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第11章 四か月目・体が資本

   一


 順調に見えた四か月目の後半、拓真は壁にぶつかった。倒れたのである。


 といっても劇的な話ではない。金曜の夜、マニュアル案件の納期前に根を詰め、土曜の朝、三十八度二分の発熱。ただの風邪だが、独身一人暮らしの三十八度は、遭難に近い。冷蔵庫には調味料しかなく、薬箱には五年前の胃薬しかなく、頼れる人は徒歩圏に一人もいない。


 熱に浮かされた頭で、拓真は布団の中から天井を見ていた。三十八度の天井は、平熱の天井より遠い。スマートフォンには、誰からの着信もない。もっとも、あったところで「大丈夫です」と返すのが拓真である。


 夕方、一度だけ電話が鳴った。母だった。用件は「お歳暮、何がいいか」という季節外れの相談で、拓真が「風邪ひいてて」と言うと、母は電話口で〇・二秒で戦闘態勢に入った。「ちゃんと食べてるの。ネギは。首に巻いた? 巻きなさい。おばあちゃんはそれで治してたの」。ネギの薬効の科学的根拠はさておき、誰かが自分の三十八度を心配しているという事実だけで、体感温度が〇・五度下がった。電話を切ってから、拓真は気づいた。この八年、母への電話は、全部着信だった。発信の記録が、一件もなかった。治ったら、かけよう。用もなく、かけよう。三十八度の頭で決めたことは、なぜか平熱の決心より、よく守られる。


 拓真はふらつきながらドラッグストアに行き、ゼリー飲料とスポーツドリンクと解熱剤を買い、二日間眠り続けた。納期は、生まれて初めて、落とした。クライアントは事情を聞いて快く延期してくれたが、拓真の心には太い釘が刺さった。


 ──副業は、会社と違って、代わりがいない。


 会社なら、休んでも誰かが埋めてくれる(主に、かつての拓真のような人間が)。だが個人の仕事は、自分が止まればすべて止まる。収入も、信用も、体ひとつにぶら下がっている。体が資本、という手垢のついた言葉が、三十八度二分の実感を伴って迫ってきた。産業医の言った「健康は貯金」の意味も、今なら分かる。残高不足の口座から、おれは引き出しすぎたのだ。


 回復した週末、拓真は生活の設計図をもう一段、描き直した。


 第一に、睡眠は削らない。納期が厳しくても六時間半を死守する。睡眠を削って作った時間は、翌日の効率低下で利息付きで返済させられる。これは時間の借金、しかも闇金である。


 第二に、運動。ジムは続かない自信が満々にあったので、拓真は「一駅手前で降りて歩く」だけにした。片道二十三分、往復四十六分。歩きながら記事の構成を考えると、机の前より捗ることを発見したのは、うれしい誤算だった。足を動かすと、頭が回る。古代ギリシャの哲学者が歩きながら思索した理由が、駅二つぶんの距離で理解できた。


 一駅ぶんの徒歩通勤は、思わぬ発見の連続だった。八年通った経路の、たった一本裏の道に、拓真の知らない町があったのである。


 まず、商店街。アーケードの半分はシャッターだが、残り半分は現役だった。朝七時から湯気を上げる豆腐屋。店先のガラスケースに厚揚げが並び、三代目らしき主人が水槽から豆腐をすくっている。八百屋の店頭の値札は手書きで、「今日のおすすめ:小松菜 どうかしてる安さ」と書いてある日があった(九十八円だった。たしかに、どうかしていた)。クリーニング店の店番の柴犬。月極駐車場の隅の、誰が世話しているのか分からない見事な朝顔。


 拓真は歩きながら、季節というものが、気温以外の形で存在することを知った。八百屋の店頭が筍から枝豆に変わり、豆腐屋の貼り紙に「冷やっこ、はじめました」が出て、金木犀の匂いがどこからか流れてくる。電車の窓から見る季節は背景だったが、歩く速度の季節は、匂いと値札でできていた。


 やがて拓真は、豆腐屋の主人と会釈をする仲になり、木綿豆腐一丁(百六十円)を晩飯用に買って歩く男になった。会釈と豆腐。それだけのことだが、八年間ただの「通過点」だった町が、少しずつ「住んでいる町」に変わっていった。定住とは住民票のことではなく、会釈の数のことなのかもしれなかった。


 体の変化は、数値より先に、階段で来た。


 会社の三階まで、拓真は昔からエレベーター派だった。二階の打ち合わせにもエレベーターを待つ、筋金入りである。それが秋のある日、エレベーターの点検中にやむなく階段を上って、三階に着いたとき、気づいた。息が、切れていない。以前は二階の踊り場で「今日は空気が薄い」と星の環境のせいにしていた男が、である。


 毎日四十六分の徒歩は、劇的なことを何もしない。心拍数を少し上げ、脚の筋肉に少し仕事をさせ、それを毎日、淡々と積む。筋トレのような達成感もなければ、汗だくの充実もない。ただ、三か月後の階段が、静かに軽い。運動というのも積立投資なのだった。一回の入金額は小さく、口座を覗いても変化は見えず、そしてある日、階段の踊り場で、複利がそっと顔を出す。


 第三に、食事。そしてこれが、物語を思わぬ方向に転がすことになる。


   二


 始まりは打算だった。コンビニ弁当は一食五百円超で栄養が偏る。自炊すれば一食二百円台で栄養が管理できる。健康と余白予算の一石二鳥。それだけの理由で、拓真は炊飯器と包丁とフライパンを買った(しめて八千九百円。副業収入から出した)。


 最初の自炊は、悲惨だった。米は芯が残り、味噌汁は味噌の位置エネルギーがすべて底に沈殿し、生姜焼きは生姜炭焼きになった。だが拓真は、焦げたフライパンを洗いながら、奇妙な感覚に気づいた。


 楽しい、のである。


 なぜだ。原因を探るうち、拓真は第1章の夜に開けた記憶の引き出しに行き当たった。牛乳パックの船。ノートの端の漫画。Fコード。──工作だ。手を動かして、材料から何かを組み立てて、結果がすぐ出る。料理は、食える工作なのだ。


 だしを初めて引いた夜のことは、たぶん、当分忘れない。


 前の晩、教本どおりに昆布を水に浸けておいた。仕事から帰って鍋を火にかけると、昆布の縁がゆらゆらと踊り始め、鍋底に小さな気泡が真珠のように並ぶ。沸騰直前、ここで昆布を引き上げる。次に鰹節。袋を開けた瞬間、部屋の空気が変わった。燻したような、海のような、どこか懐かしい匂い。湯に落とすと、薄い削り節がひらひらと沈んでいって、鍋の中で金色の雪崩みたいになる。火を止めて、沈むのを待って、こす。


 ボウルに溜まったのは、澄んだ、金色の液体だった。


 拓真は小皿に取って、一口飲んだ。そして、台所で一人、変な声が出た。うまい、というのとも少し違う。体のどこか深いところが、「これは知っている」と返事をした感じだった。記憶の底から、不意に、祖母の台所が浮かび上がってきた。夏休み、田舎の流し台、鍋の湯気、「たくちゃん、味見するか」。もう二十五年も開けていなかった引き出しが、鰹節の匂い一つで、音もなく開いた。


 顆粒だしなら三秒で済む。時給換算すれば、手引きのだしは大赤字だ。だが、と拓真は金色のボウルを眺めて思った。世の中には、時給に換算してはいけない時間というものが、どうやら、ある。副業を始めて時間の値段を覚えた男が、時間に値段のつかない領域を発見する。順番としては遠回りだが、たぶん、この順番でしか、辿り着けなかった。


 それからの拓真は、平日の夜に一品、週末に三品作る男になった。だしを取ることを覚え、鶏むね肉を柔らかくする科学(塩と砂糖の水に漬ける。たんぱく質の保水性の問題らしい)を調べ、圧力鍋の購入を三週間悩む(悩めるのが、また楽しい)。会社の昼休みに料理動画を見てニヤついていたら、宮下に「白石さん、彼女できました?」と聞かれた。できたのは彼女ではなく、だし用の煮干しの在庫である。


 週末の台所は、拓真の実験室になった。


 土曜の朝、商店街で買い出しをして、午後、三品を並行して作る。ここで総務スキルが火を吹いた。三品の工程を書き出し、「煮込み中の待ち時間」に次の品の下ごしらえを差し込む。ガスコンロ二口という制約下での工程表の最適化。これは要するに、会議室のダブルブッキング調停と同じ問題である。十二年の調停経験を持つ男の段取りは、料理二か月目にして、皿洗いまで含めた撤収完了が開始から九十分を切った。


 失敗の記録も、几帳面につけた。肉じゃがの芋が煮崩れた日は「メークインと男爵の違い。煮るならメークイン」とノートに書き、味噌汁の味噌を煮立たせて風味を飛ばした日は「味噌は最後、火を止めてから」と書く。失敗をノートに書くと、失敗が「損」から「データ」に変わる。提案文の勝率管理表と、まったく同じ理屈だった。台所も市場も、記録する者に優しい。


 自炊の経済効果も、記録が明らかにした。コンビニ時代の食費は月約二万八千円。自炊移行後は、食材費が月約一万六千円(教室の月謝は別勘定)。差し引き月一万二千円の黒字で、しかも品目数と野菜の量は倍増している。安くなって、良くなる。世の中の買い物はたいてい「安かろう悪かろう」の坂道だが、自炊だけは坂の向きが逆だった。理由は単純で、中食や外食の価格には、調理の人件費と店舗の家賃が乗っている。台所に立つとは、その分を自分の手間で払い、浮いた差額を味と栄養で受け取る取引なのだ。ただし、と拓真はノートに正直に付記した。『初期は失敗コストがかかる(生姜炭焼き、他)。自炊も、損益分岐点を越えるまでに約一か月』。


 二か月後の秋の健康診断で、その煮干したちは戦果を挙げる。だがそれはもう少し先の話。


 四か月目の終わり、拓真はノートの目標欄の横に、小さくこう書き足した。


『趣味(仮):料理』


 (仮)を付けたのは、照れである。三十四年間空欄だった項目に文字を書くのは、案外、勇気が要るのだ。


   三


 病み上がりの体に、もう一つのウイルスが忍び寄ったのは、四か月目の最後の週だった。


 感染経路はSNSである。副業の情報収集のために作ったアカウントで、その夜、拓真は一件の投稿を目にした。


『【ご報告】副業開始4か月で、月収87万円を達成しました! 特別なスキルは何もありません。やったのは「行動」だけ。詳しくはプロフィールのリンクから』


 四か月で、八十七万。


 拓真の四か月目は、六万三千円である。約十四分の一。しかも相手は「特別なスキルは何もない」らしい。こちとら十二年物の熟成スキルを総動員して六万三千円である。拓真の胸の中で、何かがすうっと冷えた。あんなに誇らしかった六万三千円が、急に、みすぼらしく見えた。


 悪いことに、SNSというものは、一度その手の投稿に反応すると、似た投稿を次々と運んでくる。月収百万、脱サラ、タワマン、朝のホテルラウンジ。三日もすると、拓真のタイムラインは他人の月収報告で埋め尽くされた。仕組みを後から知ったが、SNSの表示順を決める計算機は、正しい投稿ではなく、感情が動く投稿を上に運ぶ。嫉妬は、感情の中でもよく燃える燃料なのだ。


 週末のオンライン添削会で、拓真の元気のなさを見抜いたのは、ふみこさんだった。事情を話すと、彼女は画面の向こうで、ふふ、と笑った。


「白石さん、飛行機の弾痕の話、知ってます?」


「弾痕?」


「昔の戦争でね、帰還した爆撃機の弾痕を調べて、穴の多い場所に装甲を足そうとしたんですって。翼とか、胴体とか。でも、ある数学者が言ったの。『違う。装甲を足すべきは、帰還機に弾痕のない場所──エンジンだ』って。エンジンを撃たれた機体は、帰還してないから、データに存在しないんです」


「……あ」


「SNSも同じです。『四か月で八十七万』は、帰還した一機。その後ろに、墜落して声を上げない九十九機がいる。退場した人は『退場しました』って投稿しないから、タイムラインには成功だけが並ぶ。生存者バイアス──あそこは世界の実態じゃなくて、成功のショーウィンドウなんですよ。ウィンドウの中と自分の家計簿を比べたら、そりゃ具合も悪くなります」


 それにね、とふみこさんは続けた。


「仮にその八十七万が本当だとしても、です。その人の八十七万は、白石さんの人生の物差しにはならない。前提が全部違うんだから。使える時間、家族構成、元手、運。他人の月収は他人の答案で、しかも問題用紙が違う。カンニングしても意味がないんです。……比べていい相手は、世界に一人だけ。半年前の白石さんです」


 半年前の白石拓真。副業収入ゼロ円、γ-GTP八十九、趣味は帰宅、可処分所得月一万八千円。


「……圧勝ですね、今のおれ」


「でしょう? その調子です」


 通話の後、拓真は二つの対策を打った。一つ、朝のルーティンからSNSを外す(朝一番の脳に他人の月収を入れない。あれは夜のニュースより体に悪い)。二つ、ミュートワードの設定に「月収」「脱サラ」「ご報告」と入れる。設定した瞬間、タイムラインが静かになった。世界がこんなに静かだったとは。


 そして拓真は、自分の勝率管理表の隅に、折れ線グラフを一つ追加した。横軸は月、縦軸は副業収入。〇円、九千八百円、二万三千円、六万三千円。誰にも自慢できない、小さな小さな右肩上がり。


 だが、この折れ線だけは、正真正銘、拓真の答案だった。


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