第五章 橘
一夜にして豹変してしまった撫子は留女の目には適ったらしく、牛車に同乗させることを鷹揚に許してくれた。
跡見を発ち、初瀬川の畔を下って海石榴市へ至ると、巷は件の玄昉法師がついに僧正に任じられたという噂で持ちきりだった。何でも、長く気鬱を病んで御子たる帝とさえ対面の叶わなかった皇太后夫人が、玄昉法師の説法を聞くなり癒えられたのだという。
私が佐保へ帰り着いた翌年――
あの年の年号を私はよく覚えている。
天平十年だ。
藤原以外のあらゆる一族の官人が、その年を短い栄えの初めとして今でも記憶しているだろう。
その年の正月、淡海公の末娘たる藤原の大后を母とする阿部内親王が日嗣に立たれ、大后の異父兄にあたる――すなわち、藤原の血を受けないあの葛城王が右大臣に任じられたのだった。
葛城王はあのときもう御名を橘諸兄と改められていた。
懐かしい慕わしい我が橘の大臣だ。
あの方の御名を思うたびに、私はあの短く明るかった若い栄えの時代を想う。
筑紫の頃が幼い春であるなら、常緑の橘の枝の下に守られていたあの頃は、私にとっては爽やかな初夏の日々だ。
橘の大臣はそれまで逼塞気味だった藤原以外の官人をつぎつぎと抜擢して高い地位につけていった。最も引き立てられたのは、今の世きっての才人たる唐帰りのあの吉備の真備だ。私も大臣の引き立てのおかげで、律令の定めよりも数年早く蔭位の正六位下を授かり、四月から内舎人として宮へ上がれることになった。このとき、正妻として坂上の大嬢を迎えた。大嬢は撫子の存在を知ってはいたが、さして気に留めているようには見えなかった。
中務省に属する九十名の内舎人は、専ら高官の子弟から選ばれ、帝が行幸をなさる折には武具をとって随う役職である。
宮仕えは私に新たな交遊を増やした。皆、大抵は貴顕の家の若い子息で、橘の大臣が賑やかな遊びごとを好むこともあって、宮を遊び場のようにして気ままに振る舞っていた。
「仕方のない若子どもめが!」と、大臣は気に入りの猟犬の群れでも見るように目を細めて私たちを叱った。私たちには大抵のことが許されていた。
そんな仕方のない遊び仲間の中心にいたのは、大臣の若い嫡男の奈良麻呂どのだった。
私たちは親しく交わり、花が咲いたといっては集い、散ったといっては集って、杯を交わしながら狩猟と恋の話ばかりしていた。
そんな仲間内の集まりで私が披露するのは専ら跡見での小鹿の郎女との短い情事の思い出ばかりで、すでに邸に迎えている撫子のことは口にしなかった。
表向きは命婦の大婆刀事に仕える女嬬として入れられた撫子は邸で静かに暮らしていた。「おとなしくってよう働く」と、大婆刀事はすっかり撫子の肩を持つようになっていて、私があまりに逢わずにいると、
「拾ったきりで放りっぱなしではあれも心細かろう。飽いた気持ちも分かるが、たまには様子を見てやれ」と、飼った鳥の世話を怠る童を叱るような調子で咎めてきた。
そう叱られると、私も自分がずいぶん酷いことをしてしまったように気が咎めたため、夏の終わりに、あれの住む房の軒下に名と同じ花を植えさせることにした。
「どうだ撫子。嬉しいか? 秋にはそなたと同じ名の花が咲くぞ」
訊ねるとあれは機を操る手を止め、黒々と震える眼で私を見上げてきた。
その眼が涙に潤んでいるように思われて私は狼狽えた。
「どうした。なぜ泣く。跡見へと帰りたいのか?」
板の間に膝と手をついて貌を覗き込みながら訊ねるなり、撫子ははっと瞬きをし、拳で眦を拭ってから首を横に振った。
「跡見に帰る家はない」
「なら何故泣く? 留女や妻がそなたに酷いことをしたのか? ほかの女嬬たちが虐めるのか? 辛ければ言え。なんでも言え。私が護ってやる」
見慣れぬ涙を見たためか、私の心には冷めかけていた熱い愛しさが蘇っていた。肩に両手をおいて顔を覗き込みながら訊ねると、撫子は目を逸らした。
「何も辛くはない。ただ――」
「ただ?」
「何でもない。何でもない」
撫子は顔を伏せたまま繰り返して機へといざり寄った。褪せた紅色の衣に包まれた左の肩に陽射しの斑が落ちていた。
私は寂しかった。
跡見ではあれほど近くにいるような気がしていた撫子が、今は触れ難い帳の向こうに行ってしまった気がしていた。
「撫子――」
私は限りない哀切を込めて呼んだ。
「歌ってくれ。私のために。また何か歌ってくれ」
すると撫子が顔をあげ、微かに笑ってから歌い始めた。
うぐいすの 卵の中に ほととぎす
ひとり生まれて 己が父に
似ては鳴かず
己が母に
似ては鳴かず
卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛び翔り
来鳴きともよし
橘の 花を居散らし
ひねもすに 鳴けど聞きよし
幣はせむ
遠くな行きそ 我がやどの
花橘に 住み渡れ鳥
歌は細々と震えがちで、巧みとは到底言えなかった。私はその歌が永久に終わらなければよいと思った――……




