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永遠の春  作者: 真魚
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第六章 子虫 1

 あの古い(しき)で、私と撫子はどちらも寂しく暮らしていた。

 望めばいつでも膚に触れられるのに、千引きの岩に隔てられた男神と女神ほどにも遠く離されているような気がしていた。


 秋の初めにあれは孕んだ。


 砌の際の撫子が薄赤い花を戦がせていた。



 同じ頃、宮の時守の鐘鼓が時ならず打ち鳴らされる事件があった。


私はそのとき中務省の北東にあった内舎人の詰め所の中庭で同輩たちと弓に興じていた。築地に並べた的を狙ってまさに弓弦を引き絞っていたとき、不意に頭の上から鐘の音が鳴り響いたのだった。

一体何が起こったものかとみんなして空を睨みあげていたとき、稲公に仕える童が駆け込んできた。

氏上大人(このかみうし)御主人(みうし)より言付けられた! 急ぎ名負いの門までいらせられよ!」

「何事だ一体! 何が起こっている!」

 駆けながら訊ねても童は足を止めなかった。


 各々の省庁の門から外へ出て心許なげに空を見上げる宮人たちを後目に朱雀門まで駆けると、衛門大尉の官服を纏った稲公が桃花馬を連れて待受けていた。

「若子よ急げ! じき門がみな閉じる!」

「稲公、何があったのだ!?」

「話はあとだ、時間がない! この戯けを佐保へと逃せ!」

 稲公が一息にまくしたて、背後に庇うようにしていた男の腕をつかんで私の前に放り出した。

 私はぎょっとした。

 男は八位の印である深い縹色の官服を纏っていた。

 その胸一面に鮮血の斑を散らし、両手を真赤に染めたまま虚ろな目を開いていたのだ。

「この男は――」

「同族の子虫だ! 追われておる!」

「では(しき)に匿うのだな?」

「そうだ、急げ――!」



 私は稲公に言われるまま、子虫なる男を同乗させて佐保の邸へ急いだ。

 二条大路を東へ駆け、佐保川の北岸を駆け上って邸まで戻ると、外の門の閂を掛けさせ、同族の他は決して通すなと門守に言い含めてから、血の臭いに気を昂らせた馬を厩に託した。


子虫は内の門から降りる石段の一番下に腰を掛けてぼんやりとしていたが、厩の奴が水を満たした桶を運んでくると顔を向け、はっと思い出したように腰の鞘から刀を引き抜いた。

 蕨手型の柄に藍の緒を巻きつけた幅の広い短刀だった。

 刃が濡れ濡れとした赤い血に塗れている。

 子虫は舌打ちをし、これも乾いた血のこびりつく両手を洗ってから、袍の裏地を惜しげもなく切り裂くなり、濡らした布で刃を擦り始めた。


「砥石を持たせるか?」

 声をかけると子虫が顔をあげ、夢から醒めたように瞬きをした。

「――よもや、氏上大人か?」

「おい、今まで何だと思っておった」

「衛門大尉さまの使部(つかいべ)かと」

云ってしまってからはっとしたように子虫は苦笑した。

「何と大きゅうなられて! 帥大納言(そちだいなごん)の弔いの折には愛らしい童子であられたのに」

「父の弔いに参じたのか?」

「ああ。石室まで碑の縄を曳き申した」子虫が懐かしげに眼を細め、手元の刃を見やって項垂れた。「大人(うし)、相済まぬ」

「詫びる前に語れ。そなた、名は子虫だったな? 位階と職分は?」

「従八位下で左兵庫の少属を務めている」

「なかなかの官職だな。そんな一角の官人が何故血まみれで官に追われる?」

「宮中で人を斬った」

「――先に抜いたのは?」

「私だ。彼奴は刀さえ帯びていなかった――」

 子虫は腹の底から絞り出すような声で云い、短刀の刃を掴むなり、蕨手の柄を私に差し出してきた。

「大人よ、宮から求められたらこの子虫の骸を差し出して下され。師大納言の弔いからこの方、私は一度も拝賀に参らなかった。そんな忘恩の輩が、どうして今さらおめおめと御佩(みはかし)に縋りつけよう」

「子虫、戯けたことを申すな!」と、私は亡き父の声音を真似て咎めた。「官人が内の拝賀より公事(くじ)を先立てるのは当然ではないか! この邸に逃れてきたからには、そなたの命はこの家持が預かる。そなたは大伴の子であり、私は子らの(かみ)なのだからな」

 肩に手を置いて告げると、子虫は目を潤ませて頷いた。

「――上よ、仰せのままに」

「うむ」

 私はまた父に倣って頷いてみせた。

「ではまずその血腥い衣を替えて井戸端で水を浴びよ。そのなりで内へ入られたら女どもが怯える」


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