一章第四話 映画
目が覚めた瞬間。
毛は天井を見上げたまま動かなかった。
昨日のことを思い出していた。
映画。
夕飯。
美月との会話。
そして別れ際の言葉。
『また行きましょう』
毛は布団の中で小さく笑った。
「へへ」
気持ち悪い笑い方だった。
だが誰も見ていない。
問題なかった。
二十九年生きてきた。
その中で昨日は間違いなく上位三位に入る日だった。
ちなみに一位は空を飛んだ日。
二位は美月と初めて映画を見た日。
最近ランキングの更新頻度が激しい。
人生が急に忙しくなっていた。
毛はスマホを見る。
美月とのトーク画面。
最後のメッセージを開く。
『また次の映画楽しみにしてますね』
その一文を見るだけで元気になれた。
だが。
現実は容赦ない。
時計を見る。
出勤時間だった。
「……行きたくねえ」
心の底から思った。
今まで仕事は嫌ではなかった。
好きでもなかったが。
ただ毎日行くものだった。
だが今は違う。
仕事へ行く時間が惜しい。
美月との映画の日までの時間を早送りしたい。
そんな気持ちだった。
「金だ」
毛は起き上がる。
「遊ぶには金がいる」
「映画にも金がいる」
「モテるにも多分金がいる」
最後はよく分からなかった。
だがとにかく働かなければならない。
毛は重い足取りで会社へ向かった。
工場へ到着する。
いつもの匂い。
いつもの機械音。
いつもの景色。
何も変わらない。
変わったのは毛の心だけだった。
作業服へ着替える。
帽子を被る。
その瞬間だった。
「くっ……」
嫌な感覚。
蒸れる。
大切な髪達が苦しんでいる気がする。
ラストホープ。
クラウン。
影武者。
彼らの悲鳴が聞こえる気がした。
「すまん」
毛は帽子を撫でた。
「あと少し耐えてくれ」
誰に言っているのか分からなかった。
作業開始。
しかし今日は運が悪かった。
朝から上司の機嫌が悪い。
毛は知っていた。
この上司は正論で殴るタイプだった。
間違ったことは言わない。
だが優しくもない。
そして一度標的を決めると徹底的だった。
昼前。
案の定始まった。
「剛田」
「はい」
「この資料見たか?」
「見ました」
「じゃあ何でこうなった?」
毛は説明する。
上司は聞く。
そして否定する。
毛は説明する。
また否定する。
周囲の空気が重くなる。
課長まで呼ばれる。
そして本人がいる前で会議が始まる。
「毛の行いをどう改善するべきか」
「なぜこうなったのか」
まるで本人がいないような扱いだった。
毛は聞き流していた。
今までは
(今日も大切な毛達が機械に巻き込まれないか心配だぜ)
そんなことを考えていた。
だが最近は違う。
さすがに限界だった。
(うるせえな)
(俺だって頑張ってるんだぞ)
(ラストホープ達だって頑張ってるんだぞ)
心の中で反論する。
しかし口には出せない。
毛は争いが苦手だった。
仕事が終わる。
帰り道。
ため息が出る。
「辞めたいな」
初めてではない。
何度も思った。
だが辞めなかった。
毛には妙なこだわりがあった。
一つの場所で結果を出すまでは辞めない。
成功するまでは続ける。
そう決めていた。
だから我慢した。
そして結果も出した。
工場の生産率は二位。
売上も二位。
周囲からも評価された。
だが。
一位ではない。
毛は空を見る。
「二位なんだよなあ」
学生時代もそうだった。
運動会も。
勉強も。
何もかも。
一位には届かない。
気付けば二十九歳。
転職するには決して若くない。
怖かった。
失敗したらどうする。
今より悪くなったらどうする。
そう思うと動けなかった。
数ヶ月後。
待ちに待った映画の日がやって来た。
毛は朝から落ち着かなかった。
前日は仕事中も落ち着かなかった。
寝る前も落ち着かなかった。
結果として昨日は一日中落ち着かなかった。
そして待ち合わせ場所。
毛は立っていた。
前回より自然だった。
吐きそうにはなっていない。
死にそうにもなっていない。
成長だった。
「お待たせしました!」
美月が走ってくる。
毛は笑った。
「全然待ってないですよ」
本当は始発で来て待っていた。
だが男には見栄というものがある。
「今日はよろしくお願いします!」
「こちらこそ」
二人は映画館へ向かった。
隣同士で座る。
映画が始まる。
前回ほど緊張しない。
気付けば自然に笑っていた。
そして上映終了。
エンドロール。
最後に予告が流れる。
『第三部制作決定』
毛は思った。
(また誘おう)
だが今回は違った。
映画館を出た瞬間。
美月の方から話しかけてきた。
「剛田さん」
「はい?」
「今日もご飯行きたいんですけどどうですか?」
毛は一瞬停止した。
脳が処理を拒否した。
「え?」
「ダメでした?」
「いや!」
声が大きくなった。
周囲が見る。
毛は慌てて小声になる。
「全然大丈夫です」
「むしろ嬉しいです」
美月は笑った。
「良かったです」
毛の心臓が少しだけ速くなる。
そして気付いた。
自分から誘うだけじゃない。
相手から誘われることもあるのだと。
それは毛にとって新しい発見だった。
「実は大きいハンバーグが食べたい気分なんです」
「ハンバーグですか」
「はい」
「じゃあ調べます」
毛は反射的にスマホを取り出した。
しかし。
その手を美月が軽く止めた。
「あ」
「え?」
「実は私も少し調べてきたんです」
毛は目を丸くした。
「調べてきた?」
「はい」
美月は少し照れながら言う。
「前回全部剛田さんに任せちゃったので」
「今日は一緒に選びたいなって」
その言葉が妙に嬉しかった。
一緒に選ぶ。
毛の人生であまり聞いたことのない言葉だった。
いつも自分だけで決めるか。
誰かに決められるか。
そのどちらかだった。
「じゃあ見せてください」
「はい」
二人でスマホを覗き込む。
候補は三店舗。
肉汁が売りの店。
巨大ハンバーグの店。
昔ながらの洋食店。
「あ」
「この店良さそうですね」
「私もそう思いました」
自然に意見が重なる。
気付けば二人とも笑っていた。
そして選ばれたのは巨大ハンバーグの店だった。
店内は賑わっていた。
運ばれてきたハンバーグは本当に大きかった。
美月が目を輝かせる。
「すごい!」
「写真より大きいですね」
「ですね」
毛も少し驚いた。
二人で食べる。
美味しい。
ただそれだけだった。
だが楽しい。
前回より会話も続いた。
映画の話。
仕事の話。
学生時代の話。
好きな食べ物の話。
特別なことは何もない。
なのに。
毛は何度も思った。
(楽しいな)
(本当に)
途中でお酒も少し頼んだ。
毛は普段あまり飲まない。
だが今日は少しだけ飲みたかった。
気分が良かったからだ。
そして。
話題が仕事になった。
毛は少し黙る。
美月が気付いた。
「どうかしました?」
毛は迷った。
こんな話をしていいのか。
まだ二回しか会っていない。
重いと思われるかもしれない。
だが。
何故だろう。
この人には話してみたかった。
「実は」
「はい」
「仕事辞めたいんです」
美月が静かに聞く。
否定しない。
急かさない。
だから毛は続けた。
「ずっと我慢してて」
「上司とも合わなくて」
「でも自分で決めた職場なんです」
「だから辞めるのは逃げな気がして」
「ずっと迷ってます」
言い終わる。
少し恥ずかしかった。
こんな話をするつもりではなかった。
美月は少し考えた。
そして言った。
「辞めてもいいと思いますよ」
毛は顔を上げた。
予想外だった。
もっと頑張れと言われると思った。
「いいんですか?」
「はい」
美月は頷く。
「私も転職何回かしてるので」
「そうなんですか」
「してます」
少し笑う。
そして続けた。
「でも」
その声は穏やかだった。
「辞めた後の人生も自分で選んだって覚えておいた方がいいと思います」
毛は黙る。
美月は続ける。
「会社が悪かったから」
「上司が悪かったから」
「環境が悪かったから」
「もちろんそういうこともあると思います」
「でも」
「全部を誰かのせいにしちゃうと」
「その後ずっと苦しくなる気がするんです」
毛は言葉を失った。
美月は笑う。
「辞めるのも選択です」
「続けるのも選択です」
「どっちも勇気がいると思います」
「だから」
「自分で決めたって思える方がいいんじゃないかなって」
毛は黙った。
胸の奥に言葉が落ちる。
今まで。
誰かのせいにしていたかもしれない。
上司のせい。
会社のせい。
環境のせい。
もちろん間違いではない。
だが。
最後に残るのは自分の選択だ。
その事実に初めて向き合った気がした。
「ありがとうございます」
毛は頭を下げた。
「いえ」
美月は少し困ったように笑った。
「偉そうなこと言っちゃいました」
「そんなことないです」
毛は本気でそう思った。
こんな風に答えてくれた人は初めてだった。
食事を終える。
美月がお手洗いへ向かった。
毛は席に残る。
そして。
財布を出した。
会計を済ませる。
少し緊張した。
だが今日はそうしたかった。
数分後。
美月が戻る。
「じゃあお会計を」
財布を取り出そうとする。
毛は首を振った。
「もう払いました」
美月が固まる。
「えっ」
「相談聞いてもらったお礼です」
「そんな」
美月は慌てる。
「私何もしてないですよ」
「しました」
毛は笑う。
「凄く助かりました」
美月は少し俯く。
「私の方こそ」
「え?」
「出会って間もないのに説教みたいなこと言ったかなって反省してたんです」
毛は首を振った。
「全然です」
「むしろ嬉しかったです」
美月はほっとしたように笑った。
二人で店を出る。
駅へ向かう。
途中。
美月が立ち止まった。
「ちょっと待っててください」
そう言ってコンビニへ走っていく。
数分後。
戻ってきた。
手には袋。
「はい」
渡される。
中を見る。
ジュース。
お菓子。
「これ」
「今日のお礼です」
美月が笑う。
「値段全然釣り合ってないですけど」
毛は思わず笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
なんだか温かかった。
改札が見えてくる。
そろそろ別れだ。
少し寂しい。
すると。
美月が言った。
「そういえば」
「はい?」
「三作目」
毛は顔を上げる。
「公開されたらまた行きませんか?」
一瞬。
理解が追いつかなかった。
誘われた。
今。
自分が。
「ぜひ!」
即答だった。
美月が笑う。
「よかった」
「私もまた観たいと思ってたんです」
毛は嬉しかった。
本当に嬉しかった。
改札前。
最後の時間。
美月は真っ直ぐ毛を見る。
「剛田さん」
「はい」
「仕事続けるにしても」
「辞めるにしても」
「どっちも勇気がいる選択だと思います」
毛は黙って聞く。
「だから」
「陰ながら応援してます」
「次会える日を楽しみにしてますね」
毛の胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
それしか言えなかった。
美月は改札を通る。
毛は何度も手を振る。
美月も振り返す。
姿が見えなくなるまで。
帰り道。
毛は一人だった。
でも。
不思議と寂しくなかった。
美月の言葉が頭の中を回っていた。
『辞めた後の人生も自分で選んだって覚えておいた方がいい』
『誰かのせいにするとその後ずっと苦しくなるから』
毛は空を見上げる。
「そうか」
小さく呟く。
「俺」
「今まで責任から逃げてたのかもな」
辞めたい。
それは本心だった。
上司が嫌だから。
会社が嫌だから。
だけじゃない。
自分が別の人生を選びたかったからだ。
「だったら」
「選ぶしかないか」
毛は笑った。
「辞めよう」
胸の中が少し軽くなった。
家に帰る。
いつもの儀式。
胸毛のゴンザレス。
腹毛の防御壁。
全員を労う。
「今日もありがとう」
そして布団に入る。
だが。
眠れない。
明日。
言う。
退職を。
考えるだけで胃が痛い。
毛は布団の中で寝返りを打つ。
そしてぼそりと呟いた。
「会社に雷落ちないかなあ」
冗談だった。
本当にただの冗談だった。
「なーんてね」
そう言って目を閉じる。
翌朝。
目が覚める。
違和感があった。
左太もも。
毛が消えている。
「うわ」
嫌な予感がした。
だが。
スマホの占いは一位だった。
「よし」
毛はラッキーアイテムのハンカチを持って出勤する。
そして。
会社へ着いた。
足が止まった。
「え」
工場がない。
正確には。
燃えカスになっていた。
黒い。
うっすらまだ煙が上がっている。
消防車。
規制線。
騒ぐ社員たち。
毛は呆然とした。
その時。
聞き覚えのある声。
上司だった。
地面に座り込んでいる。
「家のローンが……」
「生活が……」
泣いていた。
毛は近付く。
「何があったんですか」
上司が答える。
「昨日……」
「雷が落ちたんだよ……」
毛は固まった。
昨日。
自分が言った言葉。
会社に雷落ちないかなあ。
そして消えた毛。
毛の顔が青くなる。
「え」
「まさか」
「俺のせい……?」
冷や汗が流れる。
だが。
次の瞬間。
美月の言葉を思い出した。
選んだ責任。
自分で背負うこと。
毛は深呼吸する。
そしてポケットからハンカチを取り出した。
泣いている上司へ差し出す。
「使ってください」
上司が驚く。
毛は笑った。
少しだけ。
「転職……しよ」
その言葉は不思議なほど自然に口から出た。




