一章第三話 初めての友達
約束の日。
剛田毛は、鏡の前に立っていた。
今日はいつもの作業着ではない。
お気に入りの赤いシャツ。
そして少しだけ綺麗に見えるように選んだジーパン。
何度も鏡を見る。
「……悪くない」
小さく呟く。
「いや、むしろ良い」
自分に言い聞かせるように頷いた。
二十九年間。
女性と二人で出かけたことはない。
もちろんデートなんてしたこともない。
映画館。
食事。
会話。
全部、漫画やアニメの中だけの出来事だった。
でも今日は違う。
「俺は変わる」
毛は拳を握った。
「今日は彼女を作るための第一歩だ」
その言葉に少しだけ胸が痛んだ。
モテる。
ずっと欲しかったものだった。
特別な力が欲しかったわけじゃない。
本当は。
ただ誰かに選ばれたかった。
誰かに必要とされたかった。
誰かと笑い合いたかった。
でもそんなことを考えると恥ずかしくなって、毛は首を振った。
「いやいや、今日はそんな重い日じゃない」
「ただ映画を見るだけだ」
「まずは仲良くなるだけだ」
そう言いながらスマホを見る。
相手の名前。
田中美月。
アイコンには、どこかの綺麗な風景写真が設定されていた。
海。
夕焼け。
誰かが撮ったような美しい景色。
顔写真ではない。
美月の姿は知らない。
毛も最初は自分の写真を送るつもりはなかった。
しかし。
友人Aから言われた。
『当日お互い分からないと大変だろ』
その一言で覚悟を決めた。
震える手で自撮りを送った。
数分後。
返事が来た。
『背が高そうですね!』
それだけだった。
毛はスマホを見つめる。
「……背」
そこだけだった。
顔でもない。
雰囲気でもない。
優しそうでもない。
背。
でも毛は前向きに受け取った。
「高身長は武器だ」
「これは良い反応だ」
根拠はなかった。
だが毛には必要だった。
自信というものが。
待ち合わせ場所へ向かう電車。
毛は何度も時間を確認する。
あと三十分。
あと二十分。
あと十分。
心臓がうるさい。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
「これはただの約束だ」
「まずは相手を知るだけ」
そう言った瞬間。
逆に不安が膨らんだ。
もし来なかったら。
もし写真を見て引かれていたら。
もし会った瞬間に帰られたら。
嫌な想像ばかり浮かぶ。
「やめろ」
毛は目を閉じる。
「今日は大丈夫だ」
「俺には魔法がある」
そう思った瞬間。
少しだけ安心した。
自分はもう昔の自分ではない。
空を飛べる。
水をワインに変えられる。
普通じゃない。
だからきっと。
今日も何かが変わる。
そう信じていた。
約束時間三分前。
待ち合わせ場所に到着した。
毛は周囲を見る。
女性が歩いている。
一瞬期待する。
違う。
また違う。
スマホを見る。
まだ時間前。
「……いるわけないか」
その時。
後ろから声がした。
「あなた、神を信じますか?」
毛は振り返った。
そこには綺麗な女性が立っていた。
整った顔。
長い髪。
服装も綺麗。
毛は思った。
(もしかして)
(美月さん……?)
しかし違和感があった。
女性の目が妙に真剣だった。
「神を信じますか?」
もう一度聞かれる。
毛は少し考える。
「えっと……」
宗教の話だろうか。
でも美月は信仰心が強いタイプなのかもしれない。
毛は真面目に答えた。
「髪なら信じています」
女性の表情が止まる。
「……はい?」
毛は続けた。
「特に前髪です」
「最後の希望なので」
沈黙。
数秒。
女性の顔が変わる。
「神を……」
震える声。
「神を愚弄する者には……」
毛は首を傾げる。
「え?」
「罪を!」
突然だった。
「ギルティ!」
次の瞬間。
女性の蹴りが飛んできた。
「痛っ!」
毛は倒れない。
だが驚いた。
「え、何で!?」
女性は怒りながら叫ぶ。
「ファッキン!」
そして唾を吐き捨て、そのまま去っていった。
毛は呆然とする。
「……」
しばらく動けなかった。
そして思った。
(怖い)
(何の神を信じているのか知らないけど)
(怖い)
その時。
後ろから声がした。
「あの……」
毛が振り向く。
小柄な女性が立っていた。
「剛田毛さんですか?」
毛は固まる。
「……はい」
女性は安心したように笑った。
「あ、よかった!」
「すみません、怖い人に絡まれていたので話しかけづらくて」
「私、田中美月です」
その瞬間。
毛の体から力が抜けた。
(よかった)
(さっきの人じゃない)
安心した。
そして初めて気付く。
目の前の女性は、自分を怖がっていない。
普通に笑っている。
「今日は楽しみにしてました」
美月が言う。
「よろしくお願いします」
毛は慌てて頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします」
声は少し震えていた。
でも。
逃げられなかった。
それだけで十分だった。
二人は映画館へ向かった。
映画が終わった。
エンドロールが流れる。
周囲の客が少しずつ席を立っていく。
毛はしばらく動けなかった。
(終わった)
(本当に終わった)
人生初の女性との二人きりの時間。
映画を見る。
隣で笑う。
感想を話す。
それだけのことだった。
だが毛にとっては、今まで手に入らなかった特別な時間だった。
「面白かったですね」
美月が小さな声で言う。
「はい」
毛は即答した。
「すごく面白かったです」
本当は映画の内容だけではない。
隣に誰かがいること。
自分と話してくれる人がいること。
その全てが嬉しかった。
「最後、まさか続くとは思わなかったですね」
美月が笑う。
「あれはびっくりしました」
毛も笑った。
そして思う。
(また見たい)
(この人と)
続編の予告映像。
そこに映った文字。
『続編決定』
その文字よりも。
毛の頭の中には別のことが浮かんでいた。
(次も誘っていいのか?)
(いや、まだ早いか?)
(そもそも今日楽しんでくれたのか?)
考えれば考えるほど不安になる。
魔法で飛べた時は何も怖くなかった。
しかし今。
たった一言。
「また行きませんか?」
それを言うだけなのに。
身体が動かなかった。
「……」
「……」
映画館を出る。
夕方になっていた。
「今日はありがとうございました」
美月が言う。
その言葉に毛の心臓が跳ねた。
(終わる)
(ここで帰ったら終わる)
(もう二度と会えないかもしれない)
毛は拳を握った。
今までの人生。
逃げてきたわけではない。
ただ、どうしていいかわからなかった。
女性に話しかけること。
誘うこと。
距離を縮めること。
全部初めてだった。
だから。
今だけは。
一歩踏み出したかった。
「……あの」
「はい?」
美月が振り向く。
毛の喉が震える。
「もし良かったら」
「はい」
「夕飯……一緒にどうですか?」
言えた。
言えた。
毛の中で小さな花火が上がった。
美月は一瞬驚いた顔をした。
そして笑った。
「ぜひ!」
「え」
「ちょうどお腹空いてました」
「本当ですか?」
「はい」
美月は笑う。
「一人暮らしって、夕飯作るの面倒な日もあるんですよ」
「なるほど……」
「せっかくだから美味しいもの食べたいです」
毛は嬉しかった。
「リクエストありますか?」
「焼肉系とかどうでしょうか?」
「じゃあ、探します」
スマホを取り出す。
検索。
条件入力。
周辺のレストラン。
口コミ。
距離。
価格。
毛の頭の中で一瞬にして整理される。
「ここ」
「ここも良さそうです」
「あと、この店は評価高いです」
美月は目を丸くする。
「すごいですね」
「え?」
「調べるの早いです」
毛は少し照れた。
「こういうの好きなので」
全然普段検索とかしないが、必死で頭をフル回転させていた。
その様子を知られない様に毛は取り繕う。
「私はここ気になります」
美月が指をさしたのはジンギスカンの焼肉だった。
「じゃあそこにしましょう」
二人で歩く。
会話は特別なものではなかった。
好きな映画。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
本当に普通の会話。
だが毛にはその普通が宝物だった。
店に入り料理が届く。
「美味しいですね」
美月が笑う。
毛も笑う。
気付けば時間は過ぎていた。
そして帰る時間になった。
駅前。
改札の前。
ここで終わる。
そう思った瞬間。
毛はまた怖くなった。
でも今日は違った。
一度勇気を出せた。
だからもう一度。
「美月さん」
「はい?」
「今日は……」
毛は言葉を探す。
「凄く楽しかったです」
「人生で一番って言ってもいいくらい」
美月が少し驚く。
毛は続ける。
「もし良ければ」
「映画の続編」
「また一緒に行ってくれませんか?」
数秒。
沈黙。
毛には永遠に感じた。
そして。
「もちろんです」
美月が笑った。
「私も楽しかったです」
「ぜひ行きましょう」
「楽しみにしてます」
その瞬間。
毛の世界が明るくなった。
「ありがとうございます!」
「俺も今から超楽しみです!」
自然に笑えた。
そして。
美月が改札へ向かう。
毛は最後まで見送った。
何度も振り返る。
姿が見えなくなるまで。
その夜。
毛は家の最寄り駅に着いた。
人目のない場所へ移動する。
そして。
「飛びたい」
身体が浮く。
夜空へ上がる。
高く。
高く。
街の光が小さくなる。
毛は叫んだ。
「女性のお友達できたあああああああ!」
声が響く。
「嬉しいいいいいいい!」
涙が出そうだった。
「アパアアアアアアアッ!」
意味不明な叫びだった。
だが。
今の毛にはそれで良かった。
「光れ俺の体!」
「後光差せ!」
「今なら神になれそうだぜええええ!」
その瞬間。
毛の身体が光った。
眩しいほどに。
夜空に一つの光が浮かぶ。
その日。
星を観察していた者達は語った。
「あれは……何だったんだ」
「光る毛玉だった」
と。
毛は帰宅し。
風呂へ入った。
鏡を見る。
そして気付く。
右太もも。
毛が消えていた。
「あ」
一瞬だけ悲しくなる。
だがすぐ笑った。
「まあ……いいか」
昨日までの毛なら。
一箇所の毛を失っただけで絶望していた。
でも今は違う。
失ったものより
手に入れたものの方が大きかった。
大切な毛と引き換えに。(別に引き換えてはいない。)
毛は初めて女性との繋がりを手に入れた。
スマホを見る。
美月からメッセージ。
『今日はありがとうございました』
『次の映画、公開日調べておきますね』
毛は笑った。
何度も文章を打ち直す。
消す。
また書く。
『こちらこそありがとうございました』
送信。
すぐ返信が来る。
そのやり取りだけで。
胸がいっぱいになる。
「明日仕事か……」
布団に入る。
楽しかった一日の後。
現実に戻るのが少し寂しい。
それでも毛は笑っていた。
明日が来る。
仕事がある。
嫌なこともある。
でも、また会える。
その事実だけで明日を少し頑張れる気がした。
毛は目を閉じる。
そして眠りについた。
夢の中でも空を飛んでいた。
ただ隣には
誰かがいた気がした。




