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永遠の春  作者: 真魚
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第四章 荒神 1

 あの明るく短い山辺の春を、私は今も懐かしく思う。

 唐紅に彩られた筑紫の春とは違う、淡い薄紅の山桜の春、水辺に咲く黄金(きん)の山吹の春だ。

 撫子はいつも花のなかにいる。

 記憶のなかにのみ開く不朽の花のなかに。


 

 心愉しい短い春はそう長くは続かなかった。

 そのうちに垣の卯の花が咲き、厚く繁った青葉のうちから不如帰の初音が聞こえるころ、坂上から早馬(はゆま)が馳せてきた。

斎姫の叔母が山背の賀茂の社を詣でると言い出し、家人の止めるのも聞かずに出かけてしまったのだという。


「四月中日の賀茂の祭というと、あの荒々しい騎射(のりゆみ)で名高い?」と、祭祀(まつり)のことなら何でもよく知る留女が愕いた。「斎姫があれに行ってしまったのか? あれはしばしば人死にさえ出る危うい祭祀と聞くが」

「そうだ。そのため宮でも再三禁じられてきたのだが、賀茂の一族はちっとも聞かずにいまだに続けているらしい」と、稲公が額を抑えて溜息をついた。

「なんでまた斎姫はそんなものに行ってしまったのだ?」

 私が呆然として訊ねると、稲公はさらに深いため息をついた。

「報せた者の話では、疫病を鎮める祈りを捧げるためだそうだ。荒ぶる神を鎮めるためには、同じほど荒ぶる神に()がねばならぬと言うてな」

「留女よ、そういうものなのか?」

「そういうものなのだ」

 同母妹は力強く断言した。

 そういう事情となっては氏上であっても何も口は出せなかった。

 私たちはしばらく案じながら待ったが、叔母が暴れ馬に蹴られて死んだなどという知らせは幸い届かなかった。


 そうして安心しかけた頃に次の報せがやってきた。

 あの驚天動地の報せが!

私はそのとき同母弟と的場で弓を競っていた。そこに稲公が駆けつけてきたのだった。

「氏上大人、佐保から早馬だ!」

「なんだ、斎姫になにか!?」

 息せき切って訊ねると、稲公は首を横に振った。

「斎姫は大事ない。ことなく賀茂を詣でて、今は淡海を見に足を伸ばしているらしい」

 私と同母弟は胸を撫でおろしたが、稲公の顔は蒼ざめていた。

「――稲公、斎姫でなければ大婆刀事か? 話せ。誰に何があったのだ」

 すると稲公は見えない耳目を恐れるように素早く左右を見回してから、耳元に顔を近づけて小声で囁いた。

「北家の長が疫病で死んだそうだ。賀茂の祭の二日後に」

「北家というと――藤原の房前卿(ふささききょう)か?」

「そうじゃ」と、稲公が頷いてから、ふと眉をよせて同母弟を見やった。「書持は藤原北家を知っているか?」

「当たり前だ!」と、同母弟がいつもの癖で弓の背をコツコツと叩きながら吼えた。「御叔父はこの書持を童子と思うてか? 藤原北家と言ったら――」と、同母弟は考え込んだ。

 稲公が笑って眉をあげる。

「知っているのか?」

「おう知っているとも」と、書持は言い返した。「ええと、ああ――……」

 口ごもる同母弟を尻目に稲公がニヤニヤ笑っていた。

 私は見かねて口を挟んだ。

「稲公、われら兄弟はむろん知っている。南家、北家、式家、京家の藤原四家の一つで、浄御原の帝から数えて四代の帝に仕え奉って五千戸の食封を賜ったかの淡海公(たんかいこう)、藤原不比等公の次男たる房前卿の御家であろう?」

「そうだ。――正しくは、不比等公が仕え奉ったのは五代の帝だがな」と、稲公爵が少しばかり悔しそうに訂正した。

「五代か!」と、素直な気質の同母弟が素直に愕いた。「神代でもないのに、一人の臣が五代の帝に仕え奉ったのか?」

「そうだ」と、稲公が得意そうに頷いた。「それほど長く帝に仕えた臣は、神代ならばいざ知らず、今の世には淡海公しかなかった。だから、今の世ではこれほどに藤原の力が強くなったのだ。今の大君の母御は淡海公の一番上の姫、大后は末の姫だ。長男の武智麻呂公は右大臣、亡くなられた房前卿は民部卿、麻呂卿が式部卿で宇合卿は兵部卿――しかもみな参議を兼ねておる! 参議は八人しかないのに!」

「え、では八人のうち四人が藤原であったのか?」

「そうだ。今まではな。だが今は三人になった」

 稲公が厳しい顔で云った。

 頭の上から燦々と明るい夏の陽が射しているというのに、私は背に奇妙な寒気が走るのを感じた。

「――稲公よ、房前卿は何か奇怪な死に方でもしたのか?」

「いや、疫病だ」

「ならば何故そのように張りつめた顔をしている? 何をそう怯えているのだ?」

 訊ねると稲公が愕いたように目を瞠った。

「――分かるのか? 私が怯えているのが」

「顔を見れば誰にも分かろう。稲公、話せ。何を懸念している」

「……斎姫のことよ」

「御叔母がどうしたというのだ」

「氏上大人、先ほど告げたことをお忘れか? 房前卿はな、賀茂の祭祀の二日後に死んだのだ。――大伴の斎姫が内々に賀茂の荒神に祈りを捧げた、そのちょうど二日後にな」


 言葉が終わると沈黙が落ちた。

 周囲の木々から降り注ぐ蝉の声が耳を裂くように大きく聞こえた。


「それは、御叔母が北家の長を呪い殺したと、そう責められる懸念があるということか?」

 恐る恐る訊ねると稲公は頷いた。

「ああ。あるかもしれぬ」

 私は足元の大地が不意にひび割れてしまったかのような恐怖を感じた。

 稲公も怯えていた。

 書持も怯え始めている。

 

 こんなとき亡父ならどうしただろうか?

 父なら――


 記憶の中の父の姿をしばらく探ってから、私はわざと声を立てて面白そうに笑ってみせた。

「なんだ、何を言い出すかと思えば! 杞憂もほどほどにせい! 藤原四家の長がみな死に絶えたならまだしも、房前卿御一人ではないか! 御叔母が呪うならそんな半端はなさるまい。やるからには全員やろうて。そうだろう書持?」

「あ、ああ、そうじゃな兄上!」と、同母弟が飛びつくように答えた。

「さて、書持、続きはどちらからか? 稲公、ひとつ指南を頼む。よう見ていてくれよ?」

 弓弦を鳴らしながら頼むと、稲公は幾度も瞬きをし、不意に笑いながら泣き出した。

「ああ、ああ氏上大人! 仰せのままにしようぞ!」

 答えてから、あれは何を思ったかいきなり平伏した。

「氏上大人よ、蘇りなすったなあ! これぞまことの氏上大人だ。大久米主の末裔たる靫負の長の上だ」



 私はいつでも演じていたのだ。

 私の心の中の父を。



 もしかしたら父もそうであったのかもしれないと、この頃思うことがある。

 筑紫から帰ったあと、まだ生々しい栴檀の切株を撫でながら涕ばかり流していたあの小さな老人――あれこそがむき出しの父の姿で、族人に見せていた豪放磊落な益荒男の姿は、佐保大納言と呼ばれた祖父の保麿の姿をそのまま写していただけだったのかもしれないと。

 ――もしかしたら、私たちは遠い父祖である大久米主の御代から、そうして代々父の姿を映し続けていたのかもしれない。此岸の何処にもありえない、畏れを知らぬ大きな益荒男の姿を――……

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