の担当者が、二十八日から「夏季休暇の消化で不在」になったのである(十一月に夏季休暇を消化する会社というのも、世の中にはある)。検収が月をまたげば、六か月目の着地は五万円。目標は未達。数字の上では翌月に足せば同じことだが、拓真には、六か月目にこだわる理由があった。星二つの公園で、六か月と決めたからだ。自分で決めた期限を、初めて自分で守り切りたかった。
昔の拓真なら、祈って待った。今の拓真は、電話をかけた。担当者の上長に、休暇の事情を丁重に踏まえたうえで、「納品物の検収のみ、代理の方にご対応いただくことは可能でしょうか。確認用の要点を一枚にまとめてあります」と、例の総務芸──相手が首を縦に振りやすい形まで運んでおく──を発動した。検収は二十九日の夕方に完了した。祈りと段取りの違いを、これほど具体的な金額で学べる機会も、そうはない。
六か月目の月末、拓真は自作のExcel管理表(副業用に作った、われながら惚れ惚れする出来のやつ)の集計セルを、三回見直した。
ライティング(単価一・五〜二円):三万一千円。
マニュアル・社内文書作成:四万二千円。
スプレッドシート整備の単発案件:一万二千円。
合計:八万五千円。
達成である。六か月前、終電間際の公園で星二つに誓った月八万円を、拓真は前倒しも後ろ倒しもなく、きっかり六か月目に、五千円のお釣り付きで達成した。
その夜、拓真はコミュニティの月初報告スレッドに、六か月分の折れ線グラフを添えて投稿した。『目標にしていた月八万円、六か月目で達成できました。ゼロ円の月から助けてくださった皆さんのおかげです。特に提案文の型と、「在庫で戦う」の教えに救われました』。三分後、ペンギン先生からスタンプが届き、まめこさんから『泣いた』の三文字が届き、悠々自適ではないさんから『次はあなたが型を配る番ですぞ』という、七十一歳の圧が届いた。ふみこさんのコメントは最後に来た。『おめでとう。ところで白石さん、達成した日の夜って、何を食べました? それ、覚えておくといいですよ。金額は忘れても、その日の献立は、一生忘れないので』。月見うどんです、と拓真は返した。もう、一生忘れない気がした。
拓真は、ガッツポーズの一つでもするのかと思っていた。実際には、静かに息を吐き、台所に立って、だしを取り、月見うどんを作って食べた。祝杯ならぬ祝うどんである。
うどんは、湯気まで金色に見えた。
手引きのだしに、薄口醤油とみりん。冷凍うどんを湯がいて、卵を落として、火を止めて蓋をして一分。丼から立つ湯気の向こうに、ふと、一年前の自分の食卓が見えた。テーブルの上ののり弁、プラスチックの蓋に付いた水滴、テレビも点けずに十二分で終わる夕食。あれも食事で、これも食事だ。値段なら、のり弁のほうが高いかもしれない。だが、丼の底のだしまで飲み干して、拓真は思った。食事の値打ちは、材料費では決まらない。誰が、どんな一日の終わりに、何を祝って食うかで決まる。今夜のこれは、八万五千円の、いや、六か月ぶんの、うどんだった。卵は、もう一つのカゴに全部盛られてはいない。冷蔵庫に六個、分散して収まっている。
食べながら、拓真は六か月の帳簿を頭の中でめくった。
金の通帳。副業月八万。持株会は月五万に減額し、全世界株式の積立と、生活防衛資金(生活費六か月分の現金。これがあると、心の余裕がまるで違う)の口座ができた。一点賭けは、ポートフォリオという言葉に置き換わった。
健康の通帳。先週の秋の健診で、γ-GTPは八十九から四十一へ。中性脂肪も基準値内。体脂肪率二十一パーセント。産業医は結果票を眺め、「白石さん、あなた半年で何があったの」と身を乗り出した。
「副業を始めまして」
「は? それで数値が良くなる理屈がないでしょ」
「副業のために朝型にしたら睡眠が整って、体力が資本だと気づいて歩き始めて、経費節約で自炊を始めたら料理が趣味になりました」
産業医はしばらく黙り、それから愉快そうに笑った。
「……なるほどねえ。健康のためにやる健康法は続かないけど、別の目的の途中に置いた健康は続く、か。論文書けそうだわ、それ。……で、宿題の答えは? 今の生活、楽しい?」
「はい」と拓真は言った。今度は、三秒もかからなかった。
「よろしい」産業医は結果票に何やら書き込みながら、続けた。「じゃあ白石さん、処方箋を書き換えます。前回のあなたへの処方は『生活を変えること』。今回は──『今の生活を、守ること』です。いいですか、改善よりも維持のほうが、実は難しいの。人間、良くなると油断して、次は『もっと』を欲しがる。もっと稼ごう、もっと詰め込もう、ってね。そこで睡眠から削り始めたら、半年後、またこの部屋で赤いハンコを見ることになります。……数値がいいうちに言っておきますけどね、白石さん。健康の目標はね、最高を目指すことじゃないの。悪くない状態を、死ぬまで続けることなの。地味でしょう。地味なのよ、健康って」
地味なのよ、健康って。拓真はその言葉を、勝率管理表の名言メモ欄に追加した。メモ欄は、いつのまにか、名言だらけになっていた。
時間の通帳。朝の勉強、案件、自炊、散歩。一日は相変わらず満席だが、席の予約者が全員「自分」になった。忙しさの総量は増えたのに、消耗は減った。他人の予定で埋まった一日は重く、自分の予定で埋まった一日は、なぜか軽い。
人間関係の通帳。ふみこさんはじめコミュニティの仲間。マニュアル案件のリピート顧客二社。月イチ電話の熊沢さん。そして──。
二
週末、拓真は熊沢さんと、半年ぶりに会って飯を食った。約束どおり、である。店は拓真が選んだ。あの、一杯六百五十円の喫茶店の並びにある小さな定食屋。「おれが払います。副業の稼ぎなので」と言うと、熊沢さんは目を細めた。
定食屋「みその」は、カウンター六席と小上がりが一つだけの店だった。暖簾は日に焼けて、「み」の字がほとんど白い。大将は無口で、注文を復唱する以外、ほぼ喋らない。そのかわり、揚げ物の音がよく喋る店だった。
拓真はアジフライ定食を、熊沢さんは肉豆腐の定食を頼んだ。熊沢さんの箸の使い方は、きれいだった。肉豆腐の豆腐を崩さずに持ち上げ、まず汁を一口すすってから、うん、と小さく頷く。うまいものを食うとき、この人は、いちいちちゃんと頷くのだ。三十三年、伝票の数字を睨んできた人の、これが休符の打ち方かと、拓真は思った。
「白石、アジフライってのはな、端から食うな。まず真ん中だ。一番厚いところの熱いのを最初に食う。端はいつでも食える」
「それ、何の話ですか」
「人生の話に聞こえるか?」
「聞こえます」
「ただのアジフライの話だ。……まあ、七割はな」
食後の茶を待つ間、拓真は持株会のその後を報告した。保有は資産の一割強まで下げたこと。売却した分は全世界の株の詰め合わせと、現金の防衛資金に分けたこと。熊沢さんは湯呑みを両手で包みながら、うん、うん、と聞いていた。
「白石、最後に一個だけ試験だ。もし明日、うちの会社の株が倍になったら、お前、どう思う?」
「……『売らなきゃよかった』とは、思うと思います。正直」
「正解だ。思っていい。人間だからな。ただし、そこで買い戻したら不正解だ。いいか、分散ってのはな、『一番儲かる置き方』じゃない。一番儲かる置き方は、次に上がる一点に全部張ることだ。ただし、それは次に上がる一点が分かる人間の話で、そんな人間はこの世にいない。分散ってのは『どっちに転んでも、人生が壊れない置き方』だ。儲けの最大化じゃなくて、後悔と破滅の最小化。……つまりな、投資ってのは最後は金の話じゃないんだ。自分がどれだけ間違えるかを、先に認めておく話なんだよ」
大将が、無言で茶を置いていった。うまい茶だった。
「で、白石。趣味の話を聞かせろよ。『あ、はい』以外の返事で」
拓真は話した。料理のこと。だしの話が長くなりすぎて熊沢さんに「蕎麦打ちの先輩に向かってだしを語るか、普通」と笑われたこと。歩くこと。文章を書くこと。書いた文章で人に感謝されること。読みたい本が増えて、金より時間が足りなくなってきたこと。
「……月八万か。で、これからどうする。もっと増やすのか?」
拓真は少し考えて、首を横に振った。
「金額は、しばらくこのままでいいと思ってます。これ以上増やすと、たぶん料理と散歩の席を潰すことになるので。それより単価を上げて、時間あたりを良くして……空いた時間で、やってみたいことがあって」
「ほう」
「ぼくみたいな人向けに、書こうかと思うんです。スキルがないと思い込んでる会社員の、スキルの棚卸しのやり方。誰にも頼まれてないんですけど」
「誰にも頼まれてないこと、か」熊沢さんは、うまそうに味噌汁をすすった。「白石、それをな、世間では『やりたいこと』って呼ぶんだ」




