第55話:野営の夜
パチパチと焚火が爆ぜる音がする。
どこかでは、虫の鳴き声。
静かで良い夜だ。
「…………フゥ」
吐き出した煙が、夜空に吸い込まれて溶けてゆく。
俺たちはルナンザに向けて出発し、その道中で野営をしていた。
今はもう深夜。ノエルとセスカは先に休ませ、俺が哨戒に当たっている。
木にもたれかかりながら、紫煙を肺一杯に吸い込む。
……いつからだったかな、煙草を吸い始めたのは。
もう思い出せない。
「………………」
夜空には満点の星が煌めいていて、二つの月が優しく世界を照らしている。
その幻想的な光景に、今俺がいるここはもう、かつていたあの世界じゃないんだと嫌でも実感させられる。……なんて、今さらか。
俺は故郷──日本に想いを馳せる。
戻りたいとは思っていない。戻ったところで、あそこに俺の居場所はない。
ただ、心残りがあるとすれば彼女の墓参りに行ってやれないことくらいか。
ただ、俺にその資格がないことくらい俺が一番よく分かってる。
だって俺は……あの子の心の悲鳴に、助けを求める声に気付いてやれなかったんだから。
「……本当、つくづく俺は滑稽な奴だよな」
星空に煙を吐きながら、俺は思う。
なぁ、鏡花。もしお前が今の俺を見たら、どう思うんだろうな。
俺はここで、得難い存在に出会ったよ。
あの頃のお前みたいに、心の底から大切だと思える存在にさ。
ノエル、そしてセスカ。
既に、彼女たちの存在は俺の中でかなりの比重を占めている。
何があっても守りたいと思う存在だ。
ただそれと同時に、俺は思う。
守ることだけが愛なのだろうか、と。
彼女たちは自分の意志でそこにいる。
自分で考え、自分で戦い、自分の想いがあって俺と一緒にいてくれている。
それに報いるための答えは……やっぱり、今の俺には分からないが。
だがいずれ分からなくちゃいけないことだ。
今度こそ、俺は二度と選択を間違えたくないから。
「ヴァニさん」
その時、鼓膜を撫でる心地良い鈴の音のような声が聞こえた。
振り返ると、そこにはノエルが立っている。
「どうした、眠れなかったのか?」
「……はい、少し」
そう言って微笑む彼女は、いつも頭の横で纏めて肩に流している髪を解いており、そこから受ける印象は普段より大人びて見える。
ノエルは隣まで歩いてくると、俺が身体を預けている木に同じようにもたれかかった。
「綺麗な星空ですね」
「……ああ、そうだな」
少しの間、二人して夜空を眺める。
ふと、ノエルが口を開いた。
「たまに見る夢があるんです」
「夢?」
「はい、とっても不思議な夢です」
彼女は星々を見つめながら、ぽつりぽつりと語り出す。
「私はこことは違う……まるで別の世界のような場所で、一人の男の子と話しているんです。その子とお話をしているときは、心が凄く安らかで、穏やかで、温かい気持ちになるんです」
「…………」
「何より不思議なのは、その男の子がどこかヴァニさんに似てるんですよ。変ですよね、私がこの夢を見るのは、ヴァニさんと出会うずっと前からなのに」
そう言って、ノエルはくすりと笑った。
……まさかな。
俺は頭の中に浮かんできた妄想を、くだらないと切り捨てる。
「今日もその夢を?」
「はい。この夢には続きがあるんですよ」
ノエルは少し顔を下に向け、どこか遠くを見つめる。
「目が覚めると、いつも心の中が寂しい気持ちでいっぱいになるんです」
「……」
「あの男の子は今どうしてるんだろう、どこにいて、何を思ってるんだろう……って。夢の中の存在なのに、とてもとても、心配になるんです」
「ノエル……」
俺が何を言ってやったらいいか分からずそう返すと、ノエルはこちらを向いてふっと微笑んだ。
「ごめんなさい、変な話をしちゃいましたね」
「……いや、大丈夫だ」
「ところでヴァニさん、疲れてないですか?」
「問題ないぞ。こういうのは慣れてる」
「…………」
しかしノエルは浮かない顔つきで自身の胸の辺りをきゅっと抑える。
「どうした?」
「その……でも、これは訊いていいことなのか……」
何やら逡巡している様子だ。
聞きにくいこと、というのはなんなんだろうか。
何にせよ、俺はそれに答えてやりたいという気持ちになった。
「いいぞ、言ってみな」
「ヴァニさんの目の下の隈、ずっと心配してたんです」
「ああ、それか……」
彼女の指摘通り、俺の隈は酷いものだ。
見る人が見たら幽霊かと驚くかもしれないレベルで。
「眠れる夜がな、ほとんどないんだ」
「そう……なんですか?」
俺は頷く。
「寝ると夢を見るだろ。俺の場合、大抵それは悪夢だ。いつしかそれが怖くなって……寝れない体になっちまった」
五割が真実で、五割が嘘だ。
俺が眠れなくなった理由は、悪夢だけのせいじゃない。
何のせいかと言えば……俺自身のせい、ってことになるんだろうな。
彼女を失った日からずっと、俺は昼夜問わず自分を責め続けている。
夜になると、それが色濃く酷くなるんだ。おかげで、眠ろうという気にさえなれない。
だけど、それはノエルには言わない。
言えない、が正しいかもしれないけどな。
ふと、俺の手が何か小さくて暖かいものに包まれた。
「ノエル?」
見れば、彼女が俺の手を握っている。
その柔らかさが、俺の思考を止めた。
「ヴァニさん、独りで背負わないでください。ヴァニさんには私がいます、セスカさんがいます。辛いときは頼ってください。悲しいときは泣いてください。今のヴァニさんは……痛みに慣れすぎてしまってるんです」
ノエルにそう言われた瞬間、脳内でいつしかの言葉がフラッシュバックした。
──『ねえ、■■。あなたは独りじゃないよ。たしかに、辛いこととか悲しいこととか、夜も眠れない日は沢山あるけどさ……。でも、独りでは潰されてしまう苦しみも、二人なら乗り越えられる。だから、抱え込まなくていいんだよ』
「…………鏡花」
言って、俺の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
悲しみや後悔じゃない、懐かしい優しさだ。
……ほんと、ノエルはあの子によく似てるよ。
「ありがとな」
そう言って、俺はノエルの頭を撫でる。
「わわっ、なんですか急に、恥ずかしいですよ」
「いいから、させてくれ」
「あう……」
ノエルは顔を真っ赤にしてあたふたとしていたが、やがて大人しくなり、その顔は微笑んでいる。
「さ、今日はもう遅い。明日はいよいよルナンザに着くぞ。今のうちに休んでおけ」
「……はい。おやすみなさい、ヴァニさん」
「ああ。おやすみ、ノエル」
テントに向かうノエルの背を見送りながら、俺は思う。
もうとっくに救われてるよ、お前には。
だから、恩返しをするのは俺の方なんだ。
「……ありがとう、ノエル」
俺の呟きは、静かな森の中にそっと消えていった。




