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第12章 五か月目・月五万の壁

   一


 五か月目、拓真の売上は月五万円台で足踏みを始めた。


 原因は明白だった。時間の在庫切れである。本業、朝勉強、案件、自炊、散歩、睡眠六時間半。一日はすでに満席で、これ以上案件を増やす座席がない。


 満席の実態を掴むため、拓真は一週間、十五分刻みの時間ログをつけてみた。金の家計簿の、時間版である。結果は、金のときと同じくらい、残酷で有益だった。まず、自覚より睡眠が長く、自覚より作業時間が短い。「二時間書いた」と思った夜の実測は、七十分だった(残りはお茶と、資料という名の回り道)。そして最大の発見は、「スキマ」の総量である。湯を沸かす三分、風呂が溜まる八分、電車の乗り換え待ち四分。一週間で合計五時間強の、誰にも予約されていない細切れの時間が、ログの行間に埋まっていた。五時間あれば、記事の構成が三本組める。時間がない、は正確ではなかった。まとまった時間がない、だけだった。まとまっていない時間の使い方を覚えた者から、一日は二十五時間になる。単価は上がったが、時間を注ぎ込む方式の限界が、月五万円という数字になって現れていた。


 コミュニティのふみこさんに相談すると、返ってきた答えは簡潔だった。


『白石さん、毎回ゼロから作ってませんか? プロは在庫で戦います』


 通話でふみこさんは、こんな喩え話をした。『昔ね、かき氷屋さんのドキュメンタリーを見たんです。行列のできる店。その店主、シロップは注文を受けてから作るけど、氷を削る機械の刃の調整は、開店前に全部済ませておくんですって。お客さんの前でやる仕事と、お客さんの来ないうちにやる仕事を、はっきり分けてる。白石さんは今、お客さんの目の前で、毎回、刃の調整からやってるんです。ヒアリングの質問リストも、目次のひな形も、納品文も、ぜんぶ開店前に仕込める「刃」ですよ』。電話を切ってから、拓真はカレンダーの日曜に「開店前作業」と書き込んだ。仕込みに名前がつくと、仕込みは雑務ではなく、営業日になる。


 在庫。聞けば、こういうことだった。マニュアル作成の依頼は、業種が違っても構成の八割は共通している。ヒアリングの質問リスト、目次の型、レイアウトのひな形、納品時の説明文。これらを一度「型」として作り込めば、二件目からは差分だけ作ればいい。一件十時間の仕事が、六時間になり、四時間になる。


 拓真は目から鱗が落ちた。そして落ちた鱗を拾いながら気づいた。これ、会社でおれが「白石くんは仕事が速いね」と言われていた理由と同じだ。無意識にやっていた工夫を、意識的な仕組みに変える。それだけで、時間という土地の収穫量が変わる。同じ畑から二倍採れるなら、それは畑が二倍になったのと同じことだ。


 型を整備した五か月目の後半、一件あたりの時間は四割減った。空いた席に新規案件を入れ、売上は月七万円台に乗った。


 型づくりに充てた週末の作業は、傍から見ればただの整理整頓である。過去の全案件のファイルを開き、共通部分に色を塗り、ヒアリング質問リストを一枚に統合し、目次のひな形を三パターン作り、納品メールの文面をテンプレート化する。派手さは一切ない。だが日曜の夕方、完成した「型」のフォルダを眺めたとき、拓真は妙な感慨に打たれた。


 これは、未来の自分への引き継ぎ書だ。


 総務で拓真は、引き継ぎ書を何十本も書いてきた。異動する人、辞める人のために。だが「三か月後の自分」に宛てて書いたのは、初めてだった。仕事の仕組み化とは、要するに、今日の自分が明日の自分の部下を一人増やすことなのだ。給料は要らず、文句も言わず、深夜でも働く、フォルダの中の分身。月五万の壁の正体は、拓真が今まで、たった一人で働いていたことだった。


   二


 だが、この章の本当の事件は、金額ではない。


 水曜の夕方、それは起きた。営業部の田淵課長が、いつものように付箋まみれの書類を持って現れたのである。


「白石ぃ、これ明日の朝イチまでにいける? 悪いな、白石しかいないんだわ」


 いつもの台詞。いつもの甘い蜜。そして拓真には、今夜、マニュアル案件の顧客ヒアリングの予定があった。


 昔の拓真なら、迷わなかった。「あ、はい」と言い、ヒアリングを延期し、副業を──つまり自分の人生を──後回しにしただろう。他人の承認は主食。自分の予定は端数。それが白石拓真のOSだった。


 心臓が、聞こえるほど鳴っていた。


 口の中が乾き、喉の奥では、十二年間使い込んだ「あ、はい」が、発射台に載って点火を待っている。あれを言えば、楽になる。課長は笑顔になり、フロアの空気は何事もなく流れ、拓真は今夜もいつもの、便利な白石に戻れる。


 だが、拓真の頭には、今夜二十一時の画面の向こうで待っている、丸山社長の日焼けした顔が浮かんでいた。「白石さんとの打ち合わせ、時田も楽しみにしとってな」。あの約束と、この付箋の束。天秤に載せるまでもなかった。載せるまでもないことを、載せるまでもないと言うために、これだけの心拍数が要る。十二年分の慣性とは、そういうものだった。


 三秒。


 かつて送別会の夜、送信ボタンの上で止まったのと、同じ長さの間。あのときは三秒止まって、結局「あ、はい」に着地した。今夜は、三秒あれば、足りた。


 拓真は書類を見た。冷静に見ると、明日の朝イチ提出である必然性がどこにもない書類だった。そもそも営業部の若手が作るべき書類でもあった。十二年間、「頼まれる」という蜜の味に酔って、おれはこの構造を見ないふりしてきた。


「課長、すみません。今日は定時で出ます。予定があるので」


 田淵課長は、珍しい鳥を見る目で拓真を見た。


「よ、よてい……予定? 白石が?」


「はい。あと、この書類、急ぎでないなら、営業部の吉岡さんの担当範囲かと思います。フォーマットはぼくが以前作ったものがあるので、共有しておきます」


 断る。代替案を出す。線を引く。矢口氏との交渉で覚えた型は、社内でも使えた。むしろ社内のほうが簡単なくらいだった。なにしろ、こちらは検収ボタンを人質に取られていない。


「お、おう……そうか。わかった。頼むわ、吉岡に」


 課長は拍子抜けした顔で去っていった。世界は、壊れなかった。「断らないから好き」の看板を下ろしても、拓真の居場所は消えなかった。それどころか翌週、課長は初めて「白石、これって頼める案件か? 忙しかったら言ってくれ」と、確認してから頼んでくるようになった。


 線を引くと、相手は線を見てくれる。線を引かない人間の周りにだけ、線を踏む人間が集まる。十二年かけて学べなかったことを、副業の五か月が教えてくれた。


 翌日の社内は、静かに、しかし確実にざわついていた。


 給湯室で川本さんが「白石くん、昨日、断ったんですって?」と、まるで婚約発表を確かめるようなトーンで聞いてきた。「予定があったので」と答えると、川本さんは「予定」と繰り返し、噛みしめるように頷いた。伝説の目撃者の顔だった。


 一方、書類を引き継いだ営業部の吉岡は、午後、拓真の席にやってきた。少し身構えたが、吉岡の用件は苦情ではなかった。


「白石さん、あのフォーマット、ありがとうございました。……あの、正直に言っていいですか。おれ、あの書類、白石さんに流れてるのずっと知ってて、知らんぷりしてました。自分の仕事なのに。……なんか、すみませんでした」


 拓真は少し驚き、それから「フォーマットの使い方で詰まったら聞いて」とだけ言った。吉岡は頭を下げて戻っていった。断らない優しさは、実は、誰かの「知らんぷり」の隠れ蓑にもなっていたのだ。おれが全部引き受けることで、仕事は回っていたが、人は育っていなかった。断ることは、ときに、相手に仕事を返すことですらある。十二年目の発見としては、ずいぶん高くついたが、遅すぎはしなかった。


 その夜のヒアリングは、うまくいった。画面越しの顧客に「白石さんにお願いしてよかった」と言われ、拓真は思った。承認欲求は、悪ではなかったのだ。ただ、注ぎ先を間違えていただけで。「都合の良さ」への承認を集めるのをやめ、「仕事の中身」への承認を選ぶ。同じ欲求でも、前者は人生を削り、後者は人生を建てる。


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